103話
「……それで、キリル様の安否は」
ラムズが問うた。
その顔には、普段見せる策士としての冷徹な仮面ではなく、わずかに親としての情愛が滲み出ていた。
「残念ながら」
リデルは淡々と応じる。
「私が言葉を交わしたのは、部屋の外で衛兵を務めていた男だ。その後、キリルが生きて部屋から出てくるのも、あるいは死体が運び出されるのも目撃してはいないらしい」
幕舎の空気が、いっそう重く沈み込む。
誰もがその報告を聞き、キリルの死を予感せざるを得なかった。絶望的な状況から鑑みれば、それ以外の結末など思い浮かばなかったからだ。
「……だが」
リデルは畳みかけるように言葉を継いだ。
「キリルをただ待っていたところで、奴が自力で戻ってこないことだけは確かだ。そして……もし奴が生きているのだとすれば、我々が動かない限り助け出すこともできない」
居並ぶ諸将が一斉にハッとしてリデルを見つめた。
その瞳に宿る光を注視する。
それは決して無責任な希望的観測などではなかった。
リデルは本気であった。心からキリルの生存を信じているのだ。それほどまでに、リデルはキリルという男の能力と執念を高く評価していた。自らの目で遺体を確認するまでは、決して死を受け入れるつもりはなかったのだ。
しばらくし、ラムズがおもむろに立ち上がると、まっすぐにリデルの前へと進み出る。
「……グランツ陣営のため、そして何よりキリル様のため」
ラムズは静かに、しかし力強く告げた。
「我々には、速やかに軍事行動を起こす以外の選択肢はございません」
一拍の間。
「どうか、キリル様に代わり、リデル様が我ら全軍の最高司令官としてお立ちいただけないでしょうか」
「私はバートン家を廃嫡された身だ」
リデルが静かに返す。
「はい」
ラムズは深く頷いた。
「しかし廃嫡とは、あくまで家督の後継候補から外れたというだけのことに過ぎません。リデル様がバートン家に籍を置いておられることも、ましてやそのお血筋まで否定されるものではないのです。我らバートン家の藩屏は、バートン家のお血筋を引くお方にこそ指揮を仰ぐのが理に叶うというもの」
ラムズは言葉を重ねる。
「そして……何よりも」
ラムズは深々と頭を下げた。
それを見たガルヴェもまた、即座に膝をつき、頭を下げた。
他の諸将もそれに続いた。ここに集うすべての者が、リデルに向けて平伏した。
「リデル様の類まれなるご能力、そしてそのご意志に対し、我らは一片の疑念も抱いておりませぬ」
ラムズの声が響く。
「どうか……この大役をお引き受けください」
リデルは、眼下に広がるその光景を静かに見つめていた。
しばしの静寂。
「……承知した」
重厚な声が落ちる。
「キリル殿に代わり、諸君らの指揮権はこの私、リデル・バートンがお預かりしよう」
リデルは促されるように、中央に据えられた最高司令官の椅子へと腰を下ろした。
その佇まいはまさに堂に入ったものであった。それも道理であろう。この場にいる者の誰もが、幼き日のリデルが見せた神がかり的な武功と威厳を間近で目撃してきたのだ。中には当時の光景を思い出し、胸を熱く焦がす者すらいた。
リデルは全員を見渡し、告げた。
「諸君。何度も重ねて言うが、我々には残された時間が少ない。当初の計画こそ破綻したが、山脈の敵防衛戦を迅速に突破せねばならぬという目的に変わりはないのだ」
一拍置き、鋭い眼光を放つ。
「よって我々は直ちに行動を開始し、三日以内に西の主要街道を突破する。そして、逆賊の首魁・ラングレー公が立て籠もる本拠地クロンドへの突入を果たす」
───
アーキバス伯爵はここ数日、生きた心地がしていなかった。
間の悪いタイミングで突如として現れた「カリム」という男によって、自らが思い描いていた完璧な段取りをすべて台無しにされたからだ。
カリムは「偶然の遭遇」を装っていたが、アーキバス伯は絶対に違うと踏んでいた。
誰かが自分の裏切りの可能性を察知し、あの男か、あるいはラングレー公に吹き込んだに違いないのだ。
犯人の見当はついていた。
東の主要街道を死守する宿敵、「バヨネッタ伯」である。
先祖代々、領地の境界線を巡って血で血を洗う争いを続けてきた不倶戴天の敵。グランツ軍の北部本領進出という共通の危機を前に一時的に停戦してたものの、長年の鬱積した遺恨が消え去るはずもなかった。
今回、キリルに寝返ろうと画策したのも、その遺恨が遠因となっていたのだ。
先の攻勢で重要拠点を次々と失い、ラングレー公の勢力が風前の灯となった今、いち早く泥船から飛び降りて宿敵バヨネッタ伯の領地を奪い取る──それこそが渡りに船の妙案だとほくそ笑んでいたのだ。
しかし今や、最悪の逆風が吹き荒れていた。
不可抗力とはいえ、バートン軍の総司令官であるキリルを罠に嵌めて捕らえる形となってしまった。彼を探して訪ねてきた使者も、全員口封じで処理してしまった。今更グランツ陣営に寝返るなど、不可能である。
かといって、このままラングレー公のもとに留まるのも極めて危険であった。カリムはあのように言っていたが、裏切り未遂がバヨネッタ伯やラングレー公に確定した形で知れ渡った以上、自らの立場はまさに薄氷の上に等しい。
このままでは地位も領地も、そして命すら危ういのだ。
(……何としてでも武功が欲しい。この失態と過ちを帳消しにできるほどの、決定的な大武功が……!)
まさにその時──扉がけたたましい音を立てて開いた。
「の、ノックぐらいせんかッ! 私は今、御家存亡にきわる熟考の最中なのだぞッ!!」
アーキバス伯は小物らしく甲高い声で怒鳴り散らした。
しかし、駆け込んできた部下はその一言をあっさりと無視して叫んだ。
「──急報にございます! レイオンに着陣していた敵軍に動きがありましたッ!!」
アーキバス伯はガタリと机を激しく揺らしながら立ち上がった。
「ど、どちらに向かっているのだッ!?」
「バヨネッタ伯が守る、東の主要街道方面へと向かっております!」
それを聞いたアーキバス伯は、ホッと安堵の息を吐きながら椅子に座り直した。
「……そうか」
自分の方へと敵の主力軍が向かっていない──とりあえずはそれだけで十分であった。
「それと……もう一つ報告すべきことがございます」
部下が言葉を重ねる。
「なんだ」
アーキバス伯は再び横柄な態度を取り戻して応じた。
しかし──部下の口から出た追報を聞いた瞬間、アーキバス伯の表情が一変した。
「それは本当か」
部下が無言で頷くと、アーキバス伯の口元はみるみると大きく、下品な歓喜へと歪んでいた。




