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102話

キリルが帰還せぬ間も、ラムズたちは手をこまねいていたわけではなかった。

軍議から三日が経過した時点で、ラムズは異変を察知した。

すぐさま手練れの配下を三回アーキバス伯爵のもとへ派遣した。

しかし──生きて戻った者は誰一人としていなかった。

そしてついに、作戦開始の当日の朝を迎えた。

キリルは戻らなかった。

名目上とはいえ、病床にある義父ジョルジュに代わり、バートン家嫡子として軍を指揮すべきキリルの不在は、陣内に大きな混乱を引き起こしていた。

今後どのような方針を取るべきか。それを審議すべく、主要な諸将が再び顔をそろえていた。

その場に、リデルの姿はなかった。

四日前から、誰一人として彼の姿を見かけていなかったのだ。

しかし、司令官行方不明という異常事態の中にあっても、リデルの安否を気遣う者は皆無であった。それはある意味で、絶対的な信頼の裏返しでもあった。リデルの常軌を逸した生命力を、バートン家の家臣団は嫌というほど肌で知っていたからである。

 

「……キリル様の行方も捜さねばならぬが、まずは作戦を開始せねばなるまい」

 

ガルヴェが重々しく口を開いた。

 

「道理から言えば、軍務全般を統括してきた私が、この軍の指揮を執るべきかと考える」

 

それは紛れもない事実であった。最年長であり、提示できる爵位も高い。実直な人物として、軍の指揮権を握る資格は十分に持っていた。

しかし──「適任か」と問われれば、誰もが首を傾げざるを得なかった。

ガルヴェは良くも悪くも現場の戦術指揮官である。全軍を率いる司令官に不可欠な「大局的な戦略眼」という点においては、自他共に力不足であると認めざるを得なかったからだ。

 

「……待たれよ、ガルヴェ殿」

 

ラムズが冷ややかな声を挟み込む。

 

「失礼ながら……貴殿はキリル様の描いた戦略構想を、真に理解されているとお考えかな?」

 

挑発的な眼差し。

 

「目の前の敵を倒すことと、一つの国家を打ち滅ぼすこととでは、見据える視点がまるで異なる。軍の全権は、これまでキリル様の参謀として共に盤面を動かしてきた我が引き継ぐべきだと思うがね」

 

これもまた、一理ある主張であった。

ラムズはキリルの腹心として陰から幾多の策謀を巡らせ、バートン軍の連戦連勝を支えてきた実績がある。能力に疑いの余地はなかった。

しかし彼には、圧倒的に「人望」が欠けていた。

かつて主家たるバートン家を乗っ取ろうと企んでいた事実は、この場にいる全員が知るところである。ガルヴェをはじめとする古参の家臣たちは、今なおこの男に対して警戒の解きようがなかったのだ。

これまではキリルが緩衝材となり、双方の衝突を辛うじて抑え込んできた。

だが、そのキリルが不在となった今、ラムズが直接的に台頭するとなれば話は全く別である。

会議室の空気は、一瞬で凍りついた。

ガルヴェとラムズは互いに視線を交錯させたまま、一歩も引かずに口を閉ざす。

誰もが、胸の内で全く同じ思いを抱いていた。

 

(……この場に、あの方(・・・)がいてくれたなら)

 

冷たく睨み合う二人もまた、おそらく同じ思いに焦がれていたはずであった。

その時──重々しい扉が唐突に開いた。

全員の視線が、一斉にそこへと注がれる。

 

「リデル様……ッ!?」

 

ガルヴェが弾かれたように声を上げた。

 

「今まで一体どこへ行っておられたのですか!……それに、そのお姿は……!」

 

現れたリデルの身なりは、あまりにも惨めなものであった。粗末な服を身に纏い、全体に泥と煤汚れがべったりと付着している。

 

「……帰るのが遅くなってしまい、すまない」

 

リデルは何事もなかったかのように平然と言い放った。

 

「少しばかり、間者働きをしてきた」

  

「まさか……」 

 

ラムズが動揺を隠しきれずに問う。

 

「アーキバス伯爵の陣営まで潜入してきたとでも仰るのですか!?」

 

「その山麓にある小さな集落までだよ」

 

リデルはあっけらかんと答えた。

 

「その村の酒場で、アーキバス伯の兵から話を聴き出すことができた。……おかげで、キリルの行方も判明したよ」

 

リデルは言葉を続ける。

 

「奴はどうやら……不慮の事態に見舞われたようだ」


───

 

──二週間前。

山岳地帯に位置するアーキバス伯爵の陣営。

キリルは僅かな供回りだけを連れ、伯爵のもとを訪れていた。

胸中にあったのは、揺るぎない「自信」である。

これまで幾度となく相手の隙を突き、調略を成功させてきた実績があった。領地の安堵と隣領バヨネッタ伯の領地割譲を提示した際、アーキバス伯の態度は明らかに揺れていたのだ。確信に近い手応えがあった。

この調略さえ成功すれば、バートン軍は損害を出さずに難所を踏破できる。敵が混乱している隙にクロンドのラングレー公を叩き潰せば、北部本領の完全平定は目前となるはずであった。

その武功は、グランツ陣営内においても群を抜く傑出の功績となる。

何より──リデルが東部で大敗を喫した今、自分自身の手でこの戦果を挙げたいという強い功名心があった。

案内された応接室で待つ。

しかし、アーキバス伯は一向に姿を現さなかった。

最初は平静を装っていたキリルであったが、時間が経過するにつれ、肌を刺すような異常事態を察知し始める。

抑えきれない苛立ちが、表情に滲み出た。

 

「……此度の話は不成立だ! アーキバス伯には『戦場で雌雄を決しよう』とお伝えいただこうッ!」

 

吐き捨てるように言い放ち、立ち上がって部屋を去ろうとした。

その瞬間、扉が唐突に開く。

現れたのは、アーキバス伯であった。

風評違わぬ、優柔不断さが滲み出る頼りない表情。今もどこか引きつったような、薄気味悪い笑みを浮かべている。

キリルが詰問しようと一歩踏み出した、その時であった。

──遅かった。

アーキバス伯の背後から、見慣れぬ柄の戦闘服に身を包んだ男たちがなだれ込んでくる。抗う隙すら与えられず、キリルは力任せに机の上へと組み伏せられた。

 

「……裏切ったのかッ!! アーキバス伯ッッ!!!」

 

キリルの悲痛な叫びが響く。

アーキバス伯が一瞬、その威圧感に気圧されて後ずさった。

すると、男たちの背後から一人の男が悠然と歩み出てきた。一団の隊長らしき男である。

彼は青ざめるアーキバス伯の肩を、親しげに軽く叩いた。

 

「……悪く思いなさんなよ、バートン家の若旦那さん」

 

落ち着き払った声であった。

 

「このアーキバスさんはね、本当にラングレー公を裏切ってあんたに乗り換えるつもりだったんだよ。ひどい話だろ? 何も知らずに増援としてやってきた俺たちを、酒と女で油断させて皆殺しにしようとしていたんだからな」

 

男は煙草を吐き出しながら言葉を重ねる。

 

「まあ、見ての通り返り討ちにしてやったがね。この『ゾルベ旅団』と、カリム様がな」

 

カリムは怯えきったアーキバス伯の肩を抱き寄せた。

 

「しかし大手柄だぜ、アーキバスさん。偶然とはいえ、敵の総司令官をあっさり捕らえちまったんだからな。今やグランツ陣営で飛ぶ鳥を落とす勢いのバートン家の……ああ、違うか。『じゃない方』とはいえ、連中に決定的な打撃を与えたのは間違いない。俺たちのボーナスも確定だ。だから今回の裏切り未遂は……『あんたが一計を案じた狂言だった』と、ラングレー公には報告しておいてやるよ」

 

一拍の間。

 

「……だからさ、俺たちと仲良くやろうぜ。な?」

 

声こそ穏やかであったが、その瞳の奥には底知れぬ漆黒の殺気が宿っていた。

 

「あ、ああ……! こちらこそ、よろしく頼む……!」

 

アーキバス伯は恐怖に引きつりながら頷いた。

机に組み伏せられたまま、キリルはそのやり取りの全てを聞いていた。

胸の内が、屈辱と憤りでぐちゃぐちゃに引き裂かれていく。

自身の緻密な計略が、偶然と不運によって無残に潰されたこと。

無様に囚われ、生殺与奪の権を握られていること。

そして何より──年下の義兄。リデルの名を引き合いに出され、『じゃない方』と蔑まれたこと。

高いプライドを持つ彼にとって、その屈辱は死以上の苦痛であった。

 

「貴様ぁぁぁッッ!!!!」

 

キリルは喉を切り裂かんばかりに叫んだ。

 

「殺してやる! 殺してやるぞッッ!!!!」

 

飢えた野獣のごとき、血を吐く叫び。

 

「……喚くなよ、ボーイ」

 

カリムは冷淡に言い放った。

 

「死ぬのは、お前だ」

 

一拍の間。

 

「……恨むなら、自分の不運と、お前を標的に指名した依頼主(ゲオルクス)を恨むんだな」

 

直後──無機質な銃声が、密室に激しく響き渡った。

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