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10話

それから、さらに一年が過ぎた。

バートン領はまずまずの平穏を保っていた。麦の収穫量は二年連続で過去最高を更新し、直轄領の灌漑網はほぼ完成していた。フリンテの自前生産も、小規模ながら軌道に乗り始めていた。

だが、領の外――連合帝国全体は、その平穏とは正反対の方向へと急速に転がり始めていた。

最初の火種は、帝都だった。

それまで次期皇帝として最有力視されていたのは、第一皇子ローデンス・ベルドルナだった。帝室内紛の混乱が続く中、彼は帝都政権への反発を強める東方諸州を力でねじ伏せ、その武功をもって自身の地位を不動のものにしようと考えた。

十万の兵力を動員したローデンスは親征を行い、自ら軍を率いて東方へ進軍した。

 

しかし、結果は惨敗だった。

東方諸州の連合軍は、皇室の威光が衰えていることを見透かしたかのように一斉に蜂起し、ローデンスの軍を各地で打ち破った。帝都に届いたのは、勝利の報ではなく、皇子自らが戦線を放棄して撤退したという無様な敗報だった。

その知らせが帝都に届いた直後――第二皇子が動いた。

兄の失態を絶好の機会と見た第二皇子は、自身の親衛隊を率いて帝都を制圧。皇帝の名のもとに「次期皇位継承者は自分である」と一方的に宣言し、帝都の政治機構を実質的に握ってしまった。

これに、当然、第一皇子ローデンスが黙っているはずもなかった。

 

東方での敗戦で力を落としていたとはいえ、ローデンスにはもう一つの後ろ盾があった。北方軍閥に強い影響力を持つ第三皇姫である。彼女は第二皇子の単独行動を「帝室の権威に対する明確な反逆」と断じ、自らの北方軍閥を動かしてローデンスと連携し、帝都へと進軍を開始した。

 

帝都を巡る親衛隊と北方軍閥の攻防は、三ヶ月にも及んだ。

激しい市街戦は、皇宮を含む帝都の中心部を容赦なく焼き払った。最終的にどちらが「勝者」だったのか、報告書を読むリデルでさえ判然としないほどの混戦だった。ただ、確かなことは一つだけだった。

帝都は、灰燼に帰した。

皇室の権威も、帝都という中央そのものも、もはや機能していなかった。皇帝の名で発せられる勅令には、もはや誰も本気で取り合わなくなっていた。中央が消滅したという事実だけが、帝国全土へ決定的な合図として伝わっていった。

その合図に応えるように、各地の公王たちが次々と動き出した。

ローズヴェル公とヴェーデル公の対立は、もはや小競り合いの域を超え、本格的な国境戦争へと発展していた。他の地域でも、これまで水面下に抑えられていた領土争いや、大諸国時代から続く旧来の遺恨が一斉に表面化していった。

帝国という巨大な箍が外れた途端、各地の封臣たちが、まるで堰を切ったように武力をもって互いに牙を剥き始めたのだった。

執務室の机に積まれた報告書を前に、リデルは静かに地図を見つめていた。

地図上には、すでに複数の戦線を示す印が刻まれていた。帝都を中心とした焦土。東方諸州の独立的な動き。北方軍閥の台頭。ローズヴェル公とヴェーデル公の国境線――それは、もはや「線」ではなく、絶え間なくうねる「波」のように見えた。

 

「コール」

 

「はい」

 

「ローズヴェル公の現在の状況を、もう一度詳しく」

 

「はっ――ヴェーデル公はローズヴェル公との対決姿勢を鮮明にしており、近々、大規模な武力衝突に至るのはほぼ確実です。ローズヴェル公も傘下の封臣に対し、これまで以上の支援を求めてくる可能性が高く、明日のジョルジュ様とラムズ様が出席される領邦会議もそれが目的かと存じます」

 

リデルは、わずかに目を細めた。

一年前、ローズヴェル公からの軍役要請を、代納交渉で先延ばしにした。あのときは、まだ余裕があった。だが今、帝国全土が動乱に飲み込まれていく中で、その「先延ばし」がいつまで通用するかは分からなかった。

 

(いよいよ本番だな)

 

前世の記憶が、静かに警鐘を鳴らしていた。中央の権威が崩壊し、地方が独自に武力を蓄え始める――この種の混乱は、最初の数年こそ緩やかに見える。だが、ある時点を境に、雪崩のように加速する。今が、その分水嶺に近いのかもしれない。

 

「リデル様」

 

リーフィアが、静かに声をかけた。

 

「私たちも、戦乱とは無関係ではいられないのでしょうか」

 

リデルは、地図から視線を上げた。

 

「ああ。残念ながら、争いを知らない無垢な存在ではいられないな」

 

その声には一切の迷いがなく、どこか熱に浮かされているかのようでもあった。

 

 ───

 

三日後、バートン邸の会合の間には、緊迫した空気が満ちていた。

長卓を囲む家臣たちの顔は、一年前のあの増税議論の時とは、明らかに違う色を帯びていた。あのときの議題は税のやりくりだったが、今回は戦そのものであった。

 

「報告いたします」

 

ラムズが、卓上に書状を広げた。

 

「先日、ローズヴェル公主催の領邦会議が開かれました。議題はヴェーデル公との決着にございます。これまでの小競り合いに終止符を打つべく、公は傘下の全封臣に対し、総攻撃への参加を命じられました」

 

会議という形を取りつつも、もはやそれは「要請」ではなかった。ラムズの口調にも、それを裏付ける緊張が滲んでいた。

 

「我がバートン家への割り当ては、兵力一千。ならびに、国境沿いに位置するトルデラン砦の攻略にございます」

 

卓を囲む家臣たちの間に、低いざわめきが走った。

トルデラン砦。リデルは、地図上のその位置をすでに記憶していた。ヴェーデル公領との国境を扼す、堅固な要塞だ。山がちな地形に守られ、攻め落とすには相応の犠牲を覚悟しなければならない場所だった。

 

「兵力一千、ですか……」

 

武官のガルヴェが、低く呟いた。

 

「我が領で動員可能な常備兵力は、せいぜい七百。残りは農兵を徴用するしかありませんが、トルデラン砦攻略のためとあれば致し方ありますまい。我々にとって、まさに総力戦になりますな」

 

かろうじて自力で座っていたジョルジュが、咳を一つ、噛み殺すように抑えてから口を開いた。

 

「今回の戦、私も出陣する」

 

部屋の空気が、一瞬で凍りついた。

 

「父上……!」

 

リデルが、思わず声を上げた。

この一年で、ジョルジュの病状はさらに悪化していた。日常の歩行さえ介添えがなければ難しく、馬に乗ることはおろか、長時間の会議に座っていることすらもはや限界に近いはずだった。

それを誰よりも理解しているはずの本人が、自ら陣頭指揮を申し出ている。

 

「ジョルジュ様、しかし……」

 

ラムズもさすがに表情を変えた。

 

「御病状を考えれば、無理を押して戦地に赴かれるのは――」

 

「いや」

 

ジョルジュは震える手で卓を押さえながら、ゆっくりと身を起こした。

 

「私は、バートン伯爵家の当主だ。これまでの一年、内政は聡明なる我が息子リデルにすべてを任せてきた。それは……正しい判断だったと、私自身が一番よく分かっている」

 

ジョルジュの目が、横に座るリデルへと向けられた。その視線には、これまでにない強い光がこもっていた。

 

「だが、戦は別だ。一族の存亡をかけた戦に、当主が出陣しないということがあってはならない。それが――家臣たちの士気にも、領民への示しにも繋がる」

 

リデルは、何も言えなかった。

その理屈は、残酷なまでに正しかった。当主が病に伏したまま、十三歳の息子だけを戦場に立たせる――それは、いかにリデルがこれまで実績を積んでいようとも、内外に対して「バートン家には戦える当主がいない」という印象を決定的なものにしてしまう。

弱みを見せれば、たとえ身内であっても食われる下剋上の世なのだ。それは、内外の敵にとって最も都合のいい状況を作り出すことを意味していた。

 

(父上は、それを分かっているのだ)

 

病に侵された体で、最後の意地を見せようとしているのか。それとも、それ以上の何かを。

ジョルジュは、ゆっくりと卓を見渡した。

 

「私が陣頭に立つ。だが、戦の実務は私一人では到底担えない。そこで――」

 

一拍、置いた。

 

「副官として、ラムズ、そしてリデル。二人を指名する」

 

会合の間に、再び重い静寂が落ちた。

ラムズがわずかに目を細め、リデルの方へと視線を流した。

リデルもまた、その視線を正面から受け止めた。

 

「……御意」

 

ラムズが、まず深く頭を下げた。表向きは、何の異論もないという態度だった。

リデルも、静かに頭を下げた。

 

「承知いたしました、父上」

 

その声に、迷いはなかった。

そして内心では、すでに別の計算が動き始めていた。

 

「部隊編成と砦攻略の準備に、すぐにとりかかります」

 

リデルは地図を引き寄せながら、静かに言った。

窓の外、薄く霞んだ空の下で、収穫を終えた畑が、これからやってくる戦の前触れのように静かに広がっていた。

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― 新着の感想 ―
 ……分水嶺ですね ^^; ラムズ、如何出る? 内通か?裏切る?事故主暗殺?漁夫の利? 不穏、、、 (/´Д`)/ハラハラ〜
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