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第12話「五年ぶりの、その名前」

 黒塗りの馬車が、村の入口に、止まったのは、夕暮れだった。


 商人を撤退させた祝いの準備で、広場は、賑わっていた。串に刺した魚を焼く煙。エミが運ぶ酒樽。ミアの笑い声。その、温かい喧騒の真ん中に——四頭立ての、艶やかな馬車が、ぬっと、影を落とした。


 賑わいが、波が引くように、静まっていく。


 村人たちが、何事かと、振り返る。誰も、こんな立派な馬車を、見たことがなかった。車体に刻まれた、翼を広げた白い狼の紋章が、最後の夕陽を受けて、金色に、光っていた。


 フィナは、串を手にしたまま、その紋章を、見た。


 ——心臓が、止まった。


 手から、串が、滑り落ちた。かしゃん、と、乾いた音が、足元で鳴った。だが、フィナの耳には、届いていなかった。


 全身から、血の気が、引いていく。指先が、唇が、冷たくなる。立っているのが、やっとだった。


「フィナさん?」隣のエミが、その異変に、気づいた。「どうしたんですか、顔が、真っ白——」


 フィナは、答えられなかった。目が、馬車の扉から、離せなかった。


 ベルが、肩の上で、低く、囁いた。


「……来ましたね」


 その声は、フィナにしか、聞こえなかった。


-----


 馬車の扉が、開いた。


 最初に降りたのは、護衛の騎士だった。磨かれた鎧が、夕陽を、鈍く跳ね返す。村人たちが、ざわめいた。


 そして——その後ろから、ひとりの青年が、降り立った。


 二十代半ば。仕立ての完璧な、白い軍服。腰に、細身の剣。乱れひとつない、整った金髪。だが、その顔は、ひどく、やつれていた。目の下に、隈。頬が、こけている。長い旅の疲れだけでは、説明のつかない、深い、消耗の色。


 青年は、馬車を降りると、広場を、ゆっくりと、見回した。


 その視線が、賑わいの跡を、串焼きの煙を、村人たちの顔を、一つずつ、なぞっていく。何かを、探すように。


 そして——その目が、止まった。


 串を落としたまま、立ち尽くす、ひとりの娘の上で。


 時間が、止まった。


 青年の、やつれた顔が、ぐにゃり、と歪んだ。信じられないものを見るように。幻を見ているのではと、疑うように。瞳が、見開かれ、震える。


「……アル、ナ……?」


 掠れた声が、広場の静寂に、落ちた。


 村人たちが、ざわついた。アルナ。聞いたことのない、名前。誰のことだ。みなが、青年の視線の先を、追う。


 その先に、いるのは——フィナだった。


「フィナ、ねえちゃん……?」ミアが、不安げに、見上げた。


 フィナは、答えなかった。答えられなかった。喉が、貼りついて、声が、出なかった。


 青年が、一歩、踏み出した。よろめくように。それから、堰を切ったように、駆け出した。騎士が「殿下」と制止するのも、振り切って。


「アルナ……っ、アルナ! 本当に、アルナなのか……っ!」


-----


 青年は、フィナの、目の前で、止まった。


 手を伸ばしかけて——けれど、触れる寸前で、止めた。まるで、触れたら、消えてしまうと、恐れるように。


 間近で見る、その顔は、フィナの、記憶よりも、ずっと、老いていた。五年。たった五年で、人は、こんなにも、やつれるのか。


「……兄、様」


 フィナの唇から、五年ぶりの、その呼び方が、こぼれた。


 その瞬間。


 青年の——長兄の、目から、ぼろぼろと、涙が、あふれ出した。大の男が、軍服の、王子が、人目も、はばからず。


「生きて……っ、生きて、いたのか」声が、ぐしゃぐしゃに、潰れていた。「五年だ。五年、ずっと、探した。お前が、出ていった夜から、一日も、欠かさず……っ、もう、どこかで、野垂れ死んでいるのかと、何度も……っ」


 フィナの胸が、締めつけられた。


 ——探していた。五年間。ずっと。


「方々の、領地に、人をやった。商隊に、紛れて、自分でも、何十もの村を、回った」長兄は、軍服の袖で、乱暴に、涙を拭った。だが、すぐに、また、あふれた。「お前の好きだった、菓子を、馬車に積んで……いつ、見つけても、渡せるように……」


 その言葉に、フィナの目の奥も、熱くなった。


 憎めたら、楽だった。あの日、ルクを処分すると決めたとき、誰の声も、聞いてくれなかった人たち。だから、逃げた。憎んで、逃げたはずだった。


 なのに——この涙を見て、湧き上がってくるのは、憎しみでは、なかった。


 もっと、ぐちゃぐちゃで、もっと、苦しい、何かだった。


「……どうして」フィナは、やっと、声を、絞り出した。「どうして、今さら、見つけられたんですか」


 長兄が、顔を、上げた。


「……薬の噂だ」


「薬……?」


「魔物を、自在に操って、人を癒す薬を作る、若い娘が辺境にいると」長兄は、フィナを、まっすぐに、見た。「その話を聞いた瞬間、確信した。——そんなことが、できる人間を、私は、ひとりしか、知らない」


 フィナは、息を、呑んだ。


 ——評判が。


 村を、救うために、広げた評判が。商人を、退けるために、振るった力が。めぐりめぐって、過去を、ここまで連れてきた。


 諸刃の剣の、もう一方の刃が、今、フィナ自身に向いていた。


-----


「アルナ」長兄が、震える声で、言った。「帰ろう。城に。皆待ってる。父上も、母上も、お前が——」


「待ってください」


 フィナは、一歩、後ろに下がった。


 長兄の顔が、傷ついたように、歪んだ。


「私は……っ」フィナの声が、震えた。言葉が、まとまらない。帰れない。帰りたくない。でも、この涙を、無下にも、できない。五年分の感情が、胸の中で、嵐のように、渦巻いていた。


 その時。


 フィナと、長兄の間に、すっと、誰かが、割って入った。


 ガルドだった。


 煙草をくわえたまま。いつもの、ぶっきらぼうな顔で。だが、その目だけは、鋭く、長兄を見据えていた。


「お貴族様。話の途中で、悪いがな」ガルドは、低い声で、言った。

「この子は、うちの村の、商売人だ。フィナっていう、名前のな。あんたの言う、アルナってのが、誰のことかは、知らねえ」


 長兄の目が、すっと、細くなった。「……何者だ、貴様」


「ただの、村人さ」ガルドは、煙を、吐いた。「だが、この子が、どこの誰だろうと、関係ねえ。この村に来てから、何をしてきたかは、俺たちが、全部、見てきた。——連れて行きたきゃ、まず、この子本人の、返事を聞きな」


 村人たちが、フィナと、長兄の周りに、じわり、と、集まってきた。


 誰も、武器は持っていない。ただ、立っているだけ。だが、その壁は、確かに、フィナを、守るように、できていた。


 長兄は、その光景を、見回した。やつれた顔に、戸惑いと——そして、わずかな、痛みが、よぎった。


 自分の知らない場所で、自分の知らない人々に、妹が、守られている。その事実が、彼を、打ちのめしたようだった。


「……アルナ」長兄は、絞り出すように、言った。「お前は——この者たちと、何を、して……」


 フィナは、村人たちを、見回した。


 心配そうな、エミ。腕を組む、ベック。杖をつく、ゴラン。裾を握るミア。肩のベル。屋根のチコ。空のソル。土のもる。


 五年前、誰の声も、フィナには、届かなかった。


 でも、今は——フィナの隣に、声を、届けてくれる人たちがいる。


 フィナは、深く、息を吸った。冷たくなっていた指先に、少しずつ、熱が、戻ってくる。


 そして、顔を、上げた。


「兄様」フィナの声は、もう、震えていなかった。「話をしましょう。——でも、その前に」


 フィナは、まっすぐに、兄の目を、見た。五年前は、できなかったことだった。


「今度は、私の話を、最後まで、聞いてくれますか」


 長兄の瞳が揺れた。


 夕陽が、二人を、村を、赤く、染めていた。


 長い、長い、五年の果ての、再会の夜が——始まろうとしていた。


-----


【第十二話終了時点 カルム村ステータス】

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

人口 : 32人

村の活気度 : 祝勝→緊迫

テイム魔物 : ベル/チコ/ソル/もる

フィナの正体 : 村人の前で「アルナ」と呼ばれる(半ば露見)

来訪者 : 長兄(第一王子)・単身に近い形で来訪

長兄の状態 : 5年間アルナを探し続け憔悴

村の反応 : ガルド・村人がフィナを守るように囲む

次の局面 : フィナと兄の、5年越しの対話

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

フィナの三ヶ月の期限まで:残り約5週


-----


【幕間・回想 その十二】王都 現在 兄たちの五年


 アルナが消えた朝、王城は、地獄になった。


 国王は、玉座で、声を、失った。あれほど、娘を自慢した声は、ぴたりと、止んだ。次男は、政務を、放り出し、自ら、捜索隊の指揮を、執った。三男は、来る日も来る日も、城門の前に立ち、帰ってくるはずのない妹を、待ち続けた。


 そして、長男は——城を、出た。


 王太子の地位も、一時、弟に預け、自ら、商隊に紛れ、身分を隠して、国中を、歩いた。来る日も、来る日も。村から、村へ。妹の、面影を、探して。


 ただ一人、王妃だけが、取り乱さなかった。


 彼女は、知っていた。アルナが、自分の意思で、出ていったことを。そして、それが、あの子にとって、必要なことだったことを。


 夜、誰もいなくなった廊下で、王妃は、ひとり、窓の外の、星を見上げた。


 ——飛んで、おゆき。


 唇だけで、そう、呟いた。


 その瞳に、涙は、なかった。ただ、母としての、祈りだけが、あった。


 あの子が、いつか、自分の足で、自分の居場所を、見つけられますように。そして——もし叶うなら。いつか、笑って、帰ってこられますように。


-----


続く


-----


あとがき


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


ついに、過去が、村の入口に立ちました。馬車から降りたのは、長兄。五年間、王太子の地位を弟に預けてまで、妹を探し続けた人です。


憎めたら、楽だった。でも、ぼろぼろ泣く兄を前に、フィナの中に湧くのは、憎しみではない、もっと苦しい何か。そして彼女は、五年前にはできなかった一言を、言います。「今度は、私の話を、最後まで聞いてくれますか」と。


ガルドが間に入り、村人が壁になる。誰の声も届かなかった五年前との、対比です。


回想は、初めて「王都の現在」へ。残された家族の五年と、王妃の祈りを描きました。


【ブックマーク】次回、兄妹の対話。フィナは、何を語るのか。

【評価】星ひとつで、新しい読者に届きます。

【感想】「兄の涙にやられた」「ガルド頼もしい」、一言でも必ず返します。


次回、五年分の想いが、ぶつかります。そして、フィナの選ぶ道は——。

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