第10話「行かないで、と言われた夜」
調査員の男は、三日後に、また現れた。
今度は、一人ではなかった。屈強な男を、二人、従えている。前回の、にこやかな笑みは、もう、なかった。
「単刀直入に、言いましょう」男は、店に入るなり、切り出した。「調べはついています。魔物だらけの森の奥から、薬草を持ち帰れる人間。巨大な鳥型魔物を、従える娘。——あなたは、テイマーだ。それも、桁外れの」
フィナは、答えなかった。カウンターの下で、指先が、冷えていく。
「私どもの商会は、あなたを、王都へお迎えしたい。その先の、もっと大きな方々も、あなたのような人材を、求めておられる」男は、一拍、置いた。「これは、最後の、お願いです」
「……お断りします」
「そうですか」男は、驚かなかった。むしろ、その答えを、待っていたかのように、薄く、笑った。「では、仕方ない。次は、お願いでは、なくなります」
男は、店内を、ゆっくりと、見回した。棚の薬。窓の外の、村の家々。
「いい村だ。小さくて、静かで——後ろ盾も、何もない」男の声が、氷のように、冷えた。「うちの商会が、本気で潰しにかかれば、この村の流通は、ひと月で、止まる。薬も、塩も、買い手のいなくなった作物も。……分かりますね? あなた一人の、強情のために、村ごと、沈むんですよ」
フィナの呼吸が、止まった。
「三日、待ちます」男は、踵を返した。「賢明な、ご判断を」
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その夜、フィナは、眠れなかった。
窓の外の、湖を見ていた。月が、水面で、砕けては、集まる。
頭の中では、ずっと、同じ計算が、回り続けていた。
商会と、戦えるか。——無理だ。法知識で、査察官は退けられた。だが、流通を握る大商会が、本気で兵糧攻めに来たら、こんな小さな村に、抗う術はない。ガルドの伝手でも、足りない。
なら、どうする。
答えは、最初から、ひとつしか、なかった。
——私が、いなくなれば、いい。
フィナがいなければ、商会が村を攻める理由は、消える。薬の商売は、終わるだろう。だが、村は、元の、静かな村に戻るだけだ。誰も、傷つかない。
フィナは、ゆっくりと、立ち上がった。
部屋の隅の、旅の鞄に、手を伸ばした。ここに来た日と、同じ、小さな鞄。詰めるものは、ほとんど、なかった。この三ヶ月で増えたものは、物では、なかったから。
「……本気ですか」
暗がりから、ベルの声がした。窓枠の上で、まるくなったまま、こちらを見ている。
「ベルには、分かってたよね」
「ええ。あなたは、自分のことになると、いつも、そうやって、一人で決める」ベルの声は、責めるでも、止めるでもなかった。ただ、静かだった。「行き先は」
「決めてない。遠くなら、どこでも」
「……また、あの旅を、するんですね」
フィナは、答えなかった。鞄の紐を、結んだ。
チコは、棚の上で、眠っていた。起こさないように、フィナは、頬袋のそばに、木の実を、ひとつ、置いた。
——ごめんね。
もるは、畑の土の中。ソルは、湖のほとり。挨拶は、できない。すれば、止められる。止められたら、揺らぐ。
ルクのときと、同じだ。別れは、いつも、静かにしか、できない。
フィナは、書き置きを、一枚、カウンターに残した。店の権利と、帳簿のことだけを、事務的に書いた。「ありがとう」とは、書けなかった。書いたら、涙で、字が、にじむから。
戸を、そっと、開けた。
夜の空気が、冷たかった。
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村はずれの、道に出た。
月明かりだけが、足元を、照らしていた。あの日、歩いて入ってきた、同じ道。三ヶ月前は、何も知らない、ただの逃げ場所だった。
今は、違う。
通り過ぎる家の、ひとつひとつに、顔が、浮かんだ。エミの徹夜の灯り。ベックの鍛冶場の音。トールの船着き場。ミアが、駆け回っていた、広場。
フィナは、足を、止めなかった。止めたら、終わりだった。
——これでいい。これで、みんな、無事でいられる。
そのとき。
「……ねえちゃん?」
小さな声が、した。
フィナの足が、凍りついた。
道の脇、大きな木の根元に、ミアが、立っていた。寝間着のまま、小さな提灯を、持って。
「ミア……どうして、こんな時間に」
「チコがね、窓を、がりがりしたの」ミアは、フィナの鞄を、見た。それから、フィナの顔を、見た。幼い顔から、みるみる、血の気が引いていく。「……ねえちゃん、どこ、行くの」
「……少し、遠くまで」
「うそ」ミアの声が、震えた。「その鞄、来た日と、おんなじやつ。あたし、覚えてるもん」
フィナは、言葉に、詰まった。
八つの子に、つける嘘を、フィナは、持っていなかった。
「……帰って、こないんでしょ」
ミアの提灯が、かたかたと、揺れた。小さな手が、震えていた。
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「フィナ」
別の声がした。
暗がりから、ガルドが、歩いてきた。煙草も、くわえていない。その後ろに、エミが。ベックが。トールが。ルーベ夫妻が。ゴラン村長が、杖をつきながら。
ひとり、また、ひとり。提灯の灯りが、増えていく。
フィナは、立ち尽くした。
「……どうして」
「チコだ」ガルドが、言った。「お前の書き置きをくわえて、村中の家の戸を、叩いて回った。あんな小さい体で、な」
見れば、ガルドの足元に、チコが、いた。息を切らして、毛が、ぼさぼさで。フィナの書き置きを、まだ、口にくわえたまま。
チコは、フィナを見上げた。つぶらな目に、月が、映っていた。
「……イカナイデ」
たった、それだけ、言った。
フィナの喉の、奥が、ぐ、と詰まった。
——だめ。まだ、だめ。
「商会のことなら、聞いた」ガルドが、静かに言った。「あの男たち、村の入口で、ベラベラと喋っていったらしい。三日やる、村ごと潰される前に娘を差し出せ、とな」
「だったら……っ」フィナの声が、初めて、揺れた。「分かるでしょう。私がいたら、村が、潰される。私が出ていけば、それで、全部、収まる。これが、一番、正しい——」
「正しくなんか、ないわよ」
エミだった。
ずかずかと、前に出てきた。目の下に、いつもの隈。その目が、まっすぐ、フィナを、睨んでいた。
「あなたが来る前の私、知ってます? 薬も作れない、誰の役にも立てない、ただ、薬草の前で、ため息ついてるだけの薬師。それが今は、隣村から、教えてくれって、手紙が来るんですよ。私の人生を、変えといて——」エミの声が、裂けた。「元に戻れって、言うんですか」
「エミさん、違う、私は——」
「フィナさんがいなくなった村が、『元通り』だなんて、思わないで」
フィナは、何も、言えなかった。
ベックが、無言で、前に出た。ごつい手が、フィナの手を取り、何かを、握らせた。
鍵だった。真新しい、鉄の鍵。
「……店の戸の、建て付けが、悪かったろう」ベックは、フィナの目を見ずに、ぼそぼそと言った。「錠前ごと、打ち直した。明日、渡すつもりだった」
手のひらの鍵が、まだ、ぬくかった。
——今日まで、鍛冶場の火で、打っていたのだ。フィナの、店のために。
「行くなら、置いていけ」ベックは、そっぽを向いたまま、言った。「……だが、もったいねえぞ。いい鍵だ」
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「フィナさんや」
ゴランだった。
村人たちが、道を開けた。老人は、杖をつき、ゆっくりと、フィナの前まで、歩いてきた。
「あんたが来た日、わしは、言ったな。ここは、訳ありしか来ん村だ、と」
「……はい」
「あの日のあんたは、ひどい目をしとった。逃げて、逃げて、逃げ着いた者の目だ」ゴランは、フィナを、見上げた。「で、今、あんたは、また、逃げようとしとる。——だが、今度のは、違うな。今度のは、わしらを、守るための逃げだ」
フィナの目の縁が、熱くなった。
——こらえろ。こらえろ。
「優しい子だ。じゃがな、フィナさんや」ゴランの声は、どこまでも、穏やかだった。「守られる側にも、選ぶ権利が、ある。わしらは、あんたに守られて、あんたを失うより——あんたと一緒に、困る方を、選ぶ」
「……商会は、本気です。村が、どうなるか」
「どうにか、なるじゃろ」ゴランは、こともなげに、笑った。「この村はな、流行り病も、飢饉も、領主の無茶も、越えてきた。訳あり同士、寄り集まってな。——今度の訳ありが、ひとつ増えるだけのことよ」
村人たちが、口々に、頷いた。誰も、笑っていなかった。誰も、怯えても、いなかった。
フィナは、唇を、噛んだ。
まだだ。まだ、泣くわけには——
そのとき、裾を、小さな手が、引いた。
ミアだった。
顔を、ぐしゃぐしゃにして、提灯も、放り出して、フィナの服を、両手で、握りしめていた。
「ねえちゃんが、いなくなるのは……っ、やだ」
しゃくり上げながら、それでも、はっきりと、ミアは、言った。
「やだ。いかないで」
——いかないで。
その言葉が、フィナの胸の、いちばん深いところを、貫いた。
五年前。アルナは、同じ言葉を、言った。白い毛に、しがみついて。行かないで、と。あの声は、誰にも、届かなかった。
その言葉を、今——
自分が、言われている。
堰が、切れた。
涙が、あとから、あとから、こぼれて、止まらなかった。フィナは、その場に、膝をついて、ミアを、抱きしめた。声に、ならなかった。三ヶ月分の——いや、五年分の、何かが、全部、あふれていた。
ミアが、フィナの首に、ぎゅう、と、しがみついた。
チコが、よじ登ってきて、濡れた頬に、ふさふさの尻尾を、押し当てた。
いつの間にか、空から舞い降りたソルが、翼で、二人を、夜風から、囲った。土を掻き分けて出てきたもるが、フィナの膝に、ぽふ、と前足を乗せた。
ベルが、肩の上で、ぽつりと、言った。
「……言ったでしょう。あなたは、自分のことになると、判断が、雑になる」
その声は、いつもの毒舌のはずなのに、少しだけ、湿っていた。
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どれくらい、そうしていたのか。
フィナは、ようやく、顔を上げた。ぐしゃぐしゃの顔で、村人たちを、見回した。
「……ごめんなさい。私、勝手に、ひとりで——」
「ああ、まったくだ」ガルドが、ようやく、煙草をくわえた。「商売のパートナーに、黙って夜逃げとは、いい度胸だ。違約金もんだぞ」
「ふふ……っ」エミが、涙声のまま、噴き出した。
「帰るぞ、フィナ」ガルドは、村のほうへ、顎をしゃくった。「商会への対策会議だ。全員でな。——お前は、もう、ひとりで、抱えるな」
フィナは、ミアの手を、握ったまま、立ち上がった。
手のひらには、ベックの鍵の、ぬくもり。肩には、ベルとチコ。背には、ソルの翼。足元には、もる。そして、前には、提灯を掲げた、村人たちの、灯り。
帰り道は、来た道と、同じはずなのに。
まるで、違う道に、見えた。
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【第十話終了時点 カルム村ステータス】
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人口 : 32人
村の活気度 : 結束(星4/5)
テイム魔物 : ベル/チコ/ソル/もる
確立した産業 : 薬草・薬品販売(商会の圧力下)
村との絆 : フィナ、初めて「行かないで」と言われる
迫る期限 : 商会の最後通告まで、あと三日
次の戦い : 村全員での、対商会・対策会議
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フィナの三ヶ月の期限まで:残り約6週
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【幕間・回想 その十】逃亡の旅、そして出会い
城を出てから、アルナの旅は、過酷だった。
馬車を乗り継ぎ、時に歩き、人目を避けて、ひたすら、遠くを目指した。慣れない平民の暮らし。減っていく、母の革袋の中身。それでも、誰にも、見つかってはならなかった。
何日目かの、雨の夜だった。
アルナは、森の中の、朽ちかけた小屋で、雨宿りをしていた。濡れた服。空腹。膝を抱えて、震えていた。
その足元に——小さな、白いものが、いた。
うさぎだった。耳の先だけが、薄紫の。雨に濡れて、アルナと同じように、震えていた。
アルナは、何も考えず、その体を、抱き上げ、自分の服の中で、温めた。うさぎは、抵抗しなかった。ただ、じっと、アルナを見ていた。
その夜、アルナは、久しぶりに、声を出して、泣いた。城を出てから、ずっと、張りつめていた。泣くことすら、許していなかった。その全部が、あふれた。ルクを失ってから、いちばん、ひどい夜だった。
翌朝、うさぎは、まだ、腕の中にいた。
そして、アルナを見上げて、言ったのだ。
「……まったく。世話の焼ける人ですね」
それが、ベルとの、出会いだった。
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続く
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あとがき
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
今回、フィナは、村を守るために、黙って消えようとしました。ルクのときと同じ、静かな別れしかできない人だから。それを、チコが村中の戸を叩いて回り、村人たちが、ひとりひとりの言葉で、引き留めました。
五年前、「行かないで」と言って、届かなかったアルナ。その同じ言葉を、今度は、言われる側になる。ミアの「いかないで」が、彼女の五年を、貫きました。
ベックの、まだぬくい鍵。ゴランの「あんたと一緒に困る方を選ぶ」。書きながら、私も、ちょっと、きました。
【ブックマーク】次回、村全員での、対商会の反撃が始まります。
【評価】星ひとつで、新しい読者に届きます。
【感想】「どこで泣いたか」教えてもらえたら、必ず返します。
次回、追い詰められた村の、知恵と結束の、反撃開始。




