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名もなき街の何でも屋 ~ネオン都市のストレイシープ~  作者: 薄氷薄明


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17/19

「凍てついた意味の融解、あるいは微かな綻び」

 エヴァジスト王国の臨時拠点となっている隣接都市の役場。

 宰相マーロウ・コルドウェルとの重苦しい会談を終え、宛てがわれた広々とした待合室に戻ってきた四人は、それぞれにひどく疲労した顔をしていた。


 清潔で、チリ一つ落ちていない真っ白な石造りの部屋。窓から差し込む太陽の光はどこまでも均等で、空気中の魔力(流動)も不気味なほどに凪いでいる。名もなき街の、あの泥水のように濁って粘りつく空気に慣れきっていた彼らにとって、この”正しすぎる空間”は、豪華であっても居心地の良いものではなかった。


「……信じられないわ。あたしたちが、国家の『下請け』になるなんて」


 エイヴが、上質な革張りのソファに深く沈み込みながら、重たい帳簿をテーブルに放り出した。

 ドサリ、という音が静かな部屋に無遠慮に響く。


「公認の相談窓口って言えば聞こえはいいけど、結局これ、国のケツ拭きをやらされるってことじゃない。王国軍の連中が綺麗事を並べて介入できないような、ドブ泥みたいな路地裏の厄介事だけを、今まで通りあたしたちに押し付ける気よ」


「まったくだ。国のお偉いさんってのは、どいつもこいつもタチが悪りぃな」


 ハリーが、窮屈そうに首の骨をボキボキと鳴らしながら壁に寄りかかった。


「治安維持だの法だのがしゃしゃり出てきたら、俺は今までみたいに派手に店ごとブッ飛ばすわけにいかなくなるんだろ? ストレスで頭がおかしくなりそうだぜ」


「まあ、妥当な落とし所じゃないかな」


 アーロが、窓辺で外の平和な景色を観測しながら、肩をすくめた。


「完全に漂白すれば街が死ぬ。だから僕たちを『濾過装置』として残す。理にかなっているよ。何より、拒否権なんて最初から僕たちには提示されていなかったんだからね」


 三人が三様に愚痴をこぼしている中、クインはただ一人、窓を背にして静かに腕を組んでいた。

 彼の内側には、怒りも、不満もなかった。ただ、世界が崩壊するという極限の処理テーブルから、ようやく”日常”という処理可能なフェーズへと戻ってきたことに対する、微かな安堵だけがあった。


 その時、待合室の重厚なオーク材の扉が、控えめなノックと共に開かれた。


「――お疲れのところ、失礼します」


 入ってきたのは、見慣れた灰色の外套……ではなく、エヴァジスト王国の正式な騎士団の制服――濃紺を基調とし、肩に銀の装飾が施された軍服――に身を包んだ、一人の青年だった。


 シドウェル・バトレー。

 名もなき街に流れ着き、新人として何でも屋の拠点に出入りしていた頃の隙だらけの気配は微塵もない。そこに立っているのは、強大な国家機構の洗練された一振りの刃、そのものだった。


「シド……」


 ハリーが目を丸くする。


「なんだよその服。随分と偉そうじゃねえか。昨夜のドンパチで死にかけてるかと思ったが、ピンピンしてやがるな」


「おかげさまで。遊撃班のメンバーも、多少の負傷はありますが全員無事です。……あなた方も、欠けることなく生き延びてくれてよかった」


 シドは、軍服の襟元を少しだけ居心地悪そうに触りながら、小さく微笑んだ。その少しだけ不器用な笑い方は、彼らが知っている”名もなき街の新人”のシド、そのものだった。


「あんたが無事なのは結構だけどね」


 エイヴが、ツカツカとシドの前に歩み寄り、丸めた羊皮紙で彼の胸板を軽く小突いた。


「どう落とし前つけてくれんのよ、これ。あたしたち、あんたの国の宰相サマから、名もなき街の『公認窓口』をやれって脅迫まがいの辞令を押し付けられたのよ」


「拒否できない状況で丸投げとか、お前らって本当に容赦ねえよな」


 ハリーも同意するように鼻を鳴らす。


 シドは抵抗せずに小突かれながら、真剣な顔で深く頭を下げた。


「……申し訳ありません」


「謝って済む問題じゃ――」


「ですが、あの街の裏側を最も上手く回せるのはあなた方しかいないと、宰相閣下に具申したのは私です」


「はあ!?」


 エイヴが素っ頓狂な声を上げ、ハリーがズッコケそうになる。

 シドは頭を上げ、極めて真面目な顔で、しかしどこか誇らしげに言った。


「王国軍は、法と力で世界を制圧することはできます。ですが、あの街の人間の『どうしようもない歪み』や『捨てきれない役割』に寄り添うことはできません。それを知っていて、絶望の淵でも決して見捨てず、仮初の役割を与えて彼らを正気で繋ぎ止めたのは、あなたたちです」


 シドの真っ直ぐな視線が、部屋の奥に立つクインへと向けられた。


「あの街の泥水のようなルールを誰よりも理解し、そしてあの街を誰よりも見捨てていないあなた方でなければ、世界のゴミ箱の管理など絶対に不可能です。だから、どうか……我々の手が届かない影の部分を、引き続きあなた方に担っていただきたいのです」


 それは、国家の騎士としての命令ではなく、一人の人間としての、不器用で、しかし心からの”依頼”だった。


 クインは、腕を組んだまま、無言でシドを見返していた。

 そして、視線をゆっくりと部屋の中に巡らせた。

 立派な軍服を着て頭を下げる、真面目すぎる潜入騎士のシド。

 国の決定に文句を垂れながらも、決して帳簿を手放そうとしない、現実主義のエイヴ。

 暴力しか脳がないように見えて、実は誰よりも仲間が傷つくことを恐れているハリー。

 冷めた観測者を気取っているが、最後まで街の崩壊を見届けることから逃げなかったアーロ。


 かつて、感情回収事件の夜。

 人々の愛や悲しみといった「意味」が、ただの金に換算されて消費され、精神が崩壊して肉のオブジェと化した街角を見た時。クインの内側から、”感情”という機能は完全に抜け落ちていた。

 感情を持つことは、弱さだと思っていた。誰かに搾取され、いつか壊れてしまうような脆いものなど、最初から持たない方がいい。だから彼は、すべてを現象と数字だけで処理する冷徹な機械として、この吹き溜まりの街を生きてきた。


 だが、違ったのだ。

 彼らは、壊れなかった。

 世界が終わりかけ、物理法則が削り取られ、圧倒的な暴力が街を呑み込もうとしたその極限の中で。

 彼らは理不尽に押し潰されることなく、悪態をつきながら、泥臭く立ち上がり、他者のために手を伸ばし、そして今、こうして揃って生き残っている。


 この、やかましくて、不器用で、しかしとてつもなく強靭な”繋がり”を持つ連中を前にして。

 クインの胸の奥で、長年分厚い氷に閉ざされていた”意味の残骸”が、音を立てて融解していくのを感じた。


「……フッ」


 不意に。

 本当に、彼自身も予期せぬ不意の出来事として。

 クインの口から、堪えきれないような小さな吐息が漏れた。

 いや、それは吐息ではなかった。彼の口角が、わずかに、だが確かな弧を描いて引き上げられていた。


 彼は、笑ったのだ。


「……え?」


 バサリ、と。

 エイヴの手から、彼女の命よりも重い革張りの帳簿が床に滑り落ちた。


「お、おい……嘘だろ」


 ハリーが、まるでこの世の終わりでも見たかのように顔を引き攣らせ、後ずさりして壁に背中を激突させる。


「ク、クインが……笑った……?」


「……信じられない」


 アーロが、震える手で自身の眼鏡を外し、目をゴシゴシと擦った。


「意味の残骸しか見えなかった君の観測結果に、『感情』というバグが……いや、奇跡が発生したのか!?」


 シドすらも、目を丸くしてポカンと口を開けている。


 部屋中の視線が、まるで未知の魔物にでも遭遇したかのような驚愕と共に、クインの顔に突き刺さっていた。

 その異様なまでのパニックぶりに、クインは引き上げた口角をわずかに戻し、いつもの無表情を作ろうとした。だが、声に混じる確かな”温度”だけは、もう隠しきれなかった。


「……なんだ。俺が笑っちゃ、そんなに悪いのかよ」


 それは、機械の音声ではない。

 かつて感情を失った平民の青年が、数年ぶりに取り戻した、血の通った”人間の声”だった。


 一瞬の静寂の後、ハリーが「気味が悪りぃ!」と頭を抱え、エイヴが「明日は槍でも降るんじゃないの!?」と叫び、シドが耐えきれずに吹き出した。

 明るい笑い声と、大げさな悪態が、真っ白な役場の待合室に響き渡る。


 彼らはもう、ただの吹き溜まりのゴミではない。

 名もなき街で、確かに”意味”を取り戻し、決して切れない”繋がり”を手にした人間たちだった。

 クインは、コートのポケットに手を突っ込んだまま、騒ぎ立てる仲間たちを呆れたように――しかし、どこまでも温かい目で見守っていた。

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