「正しすぎる世界の死」
名もなき街から数キロ離れた、エヴァジスト王国の臨時拠点となった隣接都市。
そこは、昨夜までの狂気と崩壊が嘘のように、整然とした”現実”で構成された街だった。
太陽の光は淀みなく石畳を照らし、大気中の魔力(流動)は完全に均一に保たれている。街を歩く人々は皆、自分の役割と名前を持ち、明日も同じ日が来ることを微塵も疑っていない。
役場の分室としてあてがわれた待合室のソファで、ハリーはひどく窮屈そうに首を鳴らした。
「……空気が綺麗すぎて、逆に息が詰まりそうだな。魔力の波一つねえ」
「静かなものだね。意味の暴走も、空白のノイズも全く観測されない。これが『国家』というシステムによって完全に固定された、正しい世界というわけか」
アーロが窓の外を行き交う衛兵たちを見下ろしながら、退屈そうに呟く。
「でも、あたしたちの存在証明は、もう消えかけていないわ」
エイヴは、昨夜まで燃えるように熱を持ち、文字が消え続けていた分厚い帳簿を撫でた。白紙に戻りかけていたページには、彼女が書き留めた名もなき街の住人たちの名が、再び確固たるインクの染みとして定着している。
クインは壁際によりかかり、腕を組んだまま無言で目を閉じていた。
彼らは昨夜、軍隊の馬車でこの街へ移送され、一晩の休息を与えられた。だが、それは客としてではなく、明確な管理対象としての扱いだった。
やがて、重厚な木製のドアが開く。
「――入れ。宰相閣下がお待ちだ」
案内役の騎士に促され、四人は役場のもっとも奥にある、警備の厳重な応接室へと足を踏み入れた。
広い応接室の中央、上質なマホガニーの執務机越しに、一人の初老の男が座っていた。
エヴァジスト王国宰相、マーロウ・コルドウェル。
豪華な装飾品は身につけていないが、仕立ての良さが一目でわかる軍服めいたフロックコートを纏い、机の上には数枚の羊皮紙――潜入班からの報告書――が整然と並べられている。
老獪さと鋭い知性を併せ持つその灰色の瞳は、部屋に入ってきたクインたちを一瞥し、真っ直ぐに値踏みした。
「――潜入班のシドウェルたちから、詳細な報告は受けている。よく生き延びたな、名もなき街の何でも屋の諸君」
宰相マーロウの声は、静かだが部屋の空気を支配する重力があった。
「単刀直入に言おう。我がエヴァジスト王国は、あの街を正式に保護・管理下に置く。世界中から流れ着く『意味の歪み』が溜まり、今回のような致命的なバグの起点となる場所を、これ以上地図の空白として放置することはできないからだ」
それは交渉ではなく、決定事項の通達だった。彼らの故郷とも呼べる吹き溜まりが、巨大な国家機構の一部に組み込まれるという現実。
マーロウは机の上で両手を組み、クインの目を真っ直ぐに見据えた。
「そこで、君たちに問いたい。あの街に『名前』はいらないか?」
「名前、だと」
ハリーが怪訝な顔をする。
「そうだ。新たな法を与え、秩序をもたらし、税を徴収する代わりに絶対の安全を保障する。ならず者や犯罪者の逃げ込みを許さず、誰もが日の当たる道を歩ける『正しい街』として、我が国があの場所を一から作り直すつもりだ」
宰相の言葉は、完璧な正論だった。
理不尽に人が消えることもなく、魔物に怯えることもない。借金が重力となってのしかかることもなければ、人が役割を奪われて空洞化することもない世界。
ハリーもエイヴも黙った。それは、彼らが名もなき街に流れ着く前に望んでいて、結局手に入らなかった”普通の人生”の提示そのものだったからだ。
だが、クインは表情一つ変えずに答えた。
「……名前がどうなろうと、法が敷かれようと、俺たちには関係ない」
クインはコートのポケットに手を突っ込んだまま、宰相の正論を冷徹に切り捨てる。
「あの街の物理的な場所が残っているなら、俺たちはまたそこに戻るだけだ」
「ほう。我が国の法に縛られることを嫌う、ならず者の意地というやつか?」
「そうじゃない」
クインは一歩前へ出た。国家の重鎮を前にしても、彼の歩みには微塵の躊躇もない。
「あんたの言う通りにしたら、あの街は『正しすぎて死ぬ』と言っているんだ」
宰相の眉が、わずかにピクリと動いた。
「……どういう意味だ」
「世界には、どうしようもなく行き場のない歪みや、誰にも拾われない理不尽が必ず生まれる」
クインの脳裏に、昨夜の光景がフラッシュバックする。
店と心中しようとした黄金街の夫妻。客が来ないのに立ち続けた男。役割を奪われて空っぽになった女たち。
「あいつらは、あの街の泥水のようなルールの中でしか息ができない連中だ。あんたたち軍隊はあいつらの『命』は救ったかもしれないが、行き場のない過去や、歪んだ感情まで綺麗に漂白できるわけじゃない」
クインの言葉は、熱を帯びてはいない。ただの冷酷な物理法則を説明するように淡々としていた。
「あの街は、そういう『世界のゴミ』を吸い込むための吹き溜まりだった。すべてを正しく管理して、真っ白に漂白すればどうなる。行き場を失った歪みは、結局この綺麗な隣の街や、あんたたちの王都に流れ込み、また別の場所で致命的な決壊を起こすだけだ」
意味の残骸。感情の暴走。
それらを一手に引き受け、中和するための"毒の沼"としての機能。それが名もなき街の存在意義だった。
「ゴミ箱を漂白しても、世界からゴミが消えるわけじゃない。あの街を完全に『正しい街』にするということは、あの街を殺し、世界を壊すことと同義だ」
重苦しい沈黙が、応接室を満たした。
国家の最高幹部に向かって「お前たちの正しさは世界を壊す」と言い放ったのだ。ハリーがいつでも動けるように重心を落とし、エイヴが冷や汗を流す。
だが。
「……見事だ。実に見事な観測と診断だ」
宰相マーロウは、怒るどころか、深く、深く頷いた。
その老獪な顔に、初めて明らかな"歓喜と評価"の笑みが浮かぶ。
「潜入班のシドウェルが、君をただの平民ではないと高く評価し、最優先で保護するよう具申してきた理由がよくわかったよ。クインと言ったな」
「……」
「私も、君と全くの同意見だ」
宰相は立ち上がり、窓の外の平和な街並みを見下ろした。
「完全な清浄は、かえって組織を腐らせる。強固な建造物には、遊びが必要なようにね。我が国があの街を管理下に入れるのは絶対の既定路線だが、君の言う通り、あの場所には適度な『グレーゾーン』を残し、世界の歪みを吸い寄せるガス抜き装置として機能し続けてもらう必要がある」
マーロウは振り返り、机の上の羊皮紙から一枚の書類を引き抜き、クインの前に滑らせた。
「だから、君たちに頼みがある。……いや、これは我が国からの辞令だ」
書類には、王国の紋章と共に、彼ら四人の名前(あるいは通称)がすでに記されていた。
「新しく生まれ変わるあの街が、正しすぎないように。息苦しさで破綻してしまわないように。我が国の法が介入しきれない、路地裏の厄介事や、歪んだ意味の暴走を処理する『相談窓口』になってほしい」
それは、ただの何でも屋だった彼らを、「国家公認の歪み」として雇い入れるという通達だった。
「王国軍は表の治安を維持する。だが、法の網目からこぼれ落ちる泥水は、君たちが処理しろ。対価は国が支払おう。……どうだ、この『契約』は成立するか?」
クインは、机の上に置かれた王国の辞令を静かに見下ろした。
逃げ道はない。外の理屈は、彼らを完全に囲い込んだ。
だが、それは彼らが最も得意とする"処理可能な現実"でもあった。
「……条件がある」
クインは、一切の感情を交えずに言った。
「軍の理屈も法の理屈も知らない。俺たちの仕事のやり方になる。それでも良いのなら」
宰相マーロウは、満足げに目を細めた。
「よかろう。名もなき街の裏路地は、君たちの裁量に委ねる」
こうして、世界の崩壊を食い止めるための、極めていびつで、しかし最も合理的な"新しい街のルール"が、彼らと国家の間で静かに締結された。
名もなき街は死なない。形を変え、新たな毒を孕みながら、彼らの帰る場所として再び呼吸を始めるのだ。




