「国家という暴威、あるいは生存の確約」
劇場跡地の防衛線は、物理的にも概念的にも完全な限界を迎えていた。
瓦礫で急造された外壁がひしゃげ、漆黒の泥――未成立の魔物たちが、津波のように避難所の内側へと雪崩れ込もうとする。外周を削り続けていたシドの黄金の剣閃も、イーデンの大剣も、もはや魔物の再生産速度という絶対的な「数」の暴力の前に押し潰されようとしていた。
クインが特殊銃を構え、最後の一線を越えようとした魔物の核に狙いを定めた、その瞬間だった。
上空を覆っていた重たい闇が、文字通り”引き裂かれた”。
鼓膜を、いや、内臓を直接揺らすような凄まじい重低音。
それは一個人の魔法や、少人数の連携が発する音ではない。極限まで高度に統率され、規格化された「軍隊」の行軍音だった。
「――第一大隊、前衛盾展開。物理層および概念層における複合結界を構築、座標を固定しろ」
夜の闇を切り裂くような、拡声魔術による冷徹な号令。
直後、劇場跡地の外周を包み込むように、分厚い装甲と身の丈ほどもある重盾を構えた重装騎士の列が、地鳴りと共に文字通りの”壁”を形成した。魔物の理不尽な質量がその壁に激突するが、陣形はミリ単位すら後退しない。彼らの盾は単なる金属ではなく、隣り合う騎士同士の魔力を連結させ、空間そのものを強固な物質として固定するシステムだった。
「第二大隊、制圧射撃。対象の『成立条件』ごと、空間の歪みを焼却しろ」
後方に展開した別動隊から、無数の魔力弾が放たれる。
それはハリーが放つような感情に任せた爆発でも、クインが撃つような事象の隙間を縫う一撃でもない。正確な弾道計算のもとで、空間の位相のズレへピンポイントに降り注ぐ、極めて工業的で冷酷な面制圧だった。
着弾の瞬間、閃光が迸る。未成立の影も、半成立の泥も、完全成立した異形も関係ない。彼らは条件を読み解くことすら放棄し、圧倒的な質量と熱量で”魔物が発生する空間そのもの”を上書きし、消滅させていく。
「本隊到着! 伝令、フィル・バグマン! コルトン・オルグレン司令より通達!」
完璧な統率で動く部隊の間を縫うように駆け込んできた軽装の伝令兵が、シドたち潜入班に向かって叫ぶ。
「これよりエヴァジスト王国軍が、本区画の現象制圧および全住民の保護を代行する! 貴官らはただちに住民の誘導と後方支援に回れ!」
エヴァジスト王国騎士団。
それは、大陸の覇権を争い、絶え間ない侵略行為を繰り返す強大な帝国を真っ向から退け続けている、完全実力主義の軍事機構。特異体質を持つ者が稀に生まれるというその国は、個人の武勇に頼るのではなく、魔法という不確定要素すらも”戦術”として完全に体系化していた。
シドやユーリスたち潜入班が見せていた卓越した技術すら、この巨大な機構の”歯車”の一つなのだ。
「……これが、国家介入か」
ハリーが、呆然と呟いた。彼がどれだけ魔力を込めても抜けやがった魔物の群れが、組織された軍隊のシステマチックな機動の前では、”処理すべきタスク”として一方的に蹂躙されていく。
「違うよ、ハリー」
アーロが、震える声でその光景を観測しながら言った。
「あれは暴力じゃない。圧倒的な”外側の理屈”だ。この街の歪んだ意味なんて、彼らの巨大な現実の前では、何の抵抗力も持たないんだ」
戦闘だけではない。後方からは、白や緑の腕章をつけた医療部隊と補給部隊がシステマチックに展開し始めていた。
彼らは怯える群衆の中に躊躇なく足を踏み入れ、手際よく負傷者の選別を行い、毛布と温かい液体を配給していく。そこには一切の感情の揺れも、見返りを求める卑しさもない。ただ、命を救うという”業務”が冷徹に、そして完璧に遂行されているだけだった。
「おい、どういうことだ……」
歓楽街から逃げてきた男が、押し付けられた毛布を握りしめながら震えていた。
この名もなき街の人間は、どこの国にも属していない。税も払わず、法も守らず、ただ欲望と理不尽の吹き溜まりで生きてきた。何かを得るには、必ず対価(金か体か命)を払わなければならない。それがこの街の絶対のルールだった。
それなのに、この巨大な暴力機構は、一切の対価を求めることなく彼らの命を保護している。
「金なんて持ってねえぞ……。俺に何をさせる気だ……!」
男の怯えた声に、手当をしていた衛生兵は顔色一つ変えずに答えた。
「対価は不要だ。我々はエヴァジスト王国の軍人であり、貴方たちの生命を保護することは、我が国の決定事項である」
それが"国家というシステム"の持つ、絶対的な重みだった。
所属していなくとも、法外の存在であっても、そこに生命がある限り保護の対象とする。個人の感情や損得ではなく、国家の理念と機構が彼らを無償で生かそうとしている。
街の人々は、自分たちが”巨大な何かに守られている”という未体験の現実に直面し、声もなく立ち尽くしていた。
「……まだ、店に残っている奴らがいる」
クインが、防衛線を解いて合流したユーリスの腕を掴んで言った。
避難案内の際、店と心中すると決めて動かなかった黄金街の老人たちや、役割を失って動けなくなっていた女たちが、まだ崩落する街のあちこちに取り残されているはずだった。
「安心しろ。遊撃部隊を全域に回している」
ユーリスが、血振るいをして剣を鞘に収めながら冷徹に答える。
その言葉通り、崩壊しかけていた歓楽街や黄金街の残骸の方角から、重武装の騎士たちに文字通り「首根っこを掴まれて」引きずり出されてくる者たちの姿があった。
店と心中しようとしていた夫妻は、大柄な騎士に両脇を抱えられ、「放せ、俺たちの店が!」と叫びながらも強引に医療テントへと放り込まれていた。役割を失って座り込んでいた娼婦たちも、物理的な腕力で強引に安全圏へと運ばれてくる。
本人の意志など関係ない。圧倒的な”現実の力"の前に、彼らは選択の余地なく救い出されていた。
「全員、生きてるわ……」
エイヴが、帳簿と現実の人数を照らし合わせながら、震える声で言った。
彼女が懸命に書き留めた偽名や源氏名のリスト。その一つも欠けることなく、すべてが物理的な肉体を伴って、この防衛線の内側に存在している。
「……信じられない。この街の連中が、対価もなしに生かされるなんて」
シドが、クインの前に歩み寄ってきた。
彼はすでに騎士団の遊撃班としての表情に戻っており、感情の読めない顔でクインを見据えた。
「街は全域封鎖されます。原因の究明と空間の再固定が完了するまで、この場所に人間を残すことはできません」
「……」
クインは無言でシドの言葉を聞いている。
「ここから数キロ先、我々の臨時拠点がある比較的安全な街まで、全員を馬車で移送します。クイン、あなたたちも乗ってください」
それは提案ではなく、決定事項の通達だった。
圧倒的な外の理屈。効率優先で、街とのズレも甚だしい。このまま従えば、彼らの”名もなき街”というアイデンティティは、完全に国家のルールに塗り潰されるだろう。
だが、クインは逆らわなかった。銃を抜くことも、感謝の言葉を述べることもない。
彼はただ、目の前で展開される圧倒的な処理の光景を、静かに観測していた。
「……ハリー、アーロ、エイヴ」
クインが短く呼ぶ。
「馬車に乗るぞ」
「クイン、お前……いいのかよ、このままで」
ハリーが不満げに眉をひそめるが、クインは街の奥――完全に崩落し、軍の砲撃によって形を変えていく”かつての日常”を見つめたまま答えた。
「俺たちは、一番破綻しない手段を選ぶ。今は、この理屈に乗るのが最も”マシ”だ」
感情で動かない。正しさで動かない。処理可能かどうかで動く。
クインのその芯は、巨大な国家の介入を前にしても、一ミリもブレてはいなかった。
名もなき街の住人たちは、一人、また一人と、近隣の都市へと移送される荷馬車に押し込まれていく。
クインは、遠ざかるネオンの残骸と、漆黒の闇を照らす軍隊の魔力光を荷馬車の荷台から見つめながら、静かに目を閉じた。
名もなき街の夜が終わる。
だが、彼らの「意味」はまだ、完全に死んではいなかった。




