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名もなき街の何でも屋 ~ネオン都市のストレイシープ~  作者: 薄氷薄明


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14/19

「それでも残るもの」

 劇場跡地は、もはや避難所と呼ぶには曖昧な場所になっていた。

 瓦礫の隙間から吹き込む風は冷たく、街を削り取るノイズが絶え間なく鼓膜を震わせる。人は集まっている。だが、そこには秩序もなければ、昨日までの彼らを定義していた肩書きもなかった。


 その境界線に、ボロボロになった遊撃班のイーデンが滑り込んだ。


「……ヴィリーたちはまだ外だ。俺はここで防衛に回る!」


 イーデンは大剣を石畳に突き立て、荒い呼吸を整える。彼の合流により、崩壊しかけていた跡地の東壁側が辛うじて支えられた。


「シド、行け! 外周の密度を下げないと、ここは物理的に圧殺される!」


 ユーリスの叫びに、シドが黄金の長剣を強く握り直した。


「……任せます」


 シドは防衛線の内側から、漆黒の泥が渦巻く外へと跳躍した。


 シドは、魔物が成立する前の予兆を、影が形を成す瞬間の条件を、次々と先読みして断ち切っていく。

 一閃。黄金の奔流が跡地周辺の闇を薙ぎ払い、密集していた魔物の群れを一気に霧散させる。シドの遊撃は、騎士団の戦技の中でも突出して鋭利だった。彼が外を削ることで、跡地を囲む絶望的な圧力が、わずかに、だが確実に引いていった。




 避難所の内側。

 イーデンに伴われて逃げ込んできた黄金街の夫妻は、入口の近くで崩れるように座り込んでいた。

 服は煤で汚れ、夫の片方の靴は失われていた。二人は無言で、手だけを固く握りしめていた。

 クインは何も言わず、その傍らに立った。


「……店は?」


 夫が、掠れた声でクインを見上げた。

 クインは答えない。代わりに、こう言った。


「見ていない。だが、お前たちはここにいる」


 それで十分だった。店という「箱」を失った彼らにとって、クインの冷徹な肯定だけが、自分たちがまだ”生きている人間”であることの唯一の証言だった。


 少し離れた場所では、歓楽街の感情を売る店の男たちが固まって立っていた。

 客はいない。愛を囁く相手もいない。


「……ここで何をすりゃいい」


 一人が呟く。


「客もいねえのに、立ってる意味があるのかよ」


 誰も答えない。だが、その中の一人が、ふと前に出た。

 隣で震えている、黄金街から逃げてきた見知らぬ老婆に、自分の上着を無造作に差し出した。


「……寒いだろ」


 それは商売ではなかった。客に喜ばれるための演技でもなかった。

 ただの、名前のない行動だった。


 女たちが感情を売っていた店のキャストたちも、同じだった。

 彼女たちは豪華なドレスを引きずりながら、泥にまみれた子供たちに、備蓄されていた水を分け与えていた。


「飲む?」


 一人が問いかける。子供が黙って水を受け取る。

 役割を失い、何者でもなくなった彼女たちが、今、初めて”一人の人間”として他者に手を伸ばしていた。


 クインは、その光景を無言で見ていた。

 名前は曖昧だ。記憶も不確かだ。帳簿からも存在は消えかけている。

 それでも、ここでは新しい”関係”が生まれていた。

 この街は正しすぎると死ぬ。だが、この極限の歪みの中で、彼らは正しさだけではない、もっと泥臭くて強固な”繋がり”を手にし始めていた。


 その時、外でこれまでにない巨大な衝撃音が響いた。

 劇場跡地の石柱が一本、音を立てて砕け散る。


「シド! 戻れ!」


 ユーリスの叫び。外周を削り続けていたシドも、もはや限界を超えた魔物の再生産速度に押し戻されつつあった。


 防衛線が、再び限界まで押し込まれる。

 漆黒の爪が、内側の群衆へと届きそうになったその時。

 クインは、重たくなった特殊銃をゆっくりと構えた。

 彼が守るべき対象は、もはや”街”ではない。

 役割を脱ぎ捨て、ただの人間としてそこに座り、互いに水を分け合う彼らそのもの。


「……エイヴ」


 クインが低く呼ぶ。


「わかってるわよ」


 エイヴは、燃えるように熱い白紙の帳簿を抱きしめ、前を向いた。


「この『名もなき連中』の存在、意地でも私の現実に書き留めておくわ」


 夜は、まだ終わらない。

 だが、守るべき”意味”は、ようやくその形を成していた。

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