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第6話・前編「第一回・本格評議」

第6話・前編「第一回・本格評議」

Prologue

『第一提言を取れ。いいな、ハーパー』

通話が切れた後も、父の声は耳の奥に残っていた。

ジュネーブの朝は薄い灰色をしている。ハーパーは窓辺に立ったまま、スマートフォンの黒い画面に映る自分の顔を見た。完璧な角度で整えられた前髪。完璧な姿勢。完璧な——笑顔の準備。

『各国の提言は事前に把握している。論点はエネルギー配分の効率性に収束する。お前のスピーチ原稿はスタッフが仕上げた。一言一句、変えるな』

父は「おはよう」とは言わなかった。十六年間、一度も言われたことがない気がする。

机の上に、原稿が置いてある。A4で三枚。読みやすいフォント。説得力のある数字。父のスタッフ四人が磨き上げた、非の打ちどころのない言葉たち。

その隣に、表紙の擦り切れた文庫本があった。少女が竜の背に乗って、初めてできた友達のもとへ飛んでいく物語。十歳の時から、何十回も読んだ本。

——ごめんって言える関係、っていいよね。

数日前、あの茶髪の少女と交わした握手の感触が、まだ手のひらに残っている。

ハーパーは原稿を手に取った。一枚目の冒頭、「合衆国の立場として」という一文を、声に出さずになぞる。

(この原稿のどこにも、わたしの言葉はない)

そう思ってしまったことに気づいて、慌てて思考に蓋をした。鏡に向かい、口角を二ミリ上げる。計算された、いつもの笑顔。

大丈夫。演じられる。今日も、ちゃんと。

——なのに、鏡の中の笑顔は、ほんの少しだけ作るのに時間がかかった。

1

評議場の空気は、昨日までと別物だった。

円卓に着いた瞬間、ゆうなは思った。なにこれ、空気がかったい。みんなの前にきっちり原稿が置かれていて、ページをめくる音さえ遠慮がちだ。レアは背筋を定規みたいに伸ばしているし、俊豪は一度も顔を上げない。ニコライの指の中で、ナイトの駒がいつもより速く回っている。

「本日より、第一回・本格評議を開始します。先日の評議で合意した

『優先度の決定プロセス』を、最初の実議題に適用します。

議題——『エネルギー資源の配分優先度』」

クラウスの進行の声が響き、ぴん、と空気が一段張り詰めた。

「発言は第一席より。——タチバナ・ユウナ」

きた。ゆうなはポケットから、くしゃくしゃの紙を取り出した。昨日の夜、みくと電話しながら書いたメモだ。『エネルギーとかわかんないんだけど』『あんたバカ? 停電したら困る人のことでしょ』というみくの暴言から始まった、よくわからないメモ。

スマホの翻訳アプリを立ち上げる。ぽん、と起動音。昨夜調べておいた単語のリストが並んでいる。

「えっと……アイ、ウォント・トゥ・トーク、アバウト……」

一言ずつ、たどたどしく。途中で単語が出てこなくて、アプリに打ち込んで、画面をみんなに見せたりしながら。

内容はこうだった。——おばあちゃんちは台風でよく停電する。停電すると、おばあちゃんは冷蔵庫のインスリンがダメになるのをいちばん心配する。テレビが消えるのは平気だけど、薬がダメになるのは平気じゃない。だから。

「……フー・イズ……えっと、いちばん困る人、だれ?」

そこだけ、日本語が混ざった。アプリの合成音声が、一拍遅れて続く。

『Who will be in trouble first?』

——配分の話をする前に、誰がいちばん先に困るのか決めなくていいの?

それだけ言って、ゆうなはメモを畳んだ。手応えは、正直ゼロだった。みんなの顔が止まってるし、たぶん的外れだったんだと思う。まあいっか。

「以上です!」

しん、とした。

最初に動いたのはレアだった。手元の原稿の一枚目を見て、二枚目を見て、また一枚目に戻った。完璧に準備されたはずのページの上で、彼女の視線が行き場を探している。俊豪が、初めて顔を上げた。原稿の余白に、何かを小さく書き込んでいる。ニコライの指の中で、ナイトの駒が——止まった。

クラウスが咳払いをした。「では、続いて……第二席——」

「——その前に」

声を上げたのは、アマラだった。彼女は手元の原稿を、円卓の上に伏せて置いた。ぱさり、という小さな音が、やけに大きく聞こえた。

「わたしの国の原稿には、配分効率の数式が書いてあります。でも」

アマラは息を吸った。控えめな、いつもの声じゃなかった。評議場の空気を震わせる、語り部の声だった。

「わたしの村では、電気が止まると、夜に物語が語れなくなるのではありません。診療所の冷蔵庫が止まるのです。ユウナの言う『いちばん先に困る人』を、わたしは名前で知っています。だからわたしは、原稿ではなく、自分の言葉で話します」

円卓のあちこちで、原稿をめくる手が止まっていた。さっきまで完璧だったはずの紙の束が、急に頼りなく見える——そんな顔を、何人かがしていた。

「数字の話をしてもいいか」

低い声。エドゥアルドだった。彼は原稿を持っていない。最初から。

「各国の案は効率を競ってる。一キロワットあたりのコスト。送電ロスの最小化。立派な数字だ。だが、その数字の後ろに人間がいることを、どの案も書いてない」

彼はゆっくり円卓を見回した。

「おれの育った街では、電気は『あるか、ないか』だ。効率の話じゃない。ないとき、最初に死ぬのは数字じゃなくて人間だ。——必要かどうかだ。順番を決めるなら、そこからだろう」

また、あの言い方だ、とゆうなは思った。概念の後ろに人間がいる、

って言ったときと、同じ目をしてる。

アイノが、ノートに何かを書き込むのが見えた。ゆうなの席からは読めなかったけど、ペンを置いた後、アイノはじっと自分の字を見つめていた。

ゆうなは小さくなって座っていた。なんか、すごいことになってる。あたしのメモ、関係ある? ないよね? みんなが勝手にすごいだけだよね。まあいっか。

「——次の発言者」クラウスが議事録から顔を上げた。「合衆国代表、ハーパー」

ハーパーが立ち上がった。

完璧な姿勢。完璧な角度の、計算された笑顔。手には、一言一句変えるなと言われた三枚の原稿。

その一枚目の端を持つ指が、ほんのわずかに、白くなるほど強く紙を掴んでいるのが——隣の席のゆうなには、見えた。

ハーパーは、息を吸った。


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