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第6話・後編「第一回・本格評議」

第6話・後編「第一回・本格評議」

2

ハーパーは、ゆっくり原稿を円卓に置いた。捨てたわけじゃない。ただ、両手で持つのをやめた、というふうに。

「合衆国の立場として、配分効率の最大化を提言します。送電網の整備優先度、コストモデルは資料の通りです」

すらすらと数字が並ぶ。さすが、と思う流れるような英語で、ゆうなには半分もわからなかったけど、声がきれいなのはわかった。でも。

「——ただし」

ハーパーは一度、原稿から目を上げた。

「効率のモデルには、前提条件が必要です。『何を最初に守るか』という前提が。先ほどの……『最初に困る人』の特定は、効率モデルと矛盾しません。むしろ、変数として組み込むべきです。優先保護対象を定義したうえでの効率最大化を、合衆国は——」

そこで、ハーパーの口が、原稿にない一文を続けた。

「……数字は、誰かを守るための道具であるべきだと、わたしは思います」

言ってから、本人がいちばん驚いた顔をした。ほんの一瞬。瞬きひとつぶんだけ、計算された笑顔が崩れて、素の表情が覗いた。すぐに口角は二ミリ持ち上がって、元に戻ったけれど。

ゆうなは見ていた。あ、いまの顔、こないだ本の話したときの顔だ。

「——以上です」

ハーパーが座る。原稿の三枚目は、最後まで読まれなかった。

「失礼、発言を」

ジェームズだった。にこやかな、でも目が笑っていない顔で。

「興味深い議論でしたが、整理が必要では? われわれは専門家の精査した提言を持ち寄っています。素人の感傷的なエピソード——おばあさまの冷蔵庫でしたか——で国際的な議題を歪めるのは、この場の品位に関わると思いますが。ねえ、ハーパー?」

最後の一言は、明らかに同意を求める合図だった。いつもの連携。ジェームズが刺して、ハーパーが上品にまとめる、いつもの。

ハーパーは口を開いた。

「ジェームズの言う通り、専門性は……」

そこで、止まった。

「……専門性は……」

ゆうなの席からは、ハーパーの視線が一瞬だけ手元に落ちるのが見えた。原稿の上じゃない。原稿の横の、何もない机の上。

「……議題を進行に戻しましょう」

それだけ言って、ハーパーは口を閉じた。ジェームズの眉が、わずかに動いた。擁護は、来なかった。短い沈黙が、円卓の上を一周した。

3

評議の着地は、誰が決めたというより、自然にそこへ転がり込んだ。

「配分優先度の前提として、『最初に困る人』——優先保護対象の特定を、次回評議までの各国の宿題とする」

クラウスが議事録を読み上げ、異議は出なかった。出せる空気でもなかった。原稿たちは前提を失ったままで、誰もそれを元に戻す言葉を持っていなかったから。

「枠組みの起草役が必要です」とクラウス。

「合衆国が引き受けます」

ハーパーが即答した。枠組みの起草役。第一提言への足がかりを、形式の上では

確保したことになる。——その枠組みの中身が、くしゃくしゃのメモから始まったことは、議事録のどこにも書かれないけれど。

散会の鐘が鳴って、評議場の空気がほどけた。

レアは、自分の原稿をじっと見下ろしていた。一度も読まれなかった三枚。「完璧なはずだったのに……でも本質的には──」呟きの続きは、誰にも聞こえないまま、彼女は原稿を鞄にしまった。いつもより、雑な畳み方で。

俊豪は、余白に書き込みをした原稿を、内側に折り込むようにして畳んだ。書いた面が外から見えないように、二度確認して。それから何事もない顔で席を立った。

アイノは最後までノートを開いていた。ゆうなが横を通るとき、ちらっと見えた。今日の日付の下に、一行。

『原稿を置く、という選択。合理では説明がつかない。これは感情かもしれない』

ニコライは、円卓に残ったまま、掌のナイトの駒を見ていた。「……止まった」と小さく言った。「君のメモの途中で、手が止まった。チェスでは、手が止まるのは悪手の前か——盤面が変わったときだ」誰に言うでもない独り言だったけど、たぶん後者だと思ってるんだろうな、というのは横顔でわかった。

アマラは、ゆうなとすれ違いざま、何も言わずに、ただ強くうなずいた。証明を終えた人の顔だった。

スヨンは「メモ、あとで写真撮らせて」と真顔で言ってきた。なんで? ミアは廊下の角で、声を出して笑っていた。「冷蔵庫!」って。なにがツボったのかは、わからない。

4

夜。部屋のベッドの上で、ゆうなはスマホを開いた。

ぽん。翻訳アプリの起動音。履歴を見返すのが、いつのまにか夜の習慣になっている。

昨夜の検索が並んでいた。『停電 英語』『インスリン 英語』『冷蔵庫 英語』『いちばん困る人 英語』——我ながら、ひどいラインナップだ。国際会議に来てる人の検索履歴じゃない。おばあちゃんちの心配してる孫の検索履歴だ。

その下に、今日の昼に打ち込んだ単語も残っていた。アマラの発言で聞き取れなかった『clinic』。エドゥアルドの『necessity』。ハーパーが最後に言った『tool』——道具。

道具、かあ。

LINEを開く。みくはすぐ既読をつけた。

『で、メモどうだった』

『なんかすごいことになった』

『は?』

『あたしのメモのあと、みんなが原稿読むのやめて自分の言葉でしゃべりだした。会議の宿題まで決まった。意味わかんない』

既読。少しの間。それから。

『いや別にあんたが変えたんじゃなくない?』

『ひど』

『だってさー、みんな最初っから「これ変じゃね?」って思ってたんでしょ、原稿読むの。あんたはそれを先に言っちゃっただけじゃん。一番くじだし』

『……そういうこと?』

『そういうことっしょ。あんた昔からそうじゃん。みんなが言わないこと先に言うだけ』

ゆうなは画面を見つめた。窓の外、ジュネーブの夜は静かだ。今日、原稿を置いたアマラの音とか、止まったナイトの駒とか、一瞬だけ崩れたハーパーの顔とか、そういうのが順番に浮かんで、消えた。

あたしが変えたんじゃなくて、みんなが最初から思ってたこと。

それなら、なんか、いいな。

『ふーん』と打って、消して、打ち直した。

『なんかよかったよ』

『なにそれw』

まあいっか。ゆうなはスマホを枕元に置いて、電気を消した。

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