第7話・前編「俊豪と指導員」
第7話・前編「俊豪と指導員」
Prologue 評議の翌日も、原稿の余白に残した文字は消えていなかった。
当然だ。消える理由がない。それなのに俊豪は、部屋に戻るたびに折り込んだページを開いて、自分の筆跡を確かめてしまう。
昨日の評議の最中、ほとんど無意識に書きつけた、たった数語の走り書き。誰に指示されたわけでもない文字。
——指示されていない、という事実のほうが、内容よりも重かった。 ノックが二回。時間ちょうど。俊豪はページを折り直し、原稿の束の中ほどに差し込んでから、ドアを開けた。 「定例報告を」 指導員は部屋に入ると、椅子も勧められないうちに座った。
いつものことだ。この部屋は俊豪の部屋であって、俊豪の部屋ではない。 「評議の進行に逸脱がありました」 俊豪は立ったまま報告した。逸脱、という言葉を選んだのは自分だ。ナイジェリア代表は用意された原稿を伏せて置き、自分の言葉で発言した。ブラジル代表に至っては、最初から原稿を持たずに登壇した。
議題の前提が日本代表のメモによって転換された。事実だけを、順番に、温度を抜いて。
「お前は」
「原稿どおりに発言しました」
それも事実だった。俊豪の発言は一語も原稿から外れていない。外れたのは、紙の上の余白だけだ。 指導員は端末に何かを打ち込みながら、顔も上げずに言った。
「結構。次の評議も同様に。優先保護対象の資料は明日までに送る。お前はそれを読み上げればいい」
読み上げればいい。 その言い方に、引っかかりすら覚えなくなったのはいつからだろう。数学の三冠も、語学の選抜も、この席も。差し出された選択肢はいつも一つしかなくて、俊豪はそれを「選んだ」ことになっている。
選ばれた結果を、選んだ結果として履歴書に並べる作業を、十七年続けてきた。 指導員が出ていったあと、俊豪は原稿の束から折り込んだページを抜き出した。 開かなかった。開かずに、ただ指先で折り目をなぞった。 昨日、原稿を伏せた者、最初から原稿を持たなかった者——自分の言葉で話した連中の顔を思い出す。アマラ。エドゥアルド。そして、あの第一席の——。
折り目の感触だけが、自分で付けた、自分だけの印だった。 本編 ラウンジの空気が、ちょっと変わった気がする。 ゆうなはオレンジジュースを片手に、それをぼんやり感じていた。みんな机に紙を広げてる。話してる中身はわかんないけど、声の感じが前と違う。前は「読み上げる練習」っぽい声だったのが、今は「相談してる」声になってる。
『最初に、困る、人』 翻訳アプリが、ぽこん、と音を立てて拾った単語を表示する。あちこちのテーブルから同じ単語が聞こえてくるから、アプリが三回も同じのを出した。宿題のやつだ。ゆうなも一応みくにLINEした。
「最初に困る人ってだれだとおもう?」って。
返事はまだ来ない。
「ユウナ。これ、どう思う」
アルジュンがタブレットを向けてくる。グラフがいっぱい。わかんない。
「わかんない。けど、この赤いとこの人たちが困るってこと?」 「そう! そうんだよ、つまりね——」 止まらなくなったアルジュンをユースフが笑って受け止めて、テーブルがまた相談の声に戻る。ミアが資料の角を几帳面に揃えながら、「記録しておく。誰が何を言ったか」と小さく言った。
前より声がよく出る。なんかいいな、とゆうなは思う。
廊下に出たのは、ジュースのおかわりを取りに行こうとしたからだった。 角のところで、紙が一枚落ちてた。 折り込んであって、踏まれかけてて、拾い上げたら勝手に折り目が半分開いた。印刷された英語の原稿。その余白に、手書きの文字。漢字だ。読める、けど——一行目の途中までしか見えない。 《もし自分で選べるなら——》
「……それは」
声に振り向いたら、俊豪が立っていた。中国の人。評議でいちばん姿勢がよくて、いちばん顔を上げない人。今は顔を上げてる。すごい固まってる。 ゆうなは紙を折り目どおりに畳み直して、差し出した。
「落ちてたよ」 俊豪は受け取った。受け取る手が、ちょっとだけ速かった。 中身のこと、聞こうかなって一瞬思ったけど、やめた。だってあれ、折ってあったし。折ってあるってことは、しまっておきたいやつだ。
みくの黒歴史ノートと一緒。 ただ、評議のときのことは覚えてた。みんなが原稿を置いてしゃべってた中で、この人はずっと原稿どおりだったけど、一回だけ顔を上げて、何か書いてた。あの時の顔。
「評議のときさ」
アプリを出そうとして、やめた。調べてから言うやつじゃない気がした。 「なんか、よかったよ」 それだけ言って、ゆうなはジュースのおかわりに行った。後ろで俊豪がどんな顔してたかは、見てない。
——見てないけど、なんとなく、振り向かないほうがいい気がしたのだ。 夕方、中庭のベンチでみくの返信を待ってたら、影が差した。 レアだった。フランスの人。きれいな立ち方をする人。なんでか知らないけど、立ち方まできれい。 「少し、いい?」 「いいよー」 レアは隣に座った。座り方もきれいだった。
しばらく黙ってて、それから、まっすぐこっちを見た。 「あのメモ。評議で読んだもの。あれは、本当にあなた一人で書いたの?」 「ううん。みくと」 「ミク?」 「友達。日本の。夜中に電話で、二人でうんうん言いながら書いた」
レアは、なぜか少しだけ息を吐いた。安心したのか、がっかりしたのか、わかんない感じの息だった。
「私は原稿を、十二回書き直したわ。完璧にした。発音も、構成も、引用も。……でも本質的には——」
そこで止まった。ゆうなは待った。アプリは出さなかった。 「……いいえ。なんでもない」 レアは立ち上がって、スカートの皺を直した。直す必要なんてない皺を。 「あなたのメモは、十二回書き直した私の原稿より、長く読まれた。それだけ、確認したかったの」 「えー、でもあれ、字きたなかったよ。みくに『書き直せ』って言われたもん」
レアが、ほんの一瞬、変な顔をした。笑う直前みたいな顔。でも笑わなかった。「フランス代表」の顔に戻って、おやすみなさい、ときれいに言って歩いていった。 なんだったんだろ。でも、なんかいやな感じじゃなかった。むしろ逆。
夜のラウンジは、いつもの感じだった。
ニコライがチェス盤を出して、駒を並べはじめる。アイノは隅のソファでノートを開いていた。ミアはその近くで資料を整理していて、エドゥアルドは窓際で外の暗い芝生をちらちら見てる。あとでサッカーする気だ、絶対。
ゆうなは立ち上がった。
「ジュース取ってくるー」
誰に言うでもなく言って、ラウンジの入口へ向かう。
自販機は廊下の先だ。いつもどおり。何も変わらない夜。
扉に手をかける。
扉を開けたら——
(第7話・後編へつづく)




