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第7話(後編) 扉はあいてる

第7話(後編) 扉はあいてる


Scene 1 ラウンジ・夜


夜のラウンジは、昼間より天井が低く感じる。

オレンジ色の照明。エドゥアルドの折り畳みボールが床を転がる音。隅のソファでアイノがノートを開いている。いつもの夜だ。

あたしは廊下の自販機にココア買いに行こうとして、扉を開けた。

ハーパーが立っていた。

廊下の白い明かりの下で、ノートを胸に抱えたまま。入るでもなく、帰るでもなく。

「あ」

ハーパーの肩が、ちいさく跳ねた。

来てたんだ、って言いたい。えっと、英語。英語……。

「ユー……カム?」

ひどい英語。でも、口に出すのはこっちのほうが早い。

「入りなよ」

そこはもう日本語のまま、扉を大きく開けた。言葉より先に、扉のほうが伝えてる気がした。

ハーパーは一秒だけ迷って、敷居をまたいだ。

すっ、と椅子が引かれる。

ミアだった。何も言わずに、当たり前みたいに。前にアマラが立ち尽くしてたとき、ミアがやったのと同じ動きだ。あの動き、流行ってほしい。

ハーパーが座る。ボールの音が戻ってくる。

しばらくして、ハーパーがぽつりと英語で何か言った。あたしはスマホを差し出す。

ポコン、と翻訳アプリの音。

『枠組みの文章を書くのは、思っていたより重い。全員の言葉を預かるから』

画面を見て、あたしは打ち込む。一回消して、打ち直す。

『おもいのは、ちゃんとやってるからだよ』

ハーパーが画面を読んで、ふ、と息だけで笑った。素のほうの笑いだ。

——電話のこと、あたしは知ってる。

「第一提言を取る」って声。あの夜、廊下で聞いちゃったやつ。

でも、言わない。

隠してるんじゃない。あれはハーパーのポケットの中身で、出すかどうかはハーパーが決める。あたしが先に開けるのは、なんか、違う。

それだけ。一秒で考え終わって、あたしはココアのことを思い出した。

「ユウナ」

ニコライの声。盤の前で、ナイトの駒をくるくる回してる。

「フォース・ゲーム」

四回目ってことね。受けて立つし。

ハーパーが椅子ごと少し近づいて、観戦の位置についた。エドゥアルドがボールを抱えて寄ってくる。アイノのペンが、ページの上で一度止まったのが見えた。

結果から言うと、負けた。

でも、二十三手。

「ジューキューじゃない」

あたしが指を折って数えてみせると、ニコライは盤面から目を上げずに言った。

「十九手は、もう過去のデータだ」

ポコン。続きが翻訳されて出てくる。

『昨日の評議。君のメモが読まれている途中で、私は駒を回す手が止まった。盤面が変わる瞬間は、わかる』

意味の半分くらいしか、わかんなかった。

でもニコライがナイトをそっと初期位置に戻したから、たぶん、ほめられてる。

「もう一回?」

「今夜はいい。考えることが増えた」

横でハーパーが小さく吹き出した。今夜二回目の、素のほう。

Scene 2 俊豪の部屋・深夜

消灯時間を過ぎた部屋で、俊豪は机のスタンドだけを点けた。

引き出しの奥から、折り込んだ紙片を取り出す。

指導員の前でも開かなかった紙。三日間、折り目の中に閉じ込めてきた自分の字。

開いた。

皺を、手のひらでゆっくり伸ばす。

余白に書かれた短い一行は、誰の原稿でもなかった。読み上げ用の抑揚も、承認される言い回しもない。ただの、自分の字。

——なんかよかったよ。

廊下であの日本代表が言った言葉が、また再生される。内容も読まずに、よかった、と言った。意味が通らない。通らないのに、消えない。

机の上には、宿題の資料。「最初に困る人の特定」。各国のデータが並ぶ整然としたページ。

俊豪はペンを取った。

余白に、一行。

『価格が上がった冬、暖房を最初に切る家は、どの統計に載るのか』

書き終えて、息を吐く。

紙を、折らなかった。

資料に挟んだまま、開いたままで、引き出しにしまった。それだけのことに、心臓がうるさかった。

Scene 3 自習スペース・同じ夜

ココアを飲みそびれたことを思い出したのは、部屋に戻る途中だった。

自販機への角を曲がると、自習スペースの明かりが一つだけ点いてた。

レアだった。

机の上に、いつもの分厚い原稿の束——じゃなくて、白紙。

レアはペンを持ったまま、しばらく止まって、それから書き始めた。一行書いて、止まって、また書く。すごくゆっくり。完璧じゃないスピードで。

声、かけようかな。

……やめとこ。

なんとなく、いまあの紙の上にいるのはレアだけでいい気がした。

あたしはココアだけ買って、足音を小さくして通り過ぎた。

Epilogue

ベッドの上で、翻訳アプリの履歴を見返す。

『枠組みの文章を書くのは、思っていたより重い』

『おもいのは、ちゃんとやってるからだよ』

『盤面が変わる瞬間は、わかる』

今日の言葉たちを下までスクロールして、あたしはみくにLINEした。

【ねえ今日ね、ラウンジの前に立ってた子がいて、入りなよって言ったら入った】

【それだけ?】

【それだけ。あとチェス負けた】

【www】

既読のあと、ちょっと間があって。

【あんたってさ、扉開けるだけなんだよね。引っ張んないの。入るかどうかは、ぜんぶ本人が決めてる】

【なにそれ。あたしドアマン?】

【ドアマンは中に入んないでしょ。あんたは中で待ってるタイプ】

なにそれ、ともう一回打って、送る前に消した。

なんか、わかる気がしたから。

スマホを置く。明日も評議の続きだ。誰かの宿題の余白に、誰かの字が増えてるといいな、と思いながら、目を閉じた。

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