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第8話・前編「エドゥアルドのボール」

第8話・前編「エドゥアルドのボール」


 リオデジャネイロの斜面に張り付くファベーラでは、トタン板とベニヤ板で造られた家々が、まるで互いを支え合うように密集して重なり合っていた。舗装されていない狭い坂道は、雨が降るたびに赤い泥水となって流れ落ちる。


その路地の角、錆びて茶色くなったオイル缶の上が、一個のサッカーボールの定位置だった。


皮が剥がれ、黒い縫い目が裂けて、中のゴムチューブが覗きかけているボール。それは誰のものでもなかった。夕暮れ時になると、路地から子供たちが次々と集まり、誰からともなく缶の上からボールを下ろして蹴り始める。暗くなって球筋が見えなくなるまで蹴り続け、最後に戻ってきた者がまた缶の上へと戻す。それがルールだった。


 夜、トタン屋根の隙間から星を見上げていると、暗闇の奥から乾いたゴムの音が聞こえてくることがあった。  ポン、ポン、と不規則に弾む音。  夜にボールを蹴る音が聞こえる街は、大丈夫な街だ。  エドゥアルドは子供心にそう理解していた。その音が響いているうちは、近くで警察とギャングの銃撃戦が始まらないことを意味していたからだ。音が消え、静寂が耳を刺す夜こそが、一番危険だった。  十二の年、母が熱を出して寝込んだ。

 最初はただの風邪だと言っていた母の呼吸は、三日で喉を鳴らすような音に変わった。舗装道路の先にあるまともな病院へ行く金はなく、丘の下にある小さな薬局の男は、埃をかぶった棚からガラス瓶を取り出して言った。 「必要な薬はこれだが、払えるか」

 提示された金額は、彼らの部屋の家賃二ヶ月分だった。

 エドゥアルドは母の細くなった手を握りながら、その金額と、目の前にある薬の価値を天秤にかけた。払えなかった。翌朝、母の身体は冷たくなっていた。


 悲しみはしなかった。ただ、脳の奥に冷たい事実が刻まれた。  


世界は感情で回っていない。必要なものと、そうでないものがあるだけだ。


 生活のために、プロのサッカー選手という夢は不要だった。怪我をすれば一瞬で終わるし、実力があってもコネがなければ丘の上から引き上げられることはない。だが、数学の公式と数字だけは、誰に対しても平等だった。一度覚えた解法は、どれほど貧しくても彼を裏切らない。


 数学オリンピックの金メダルは、彼にとって夢の象徴ではなく、この丘から脱出するために必要な「切符」だった。  エドゥアルドは、机の上に置かれた平らな物体を指先でなぞった。  空気を抜き、幾重にも折り畳まれたサッカーボール。


 それはかつて彼が夢を諦めた日に、ドラム缶の上から持ち去ったものだった。


     *


 合宿八日目の朝、廊下の空気は昨日までと違ってどこか張り詰めていた。


 橘ゆうなは眠い目をこすりながら、食堂へと続く長い廊下を歩いていた。窓の外には、ジュネーブの青く澄んだ空が広がっているが、廊下ですれ違う他国の代表たちの表情は一様に硬い。明日に迫った本格評議のプレッシャーが、施設全体にじわじわと染み渡っているようだった。


 廊下の角、自動販売機の前に、中国代表の俊豪が立っていた。  彼は手元に持っていた宿題の資料を凝視していたが、ゆうなの足音に気づくと、弾かれたように顔を上げた。その目は少し充血しており、手元の紙を慌てて背中に隠そうとするような仕草を見せた。


 ゆうなは歩みを止め、小さく手を振った。 「おはよー、チェン君」  俊豪は視線を泳がせながら、ゆっくりと手を下ろした。ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を素早くタップする。


 ぽこん、と翻訳アプリの起動音が静かな廊下に響いた。


 彼が差し出してきた画面には、短くこう表示されていた。 『昨日の、紙』 「あー、あれ?」  ゆうなは頭の後ろで髪をいじりながら笑った。 「うん、なんかよかったよ。中身は全然読めなかったけど、チェン君が一生懸命書いてたからさ」


 ゆうなは自分のスマートフォンを取り出し、「ぽこん」と音を鳴らして英語を打ち込んだ。 『I didn't read. But good.』(読んでないよ。でも良かった)  俊豪はその画面を見つめ、それからゆうなの顔をじっと見た。彼が何らかの表情を作ろうとしているのか、それとも無表情を保とうとしているのかは分からなかった。ただ、スマートフォンの画面を握る彼の指先が、微かに白くなっているのだけが見えた。  俊豪は再び画面をタップした。


『ありがとう』


「どういたしまして! じゃ、うちご飯行くから。またね」

 ゆうなはそれ以上深く立ち入ることなく、軽い足取りで食堂へと歩き出した。俊豪がその後ろ姿をどう見送っていたのかは振り返らなかった。


「……だからさ、そもそも『困る』の基準が国によって違いすぎるんだって」


 昼下がりのラウンジテラス。テーブルの上に広げられた何冊ものノートとタブレット端末を前に、ミアが眉間に皺を寄せて声を上げた。

「日本の少子化とか、うちの繰り上げ選出の件とかとはレベルが違う。エネルギー供給が止まったら、数日後には病院のインスリンが切れて人が死ぬっていうデータを見せられた後に、各国の経済的損失のグラフを並べられても、同じテーブルで比較できるわけないじゃない」

「最適解を出すためのデータが、決定的に不足しているんです」


 アルジュンがノートPCの画面を高速でスクロールさせながら、いつもの早口で言葉を重ねた。 「各国のエネルギー消費量や蓄電能力の数値は完璧に揃っています。でも、その数値の裏にある『地域ごとの医療インフラの脆弱性』や『各家庭の暖房設備の有無』といった末端のデータは、国連のデータベースにも載っていません。数字をいくら並べ替えても、次に誰の命が消えるのか、AIには計算できないんです」 「私たちの国でも同じね」


 アマラが静かに語りだした。彼女の指先は、テーブルの木目をなぞるようにゆっくりと動いていた。 「私の祖母は学校に行ったことがなくて、文字も読めなかった。けれど、村で誰が一番に水を必要としているか、誰のヤギが病気になっているかを、すべて頭の中に記憶していたの。祖母は『死んだ人の名前は歌の中に住んでいる』と言っていたわ。数字だけを見ていては、その歌を歌う人たちの声が消えてしまう」


 ユースフが温厚な笑みを浮かべながら、みんなに紅茶を注ぎ分けた。 「明日の評議では、きっと各国の本国スタッフから送られてきた『完璧な数字』が飛び交うことになる。僕たちがそれに対してどう対抗するか、宿題の答えをまとめないといけないね」


 テラスの隅のソファでは、アイノが膝の上に観察ノートを開き、静かに鉛筆を走らせていた。ハーパーは少し離れた柱の陰で、資料の束を握りしめたまま、何かを考え込むように中庭を見つめている。  ゆうなは、テーブルの上のクッキーを一口かじりながら、空を見上げた。 「なんかさ、みんな難しいこと考えててすごいね。うちはよくわかんないけど、みんなが困らないのが一番いいと思うな」 「それが一番難しいんだよ、ゆうな」


 ミアがため息をつきながらも、少しだけ表情を和らげて笑った。


     *


 夜の中庭は、薄暗い常夜灯の明かりだけが芝生を照らしていた。


 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った空間で、乾いた音が断続的に響いていた。


 ストン、ストン。


 芝生の上で、エドゥアルドが一人でボールを蹴っていた。昼間は鞄の中に隠されていたサッカーボールには、いつの間にか空気が吹き込まれており、彼の足元で生き物のように跳ねている。


 ゆうなは少し離れた木製のベンチに腰掛け、膝を抱えながらその様子を眺めていた。夜風が通り抜けるたびに、草の匂いが鼻をくすぐる。


 エドゥアルドのトラップには無駄がなかった。浮き球を足の甲でピタリと吸い付けるように止め、次の瞬間にはインサイドで軽やかに弾ませる。その一連の動作には、焦りも誇示もなかった。ただ、身体の一部としてボールが存在しているようだった。 「おい、いいトラップだな」  暗闇から声がして、アルゼンチン代表のマテオが歩いてきた。彼はジャージのポケットに手を突っ込み、目を細めてエドゥアルドの足元を見つめていた。 「混ぜてくれよ」


 エドゥアルドは返事をしなかった。ただ、足裏でボールを止めると、鋭いグラウンダーのパスをマテオの足元へ送った。  マテオはそれを右足で滑らかに受けると、巧みなタッチで二、回リフティングをしてから、再びエドゥアルドの胸元へ柔らかい浮き球を返した。 「リオか?」マテオが尋ねた。 「ファベーラだ」


 エドゥアルドは胸でボールを受け止め、そのまま足元に落とす。 「なるほどな。ブエノスアイレスの路地裏も同じさ。ボールが一個転がっていれば、どこの誰かなんて関係ない」


 マテオが軽くステップを踏みながら言う。 「お前、なんで数学なんだ? そのタッチなら、まだ上を目指せただろ」 「必要がない」


 エドゥアルドはボールを足裏で押さえ、短く言った。

「サッカーで飯を食えるのは一握りだ。俺には、確実に金になる数学が必要だった」

「冷めてるな」

 マテオは苦笑したが、その目には非難の色はなかった。

「けど、ボールを蹴っているときは、お前もそいつを忘れているように見えるぜ」  エドゥアルドは視線を落とし、足元のボールを軽く転がした。


「俺の街では、夜にボールの音が聞こえる間は、銃声が響かなかった。誰かがボールを蹴っている間は、みんなが安心できた」

 マテオは少しだけ沈黙し、それから小さく頷いた。

「そうだな。ボールの音は、生きている音だ」

 二人はそれ以上言葉を交わさず、ただ静かにパスを重ね始めた。


 ゆうなはベンチから動かず、月明かりの下で往復する一個のボールと、それを蹴る二人の少年の影を、ただ静かに見つめ続けていた。


     *


 翌朝、九日目の朝が来た。


 ロビーには、制服やスーツを身にまとった各国代表が集まりつつあった。その間を、大人たちのスタッフが慌ただしく行き交い、直前まで原稿の修正指示を与えている。


 ロビーの隅で、エドゥアルドは自分の鞄を開けていた。


 彼は中に手を入れ、空気を抜いて平らに折り畳んだサッカーボールを、教科書やノートの隙間に押し込んだ。ジッパーを閉める金属音が、ロビーの喧騒に小さく紛れる。  ゆうなは少し離れた場所から、その様子を見ていた。


 エドゥアルドは鞄を肩にかけると、表情を一切変えないまま、まっすぐに評議室へと続く重い扉の方へと歩き出した。その背中は、朝の光を浴びて、静かに、しかし頑なに閉ざされているように見えた。

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