第8話・後編「エドゥアルドのボール」
第8話・後編「エドゥアルドのボール」
円形の評議室の四方を囲むガラス窓からは、ジュネーブの午前中の日差しが惜しみなく差し込んでいた。 だが、室内の空気は氷のように冷え切っている。
ドイツ代表のクラウスが、手元の議事進行端末をタップしながら、無機質な声で告げた。 「宿題となっている『優先保護対象の特定』について、各国の報告を開始してください」
口火を切ったのは、インド代表のアルジュンだった。 彼はスクリーンに膨大なグラフと数式を投影し、いつもの早口で語り始めた。
「インド国内の主要都市におけるスマートグリッドの送電データを解析した結果、供給量が定常時の四十パーセントを下回った際、最も経済的損失および人命へのリスクが最小化される動的最適遮断モデルを構築しました。このモデルに各国の数値を当てはめるべきです」
「素晴らしいデータです、アルジュン」
イギリス代表のジェームズが、洗練された微笑みを浮かべたまま発言を求めた。 「非の打ち所がない学術的アプローチだ。ただ、我が国のシンクタンクの予測によれば、その遮断モデルをそのまま適用した場合、開発途上国における基礎インフラの脆弱性を考慮に入れない形での一方的な配分制限になりかねない。もちろん、それぞれの国が自主的に判断する領域ではありますが、私たちはそれを尊重する『礼』を持つべきでしょう」
ジェームズの言葉は丁寧だったが、その本質は「インフラの遅れた国は、自分たちでその損失を引き受けるべきだ」という冷酷な棚上げだった。
室内の何人かが小さくため息をつき、手元の資料に目を落とした。 議論は再び、各国の利害関係と、それを覆い隠すための「綺麗な数字」の調整へと戻ろうとしていた。
橘ゆうなは、テーブルの上に置いたノートを見つめていた。 そこには昨夜、日本のギャル友であるみくとのLINEを思い出しながら、たどたどしい英語で書き留めた数行のメモがあった。
ゆうなは、自分の前にある「第一席」の札を、小さく、だがまっすぐに立てた。 クラウスが視線を向け、頷く。
「日本代表、発言をどうぞ」
ゆうなはメモの文字を指先でなぞりながら、マイクを引き寄せた。
「Where……do they……warm?」
たどたどしい英語が、スピーカーを通じて室内に響く。 ゆうなは言葉を探すように天井を見上げ、それからジェームズの方を見た。
「If electricity stops……how do cold people……live?」
電気が止まったら、寒い人はどうやって生きるの?
ゆうなはスマートフォンを取り出し、画面を見ずに人差し指でタップした。 ぽこん、と翻訳アプリの起動音がマイクに拾われる。 彼女は日本語で、感情のままに呟いた。
「数字じゃなくてさ、そこ、なんかいやじゃない?」
アプリの合成音声が、冷たい室内に『It's not about numbers. Don't you feel something is wrong there?』と英語を響かせた。
ジェームズの眉が微かに動いた。 彼が何かを言い返そうとした瞬間、隣の席でエドゥアルドが静かに立ち上がった。
エドゥアルドは何も言わず、肩にかけていた鞄のジッパーを開けた。 彼が中から取り出したのは、空気を抜かれ、幾重にも折り畳まれた、ただの平らなゴムの塊だった。
彼はそれを、円卓の真ん中、各国の精密な資料が並ぶテーブルの上に、無造作に放り投げた。 乾いたゴムの音が響き、一同の視線がその物体に集まる。
「それは何ですか、ブラジル代表」
クラウスが眉をひそめて尋ねる。
「サッカーボールだ」
エドゥアルドの声は低く、平坦だった。
「空気を抜けば、どこにでも入る。だが、空気を入れるまでは、これはただの平らなゴムの塊にすぎない。踏みつぶしても誰も痛がらないし、形が変わっても誰も気に留めない」
エドゥアルドはジェームズをまっすぐに見据えた。
「私の街、リオのファベーラでは、電気は『買う』ものではなかった。隣の送電線から、細い針金を使って自分たちの家へ勝手に引っ張ってくるものだ。当然、本国の統計には載らない。電力会社はそれを『盗電』と呼び、損失のパーセンテージとして処理する」
彼はテーブルの上のゴムの塊を指差した。
「物価が上がり、電力供給が制限された冬、最初に送電線が切られるのはどこだと思う? 一番まともな電線を引けない、丘の一番上に住む、最も貧しい家族の家だ。そこには遮断モデルも、優先順位の調整もない。彼らはただ、真っ暗な部屋で、静かに凍える。統計上には『送電損失 of 減少』という綺麗な数値だけが記録されて」
評議室全体が、水を打ったように静まり返った。
「このボールと同じだ。数字の上では、ただの一個の廃棄ゴムだ。だが、ファベーラでは、このボールに空気が入って路地を転がっている間は、子供たちが走り回り、大人たちはその音を聞きながら、今夜は銃声が響かないと信じて眠ることができた。数字に載らない人間たちが、そうやって分け合って生きていたんだ」
エドゥアルドはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「数字の後ろにいるのは、割り切れない人間だ。インスリンが必要な一人も、暖房が切られる家も、グラフのパーセンテージではない。私たちは、そのゴムの塊に空気を入れるためにここにいるはずだ。必要かどうかで言うなら、それは絶対に必要だ」
「エドゥアルドの言う通りよ」
続いて発言の札を立てたのは、セネガル代表のアマラだった。 彼女は手元の原稿を裏返し、白い机の上に伏せた。
「私たちの声は、本国から送られてきた完成された原稿を読み上げるための機械ではないわ。私の祖母は、文字は読めなかったけれど、村のすべての人の名前と、その人たちがどうやって生きて死んだかを、歌にして覚えていた。言葉は生きた人間から生まれる。私たちは今、その言葉をここに運ぶために立っているの」
アマラはマイクの金属部分をぎゅっと握りしめた。 彼女の胸の奥で、かつて「控えめな優等生」を演じていた自分に対する、静かな拒絶が湧き上がっていた。
私はただの語り手ではない。 この場所で、私の言葉として、彼らの存在を証明したい。 その欲求が、初めて明確な熱を持って彼女の輪郭を形作っていた。
「起草役として、提案します」
沈黙を破ったのは、ハーパーだった。 彼女は手元の高級な万年筆を机に置き、背筋を伸ばして一同を見渡した。
その顔には、いつもの計算された完璧な笑顔はなかった。 昨夜、ラウンジの片隅で見せた、疲れ果てた一人の少女の、しかし覚悟を決めた強い眼差しがそこにあった。
「次の起草枠組みでは、単なる数値目標の配分ルールではなく、『優先保護対象における生存最低ラインの人間性』を第2条に明記します。数字を手段とし、人を目的とするために」
ジェームズはそれ以上、何も言葉を返さなかった。 ただ、椅子の背もたれに深く体重を預け、テーブルの上の潰れたボールを見つめていた。
「議事録にその旨を記録します」
クラウスの指先が端末の上で動き、室内の張り詰めた糸が、わずかに緩んだ。
*
評議が終わった後のロビーは、各国のスタッフの怒号と代表たちの密談で騒がしかった。 ゆうなは人混みを抜け出しながら、周りの様子をそっと伺った。
ミアがゆうなの姿を見つけると、駆け寄ってきて親指を立てた。 「ゆうな、あの『なんかいやじゃない?』、最高だったよ!」
ミアは声を立てて笑った。 その笑い声は、かつて合宿の初日に見せていたような卑屈なものではなく、心からの明るさに満ちていた。
廊下の柱の影では、ニコライが立ち尽くしていた。 彼は手元に持っていたチェスのナイトの駒を指先で弄んでいたが、エドゥアルドが通りかかるのを見ると、その動きをぴたりと止めた。 何かを深く考え込むように、その氷のような瞳を微かに揺らしている。
アイノは、ロビーのベンチに座り、すでに観察ノートに鉛筆を走らせていた。
『合理の枠外での意思決定。数字の裏にある個別性の提示。これは感情かもしれない』
ノートの隅には、ゆうなとエドゥアルドの名前が小さく並んでいた。
中国代表の俊豪は、指導員からの定例連絡が入っているのか、スマートフォンの画面を見つめたまま動かずにいた。 だが、彼の手元にある宿題の資料の余白には、昨日書かれたあの一行が、折られることもなくそのまま残されている。
彼は顔を上げ、エドゥアルドが鞄にボールをしまう様子を、ただじっと見つめていた。 そのペンを握る指先が、小さく動くことはなかった。
*
夜の中庭からは、再び乾いた音が聞こえていた。 ポン、ポン、と芝生の上でボールが弾む音。
エドゥアルドとマテオが、月明かりの下で静かにパスを交わしている。 そこへ、アルジュンがノートPCを小脇に抱えたまま通りかかり、ぎこちない動作でパスの輪に加わろうとしていた。 エドゥアルドは何も言わず、彼の足元へ優しいパスを送っている。
ゆうなは自分の部屋のベッドに寝転び、スマートフォンの画面を開いた。 翻訳アプリの履歴画面には、今日自分が使った言葉が並んでいる。
『Where do they warm?』 『It's not about numbers.』
ゆうなはそれを指先でスクロールし、小さく息を吐いた。 スマートフォンの画面上部に、みくからのLINEの通知がポップアップした。
みく:『ゆうなってさ、結局いつもみんなの真ん中にいるよね』
ゆうなは画面をタップし、素早く返信を打ち込んだ。
ゆうな:『うち、何もしてないよー。ただ、なんかよかったよ』
みく:『まあ、ゆうなが楽しそうならいっか』
ゆうなはスマートフォンの画面を消し、胸の上に置いた。 窓の外から聞こえる乾いたボールの音は、ジュネーブの夜の静寂の中に、ぽつぽつと確かなリズムを刻み続けていた。




