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# 第5話・後編「ハーパーの本棚」

# 第5話・後編「ハーパーの本棚」

## 4


アマラは、伏せた原稿に手を置いたまま、話し始めた。


「私の家は、言葉を運ぶ家系です」


声が、いつもと違った。印刷された声じゃない。


「私の祖母は、文字を読みません。でも、村でいちばん多くの物語を持っています。誰がいつ生まれて、誰がどんなふうに生きて、誰が誰を許したか。死んだ人の名前は、祖母の歌の中に住んでいます」


会場のペンの音が、ひとつずつ止んでいく。


「私の国で教育の予算を削るというのは、紙とペンを減らす話ではありません。次の子に、声を渡せるかどうかの話です。歌を覚える前に祖母が死んだら、村の歴史はそこで終わります」


アマラは一度だけ、机の上の原稿を見た。見て、また顔を上げた。


「数字は原稿に書いてあります。あとで読んでください。いまのは、原稿に書けなかったぶんです」


静かだった。議長すら、次の名前を呼ぶのを忘れてた。


隣で、エドゥアルドが小さく言った。


「……美しい」


それから、自分の言葉を確かめるみたいに、ゆっくり続けた。


「前に言ったんだ。概念の後ろには人間がいるって。──いま、その人間の声を、初めて聞いた気がする」


あたしは何も言えなかった。腕に、ぶわっと鳥肌が立ってた。


「……すご」


日本語が、勝手にこぼれた。


## 5


昼食のテーブルは、いつもの顔ぶれで笑ってた。ミアが声を出して笑う。最近のミアは、ちゃんと声で笑う。


そこに、トレイを持ったアマラが立った。


「ここ、座ってもいい?」


ミアが、笑ったまま椅子を引いた。アマラが座る。それだけのことが、初めてだった。


「さっきの、鳥肌立った」とあたしが言うと、アマラは少し笑った。


「原稿なしで話したの、ここに来て初めて。──初日に、あなたが言ったから。もっと聞きたかった、って。ずっと、ポケットに入れてた」


あたしじゃなくて、あたしの言葉が、勝手に働いてた。なんか、変な感じだった。


## 6


午後の休憩、売店。


棚の前で板チョコを持って迷ってたら、横からもう一枚、すっと並んだ。ハーパーだった。


「半分こ、する?」


翻訳アプリに打って見せたら、ぽん、という音のあとで、ハーパーは頷いた。


中庭のベンチで、チョコを割る。ハーパーは銀紙をきれいに畳んでから、ぽつりと言った。


「あの本ね。十歳から読んでる。調子が悪いときに、読む本なの」


アプリ越しでも、声の低さは伝わってくる。


「じゃあ昨日は、調子悪かったんだ」


打ってから見せると、ハーパーは固まって、それから観念したみたいに息を吐いた。


「……三ページで閉じたけど」


なにそれ、とあたしが笑ったら、ハーパーもちょっとだけ笑った。朝のやつだ。写真じゃないほうの笑い方。


## 7


夕方のラウンジ。チェス盤を挟んで、ニコライとあたし。三回目。


十九手で、あたしのキングは逃げ場をなくした。


「また十九手」


「また十九手だ」ニコライはナイトの駒を指先で立てた。「三日でこれは異常だと言ったが、訂正する。五日でこれも異常だ」


「褒めてる?」


「観測してる」


そこにアルジュンが、椅子ごとずるずる寄ってきた。


「ねえ、いまの棋譜、覚えてる? チェスのAIってね、人間が捨てた手を拾うんだよ。百年間誰も指さなかった手を──」


止まらないやつが始まった。でもニコライは、嫌な顔をしなかった。駒を一個ずつ並べ直しながら、「続けて」と言った。この二人が話してるの、初めて見た。


ドアのところで、アイノが立ってた。ノートを胸に抱えて、入るかどうか迷ってる。ミアが気づいて手を振ると、アイノは隅のソファに、すとんと座った。それだけだったけど、それで十分だった。


## 8


消灯前の廊下で、ハーパーに呼び止められた。


「今朝のことだけど」


アプリを構えたあたしに、ハーパーはゆっくり、簡単な言葉を選んで言った。


「テーブルに……入り方が、わからなかったの。ずっと、招かれる側だったから。並び方も、待ち方も、全部知ってるのに」


一回切って、息を吸って、


「友達の作り方、わからなくなってるかもしれない」


あたしは打ち込まなかった。日本語のまま言った。


「明日も来ていいよ。席、あるし」


ぽん、とアプリが鳴ったのは、そのあとだった。画面を見たハーパーは、何も言わずに、二回頷いた。


## 9


自分の部屋に戻る途中、角を曲がりかけて、足が止まった。


ハーパーの部屋の前。ドアが少しだけ開いてて、英語の声が漏れてる。


電話だ。


意味はほとんど分からない。でも、声で分かった。演説の声だ。朝のテーブルの声でも、ベンチの声でもない、完璧に組み立てられた声。


その中に、知ってる単語がふたつだけあった。


ダディ。

ファースト・プロポーザル。


あたしは音を立てないように、来た道を戻った。

胸の奥が、ざらっとした。見ちゃいけない棚を、開けた感じがした。


## Epilogue


ベッドの上で、翻訳アプリの履歴を見返す。


『なんで笑うの。好きなものに上下ないじゃん』

『半分こ、する?』

『明日も来ていいよ』


その一番下に、さっき打ち込んだやつがある。


『first proposal』──第一提言。


ハーパーは、お父さんに言ってたんだ。第一提言を取る、って。たぶん、そういうこと。


みんな、大事なものを横に置いてここに来てる。アイノはノートの後ろに、アマラは原稿の下に、スヨンは順番の中に。


でもハーパーのは、横に置いてあるんじゃないのかもしれない。

背負わされたまま、降ろし方を知らないだけなのかもしれない。


みくにLINEを打つ。


『ねえ。完璧な子ってさ、完璧でいるあいだ、どこで息してるんだろ』


返事はすぐ来た。


『息できる場所を、誰かが作るんじゃない? たとえば朝ごはんのテーブルとか』


あたしはスマホを置いて、目を閉じた。

明日の席は、もう決まってる。


(第5話・了)

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