# 第5話・前編「ハーパーの本棚」
# 第5話・前編「ハーパーの本棚」
## Prologue
夜の十一時。消灯前の自室で、ハーパー・コールはスーツケースの内ポケットから一冊の本を取り出した。
ペーパーバック。角が丸くなり、背表紙には白い筋が何本も走っている。
八歳の夏を、彼女はまだ覚えている。
州のスピーチコンテスト。原稿の三行目が飛んで、壇上で立ち尽くした。控え室で涙が出かけたとき、父は屈んで、目の高さを合わせて言った。
「泣くなら一人でやれ。人前に立つと決めたなら、人前では完成していろ」
優しい声だった。だからこそ、骨まで届いた。
それから、笑顔は設計するものになった。角度、長さ、見せる歯の本数。声の高さは半音上げて、相づちは相手の三語目に重ねる。ハーパー・コールというブランドは、毎朝鏡の前で組み立てられ、毎晩、誰も見ていない部屋で静かに解体される。
組み立てにかかる時間は年々延びている。解体したあとに残るものは、年々薄くなっている。
十歳のとき、空港の書店でこの小説を買った。
孤独な少女が、生まれて初めて友達を作る話。
調子の悪い夜にだけ読む。誰にも見せたことはない。これは設計図のない、唯一の部屋だから。
今夜は三ページで閉じた。
明日も、ハーパー・コールをやらなければならない。
## 1
朝の廊下は、パンの匂いと眠そうな足音でできている。
あたしが食堂に向かって歩いてると、前の方でばさっと音がした。
ハーパーだった。腕に抱えてた資料の束が滑って、廊下に扇形に散らばってる。
「あ、待って待って」
あたしはしゃがんで、紙を集めた。その一番下に、紙じゃないものがあった。
本だ。ペーパーバックの、すごく読み込まれたやつ。表紙には、ベンチにひとりで座ってる女の子の絵。
顔を上げたら、ハーパーが固まってた。
いつもの完璧な顔が、留め具をひとつなくしたみたいになってる。
「……笑わないの?」
英語だったけど、それくらいは分かった。
なんで、って思った瞬間、口から日本語が出た。
「なんで笑うの。好きなものに上下ないじゃん」
伝わってないのは顔で分かった。あたしはスマホを出して、いま言ったまんまを打ち込んだ。ぽん、と翻訳アプリの音が朝の廊下に響く。
画面を見せると、ハーパーは本とあたしの顔を、二回往復した。
「それにこれ、めっちゃ読んでるじゃん。角まるまるじゃん。大事にされてる本って、ちょっといいよね」
それも打って、見せた。ぽん。
ハーパーは本を受け取って、胸のところで一回ぎゅっとしてから、資料の束の下に戻した。
「……ありがとう」
それは、演説のときの声より、半音低かった。
「ユア……ウェルカム……?」
あたしの英語はそこで限界だったけど、ハーパーはなにも言わなかった。なにも言わないまま、あたしの半歩うしろを、食堂までついてきた。
## 2
朝食のテーブルは、いつのまにか四人になっていた。
あたしとアイノ。そこにユースフが「ここ、いい?」と日本語で来て、その後ろに、なぜかハーパーが立ってた。
「座る?」
あたしが椅子を引くより先に、アイノが自分のトレイを横にずらした。ノートも一緒に、十センチ。
それだけのことなのに、ハーパーは一瞬まばたきして、それから座った。
ユースフが、パンにジャムを塗りながら言う。
「僕の祖母はね、ジャムを端まで塗らない人を信用しなかった」
「なにそれ」
「端まで塗る人は、最後まで話を聞く人なんだって」
ハーパーが、ふは、と息を漏らした。
肩が落ちて、目が細くなって、声が遅れて出てくる笑い方。スピーチのあとの、写真みたいな笑顔じゃなかった。
アイノがノートから顔を上げて、じっとハーパーを見た。
「今の、いつもの笑い方と違った」
ハーパーの手が止まる。
「……そう?」
「うん。記録しておく」
アイノは本当に書いた。ハーパーはなにか言いかけて、やめて、ジャムを端まで塗った。
ポケットの中でスマホが震えた。みくからのLINE。
『ギャルが朝から国際会議とか世界どうなってんの。ねえ、ちゃんと寝てる?』
『寝てる。てか今、朝ごはん四人』
『増えてんじゃん』
そうなんだよ、とあたしは思う。増えてるんだよ。あたしが増やしたんじゃない。気づいたら椅子がずれて、トレイがずれて、増えてる。
「ここが終わったら」
ユースフが、ふっと言った。
「みんな、どの国の朝ごはんに戻るんだろうね」
テーブルが、すんと静かになった。
三ヶ月。
ここに来た日には数字でしかなかったものが、急に、ジャムの端っこみたいに具体的になった。
アイノのペンが止まってる。ハーパーはカップの中を見てる。ユースフも、自分で言っておいて、ナイフを置いた。
「……なんかいやじゃない? その話」
あたしが言うと、ユースフは「ごめん」と小さく笑った。でも誰も本当には笑わなくて、その静けさをトレイに載せたまま、朝食は終わった。
廊下に出てから、あたしは翻訳アプリを開いて「ここが終わったら」って打ちかけて、やめた。
これは、夜に履歴を見返すときの自分に任せることにした。
## 3
午前の評議。議題は「文化と教育への予算配分」。
順番に各国が意見を述べていく、いつもの流れ。アルジュンが技術教育の話で熱くなって時間を超過して、議長に止められてる。ニコライはメモの端で、ナイトの駒を親指でゆっくり転がしてる。
あたしの番は終わった。息をついて、水を一口飲んで、それで気づいた。
アマラが、ずっと原稿を見てる。
あのときからそうだった。アマラの発言はいつも、きれいに印刷された紙を、きれいに読み上げる。間違いはひとつもない。あのとき、あたしは言ったんだ。もっと聞きたかった、って。
議長が名簿に目を落とす。
「次に──セネガル代表、アマラ」
アマラの肩が、ぴくっと動いた。
原稿に目を落とす。一秒。二秒。
それから彼女は、原稿から目を上げた。
紙を、机に伏せた。
息を、吸う。
(後編へつづく)




