第4話・後編「怖いって言えばいい」
第4話・後編「怖いって言えばいい」
Scene 1 中庭、折り畳みのボール
「それ、空気抜けてるじゃん」
あたしが指さすと、エドゥアルドは手の中のボールをぽんと叩いた。
「これでいい。ボールはポケットに入れたらかさばるからな」
翻訳アプリがピロン、と鳴って、あたしのスマホに日本語が出る。エドゥアルドは芝生の上で器用にボールを膨らませ直しながら、ぽつぽつ話した。
「俺の育った場所じゃ、ボールはひとつを全員で使う。誰のものでもない。だから蹴ってるあいだだけは、誰が偉いとか、誰の家がどうとか、全部消える」
ファベーラ。前に一回だけ聞いた言葉だった。坂の上にぎゅうぎゅうに家が詰まってる街。エドゥアルドは自慢するみたいに、でもちょっとだけ目を細めて言った。
「夜にボールを蹴る音がする街は、まだ大丈夫な街だ」
「……かさばるとか、そういう意味で言ったんじゃないけど」
あたしが言うと、エドゥアルドは声を出して笑って、ぽん、とボールをあたしに投げた。アイノがベンチの端で、ノートを開きかけて——閉じた。書かずに、ただ見ていた。
そこへ、トレーを持ったスヨンが通りかかった。
「混ざっていい?」
日本語だった。スヨンはあたしの隣に座って、しばらく黙ってボールの行方を目で追ってから、自分から言った。
「韓国も、疲れる国だよ」
「え?」
「昨日のユウナの報告。気持ちが閉じてる、っていうの。聞きながら、うちの国のことかと思った」
スヨンは膝の上で指を組んだ。完璧な姿勢のまま、声だけが少しゆるんでいた。
「いい大学、いい会社、いい結婚。順番を間違えたら終わり、って空気の中でみんな走ってる。私もその走り方しか知らない」
「……チョコ、二個食べたじゃん」
「あれは」スヨンはちょっと笑った。「練習。順番を無視する練習」
Scene 2 廊下、ハーパー
午後の分科会が終わって、資料を返しに行った帰りだった。廊下の角で、ハーパーと二人きりになった。
あのとき以来、ちゃんと話すのは初めてだった。ハーパーは完璧な笑顔のまま、でもいつもよりワンテンポ遅れて、口を開いた。
「ねえ、ユウナ。ひとつ聞いていい?」
通訳アプリ越しでも、声が固いのが分かった。
「あなたのしていること——あれは友好? それとも外交?」
あたしは、あれ、と思った。同じ問いを、前に聞いた。夜のラウンジで、ナイトの駒を指で回しながら、ニコライが言ったやつだ。『友好と外交は別だ』って。
あのときと同じ答えしか、あたしは持ってなかった。
「どっちでもないよ。ただ話してるだけ」
ハーパーの笑顔が、一瞬だけ崩れた。崩れたあとの顔のほうが、ずっと話しやすそうな顔だった。
「……私はずっと、全部の会話を外交だと思って生きてきた。誰と話すか、何を話すか、全部点数がつくと思ってた」
「疲れない? それ」
「疲れる」即答だった。
あたしは手を出した。
「じゃあさ、あたしたちは、ごめんって言える関係にしようよ。点数なしで。間違えたら、ごめんって言って、終わり」
ハーパーはあたしの手を見て、それから握った。一話の「ごめん」のときより、ずっと長い握手だった。
Scene 3 夜、チェス二回目
「……異常だ」
ニコライが盤面を睨んで言った。十九手。前は七手で詰まされたのに、今夜は十九手ねばった。
「三日でこれは異常だ。君は本当に初心者か?」
「初心者だよ。でもナイトの動き、覚えたもん。一回かわいいと思ったら忘れないの」
「駒を愛で始めた人間は強くなる」ニコライは真顔で言って、ナイトを並べ直した。「もう一局」
負けたけど、楽しかった。
Scene 4 深夜の廊下
部屋に戻る途中、自販機の灯りの下に、アイノが立っていた。
ノートを胸に抱えて、寝間着のまま。眠れない顔だった。
「アイノちゃん? どしたの」
アイノはしばらく黙っていた。それから、ノートを開かないまま、言った。
「今日、私はデータのない発言を擁護しました。論理ではなく——そうしたいと思って、しました」
「うん。かっこよかったよ」
「分かっていません」アイノの声が、初めて尖った。尖って、震えた。「私は判断する側の人間です。感情があるなら、判断が歪む。歪んだ判断は人を傷つける。だから私は七歳で——」
言葉が途切れた。
「……それが、私は」
あたしは待った。せかさないで、隣の壁にもたれて、待った。
「怖かったら、怖いって言えばいいんだよ。それだけで、ちょっと楽になるよ」
長い沈黙のあと、アイノは、ノートを抱える腕に力をこめて、言った。
「……怖い」
七歳の冬から初めて口にした、分類のない言葉だった。
「うん」
「怖い、です。自分が分からなくなるのが」
「うん。言えたじゃん」
あたしはアイノの手を取って、ぐいっと立ち上がらせた。アイノの手は冷たくて、でもちゃんと握り返してきた。
「明日も朝ごはん、一緒に食べよ。未知数同士でさ」
Epilogue
ベッドの中で、あたしは翻訳アプリの履歴をスクロールした。
『気持ちが閉じてきている』『データにならない変化』『ごめんって言える関係』
今日一日が、変な英語と一緒に並んでる。なんか、テストの答案より大事なものに見えた。
ピロン。みくからLINE。
『ゆうなってさ、人の悩みを解決してるんじゃないんだよね。直そうとしないで、隣に座るだけ。それがいちばん効くんだよ、たぶん』
なにそれ、とあたしは打った。
『あたしはただ話してるだけだし』
『それな』とみくが返してきて、あたしは笑って、スマホを置いて、目を閉じた。




