第4話・前編「アイノのノートの中身」
第4話・前編「アイノのノートの中身」
Prologue
七歳の冬、私は泣くのをやめた。
飼っていた魚が死んだ朝、泣いている私に母は言った。
「泣くな、分析しろ。悲しみには原因がある。原因を特定すれば、対処できる」
母も父も福祉の研究者だった。二人とも、人間の苦しみを誰よりも真剣に扱っていた。数字にして、表にして、政策にして。だから私は知っている。感情は非効率だ。感情のまま語られた苦しみは、誰にも届かないまま消える。データになった苦しみだけが、世界を動かす。
私はそれを正しいと思って生きてきた。今も思っている。
——思っているはずだった。
ノートを開く。この合宿が始まってから、一日も欠かさず記録してきた。各国代表の発言傾向、論点の整理、有効だった説得の構造。
その几帳面な文字列の中に、ここ数日、分類できない行が増えている。
『タチバナ・ユウナ。発言にデータなし。論理構造なし。なのに場が変わる。なぜ』
『チョコレートを二個食べたスヨンは、摂取を後悔していないように見えた。なぜ』
『夜、廊下で笑い声。非効率。なのに、少しだけ長く聞いていた。なぜ』
なぜ、が処理できないまま溜まっていく。
こんなことは、七歳のあの冬から、一度もなかったのに。
Scene 1 朝の廊下、七時
朝七時の廊下は、まだ人が少なくて、窓から入る光が床に長く伸びていた。
あたしは寝ぼけていた。昨日の夜、チェスの七手詰めを頭の中で並べ直していたら寝るのが遅くなったのだ。ナイトの駒って、思い出すだけでちょっとかわいい。
角を曲がった瞬間、どん、と誰かにぶつかった。
「わっ、ごめ……あ、アイノちゃん!」
アイノだった。抱えていたノートが床に滑る。あたしより先に拾おうとして、二人の手が同時に伸びて、ちょっと気まずい間ができた。
「……おはようございます」
アイノの日本語は、教科書みたいにまっすぐだ。
「おはよ! ねえ、朝ごはんまだ? 一緒に食べない?」
アイノは三秒くらい固まった。ノートに書く前の顔だ、と思った。
「……はい」
食堂で向かい合って座るのは初めてだった。アイノのトレーは、パンとゆで卵とヨーグルト。きっちり栄養が計算されてそうな並びだった。
あたしはずっと気になってたことを聞いた。
「ねえ。そのノートにさ、あたしの分も書いてる?」
アイノはスプーンを止めた。隠すかな、と思ったけど、隠さなかった。
「書いています」
「なんて?」
「……未知数、と書いてあります」
未知数。テストでしか見たことない言葉だった。
「うれしいね、それ」
「うれしい?」アイノが初めて、ちゃんとあたしの目を見た。「分類できないという意味です。褒めていません」
「だって、まだ分かんないってことでしょ。これから知ってくれるってことじゃん」
アイノは答えなかった。ただ、ゆで卵を剥く手が、ちょっとだけ遅くなった。
Scene 2 前の夜のこと
実は、昨日の夜のことを話さないといけない。
チェスのあと部屋に戻ったあたしは、ベッドの上でスマホとにらめっこしていた。今日の評議は「各国の現状報告」。順番が回ってくる。日本の番。
あたしはデータとか持ってない。けど、言いたいことはあった。
みくの顔が浮かんだ。地元の友達の顔も。なんていうか——みんな、ちょっとずつ、諦めるのがうまくなってる気がするのだ。
メモ帳に日本語で書いた。『子どもが減ってるのは、お金だけじゃない気がする。気持ちが閉じてきてる』
それから翻訳アプリを開いた。その場で打つんじゃなくて、ちゃんと調べてから言いに行くやつ。ピロン、と通知音が鳴って、英語が出てくる。長い。覚えられない。あたしは三つに切って、一言ずつ、口の中で何回も転がした。
たどたどしくてもいい。一言ずつなら、言える。
Scene 3 午前の評議
評議室は今日も寒かった。冷房じゃなくて、空気が。
各国の現状報告は、数字の行進だった。出生率、失業率、グラフ、グラフ。みんな頭良すぎる。
「ネクスト、ジャパン」
来た。あたしは立ち上がって、昨日の夜の三つの欠片を、一個ずつ置きにいった。
「ジャパン、ハズ……レス、チルドレン」
「バット……マネー、イズ、ノット……オール」
息を吸う。ここからが、いちばん言いたいやつ。
「ピープルズ、ハート……クロージング。ちょっとずつ、閉じてきてるんだよ、気持ちが」
最後は日本語になっちゃった。翻訳アプリを掲げると、ピロン、と音がして、画面の英文を隣の席の子が読み上げてくれた。
会場は静かだった。よく分かんない静かさだった。
その静かさを、綺麗な発音が割った。
「興味深いお話です、ミス・タチバナ」
ジェームズだった。イギリス代表。いつもハーパーの斜め後ろにいる人。笑ってるのに、笑ってない。
「ただ、確認させてください。今の『気持ちが閉じている』という現象に、データの裏付けはありますか? 我々は印象を共有する場ではなく、政策を議論する場にいるはずですので」
口調はずっと丁寧だった。丁寧なまま、あたしの言葉をそっと棚の上に片付けようとしてるのが分かった。なんかやだな、と思った。でも言い返す英語が、あたしの中にはまだなかった。
そのときだった。
「補足します」
手を挙げたのは、アイノだった。
「統計は事象の発生から集計まで、常に時間差を持ちます。データにならない変化を最初に検知するのは、生活者の実感です。それを報告として扱わないなら、我々は常に手遅れの数字だけを議論することになります」
通訳のイヤホン越しでも、会場の空気が動いたのが分かった。ジェームズは「なるほど、傾聴に値しますね」と丁寧に笑って、引いた。
あたしはアイノを見た。アイノは前を向いたまま、自分のノートをじっと見ていた。
——私は今、何を言った?
データの側の人間のはずの私が。擁護した。データではないものを。
ペンを持つ指先が、わずかに冷えている。これは何。分類は。原因は。
……特定、できない。
Scene 4 引き
昼休み。あたしはアイノを誘って中庭に出た。報告のお礼を言いたかったのだ。アイノは「礼は不要です。事実を述べただけです」と言いながら、なぜかついてきた。
中庭のいつものベンチが見えてきて、あたしは足を止めた。
ベンチの前に、エドゥアルドが立っていた。
手には、くしゃっと折り畳まれた、空気の抜けたボール。
エドゥアルドはあたしたちに気づいて、にっと笑った。




