帝都の喧騒と、微睡みの帰路
鈍い痛みを訴える脇腹の傷と、鉛のように重い瞼。
「……俺はいったい、何をやっているんだか」
乾いた風が吹き抜ける帝都の裏通りを駆け抜けながら、リュカは自嘲気味にぼやいた。つい先ほどまで、ミルクの吐き戻しで汚れた産着を洗い、寝不足で泣き叫ぶ赤子を必死にあやしていたというのに。今は血の匂いが微かに漂う石畳を蹴り、密偵が告げた「不穏な動き」の震源地へと向かっている。
剣豪・重蔵との死闘で負った傷は、確実に彼の限界近い肉体を蝕んでいた。だが、今のリュカにとって最大の敵は「圧倒的な睡眠不足」である。
「夜泣き三回、おむつ替え五回……それに比べりゃ、チンピラの暴動なんて子守唄みたいなもんだ」
そんな詮無い強がりを口の中で転がしながら、リュカは騒ぎの中心である帝都東区の廃倉庫街へと到着した。
しかし、リュカが刀の柄に手をかける機会は、すでに失われていた。
倉庫の前に広がっていたのは、文字通りの「死屍累々」の光景である。
「そこを動くな。動けば、次はお前の首が飛ぶ」
冷たく、しかし艶やかな声が響く。
そこには、返り血を浴びてなお妖艶さを増すエレオノーラが立っていた。彼女の背後では、セリアが冷徹な手付きで残党を縛り上げ、おときが油断なく周囲に警戒の視線を配っている。
どうやら『野狗』の壊滅で生じた裏社会の利権を狙い、他所のならず者たちが徒党を組んで動いたらしい。だが、それも彼女たち『鉄壁の揺りかご』の水も漏らさぬ防衛網の前に、赤子の手をひねるように鎮圧されていた。
「……なんだ。俺の出番はねえのか」
張り詰めた空気を抜くようにリュカがため息をつきながら姿を現すと、血に濡れた夜の女王たちの表情が、一瞬にして「妻」であり「母」の顔へと豹変した。
「リュカ!? あなた、なぜここに!?」
「馬鹿なのご主人様! 昨日の傷がまだ塞がってないのに!」
「子どもたちはどうしたのさ! まさか置いてきたんじゃないだろうね!?」
凄腕の暗殺者たちを震え上がらせていた三人が、一斉に血相を変えてリュカに詰め寄る。
自身の負傷に対する無頓着さへの怒り
睡眠不足でふらついていることへの心配
子どもたちの現状確認
三方向から浴びせられる弾丸のような小言に、リュカは思わず頭を抱えた。
「落ち着け……。子どもたちは屯所の隊員たちの奥方衆に頼んできた。それに、俺だって一応はこの街の元・顔役だ。騒ぎと聞いちゃ、黙って寝てるわけにもいかんだろ」
「寝てなさいよ! あなたはもう、死にかけの隠居男なんだから!」
エレオノーラが怒鳴りながらも、その手は優しくリュカの頬を包み込み、熱を測るように額をすり寄せてくる。彼女の瞳には、愛する男をいつ失うか分からないという、深い恐怖と執着が揺らめいていた。
「すまねえな。……でも、なんというか、放っておけなかったんだ」
リュカは苦笑しながら、妻たちの頭を順番に撫でた。
世界を救う英雄でもなければ、無敵のチート能力を持っているわけでもない。ただの、余命幾ばくもない不器用な男だ。
だが、子どもを誰かに任せきりにして「俺は英雄だ」と踏ん反り返るような空虚な生き方より、寝不足で目をこすりながらも、家族の暮らす街の平穏のために駆け出してしまう今の自分が、リュカは嫌いではなかった。
「……たく、世話の焼ける亭主だね。帰るよ。今日はもう、あたしらに任せて寝てな」
おときが呆れたようにため息をつき、リュカの腕を自分の肩に回して支える。セリアとエレオノーラも、血に濡れた外衣を脱ぎ捨て、彼に寄り添うように歩き出した。
「生きているなら生きよ」
かつての師の言葉が、再び脳裏をよぎる。
禍いも、幸せも、夜泣きも、愛する者たちの重い執着も。そのすべてを抱え込んで歩くこの道こそが、「生」というものであり、リュカそのものだった。
「なあ……帰ったら、少し寝てもいいか?」
「ええ、もちろんよ。でもその前に、傷の薬を塗り直すわ」
「おむつも買って帰りましょう。ご主人様」
「夕飯は何にしようかね、立派なネギをいただいたから根深汁と後は精がつくように鰻かね」
情念の檻は、今日も騒がしく、そして果てしなく温かい。
東の空がわずかに白み始める中、リュカはまた少しだけ、この矛盾だらけの世界に留まる理由を見つけたような気がして、小さく、だが確かな笑みをこぼした。




