穏やかな昼下がり
数日後の、よく晴れた昼下がり。
リュカはふらりと、路地裏にあるいつもの蕎麦屋の暖簾をくぐった。
珍しく、内臓を焼き焦がすような鈍い痛みが引いていた。己の命の灯火が消えゆく前の、最後の瞬きのようなものかもしれない。それでも、今日ばかりは重い思考を捨てて、ただ静かな日常を味わいたかった。
「いらっしゃい! あら、リュカさんじゃない!」
奥から飛んできたのは、快活な声と弾むような足取り。この蕎麦屋の看板娘、おときだった。昼時の喧騒が去った店内には、リュカの他に客はいない。
「もり蕎麦を一枚。それだけでいい」
「えっ?」
リュカの注文を聞いて、おときは目を丸くし、ひどく怪訝な顔をした。
「お蕎麦だけ? いつもみたいに、板わさか焼き味噌で一杯やらないの? 今日は非番なんでしょ?」
「……ああ。だが、酒はもういい」
おときが小首を傾げたのを見て、リュカは笠を傍らに置き、自嘲気味に薄く笑った。
「俺の体は、もう酒を受け付けないところまで来ているらしい。……そう長くはない命でね。最後に、お前の店の美味い蕎麦の味を舌に焼き付けておきたくてな」
さらりと言ってのけたリュカの言葉に、おときは持っていた布巾をぎゅっと握りしめた。
普通なら「縁起でもない」と笑い飛ばすか、あるいは涙ぐむところだろう。しかし、リュカの予想に反して、おときの反応はそのどちらでもなかった。
彼女の瞳の奥で、底知れぬ野心と……何か熱を帯びた情念のような光が、あやしくギラリと輝いたのだ。
看板娘の裏の顔
「……それ、本当なの? もう、長くないって」
「ああ。嘘をついてどうする」
リュカが頷いた瞬間、おときは周囲に誰もいないことを確認すると、リュカの向かいの席に堂々と腰を下ろし、身を乗り出してきた。先程までの愛想の良い看板娘の空気は完全に消え失せ、冷徹で計算高い、裏社会に生きる者の顔つきになっていた。
「なら、アタシも悠長に蕎麦なんか茹でてる場合じゃないね」
「おとき……?」
「リュカさん。あんたが引退前に裏で何をやらかしたか、ウチの情報網でぜーんぶ掴んでるよ。局長様も、奉行所の新トップも、なんなら国のトップの宰相様まで……あんたの『女たち』だってね」
リュカは目を見開いた。国家の最高機密レベルの話を、なぜ一介の蕎麦屋の娘が知っているのか。
「お前……何者だ」
「驚くのも無理はないけど、アタシは帝都を縄張りにしてる盗賊団『夜烏』の頭目の娘さ」
おときはニヤリと笑った。
『夜烏』といえば、帝都の裏社会でも伝説的な盗賊団だ。しかし、彼らには徹底した鉄則があった。
『血を流さず、見つからず、盗まれた者も困らず』
あくどい商売をしている者からしか盗まず、決して命は奪わず、気づかれた時には風のように消えている。そのため、守護隊も奉行隊も実態を掴めずにいた。
「でもね、リュカさん。あんたの作った『狂気の女たちの包囲網』のせいで、今の帝都の治安は鉄壁すぎるんだよ。表は守護隊が目を光らせ、裏は奉行隊が網を張り、上が法をガチガチに固めてる。ウチみたいな行儀のいい盗賊団じゃ、もう商売あがったりさ。これ以上やれば、いつか必ずボロが出る」
おときはそこで言葉を切り、リュカの手を両手でギュッと包み込んだ。その手は、やけに熱かった。
新たな契約と、さらなる情念
「だから、取引を持ちかけたいんだ。ウチの盗賊団を、守護隊の『密偵』として丸抱えしてくれないか? アタシたちの情報網と足の軽さは、あんたが残した治安組織の『耳と目』として絶対に役に立つ。下働きでもいい。ウチの若い衆に、真っ当な居場所をやってほしいんだ」
リュカは思案した。
確かに、エレオノーラやセリアが組織を動かすにあたり、裏社会の情勢を水面下で探る密偵部隊は喉から手が出るほど欲しいはず『夜烏』なら表に出せない闇の仕事も完璧にこなせるだろう。魅力的な提案だ。
「……話は分かった。彼女たちに掛け合ってみよう。だが、なぜ俺に頼む? 今の俺はただの隠居の身だぞ」
リュカがそう問うと、おときはふっと顔を赤らめ、リュカの手を握る力をさらに強めた。
「あんたがもう長くないなら、アタシも急がなきゃならないからさ」
「……ん?」
「ウチの一党を守護隊に売り渡すんだ。ただでとは言わないよ。アタシたちの居場所と役目の担保として……アタシにも、あんたの子をみごもらせておくれよ」
リュカの思考が、一瞬完全に停止した。
「……は?」
「局長様や奉行所のお嬢様に、あんたの血を残させてるんでしょ? なら、裏情報網を束ねるアタシにもその権利はあるはずだよ。あんたの血を引いた子を『夜烏』の次の頭目に据えれば、一党の連中も絶対に裏切らない。……それに」
おときは潤んだ瞳でリュカを見つめ上げ、頬を染めて囁いた。
「アタシだって、昔から毎日ウチの蕎麦を美味そうに啜るあんたの背中を見てて……ずっと、惚れてたんだからね。あんたの残す帝都の裏側は、あんたの子を抱いたアタシが、泥を啜っても、死ぬ気で、いいや死んでも守ってあげるよ」
逃げ場のない帝都、リュカにとって。
「……………………」
リュカは、目の前が真っ暗になるのを感じた。
表の治安トップ、裏の治安トップ、国家権力のトップ。
それに加えて、ついに裏社会の情報網トップまでが、己の種と情念を要求してきたのだ。
「……お前もか」
リュカが両手で顔を覆い、深すぎるため息をつくと、おときは嬉しそうにくすくすと笑い、身を乗り出してリュカの頬にチュッと軽い口づけを落とした。
「決まりだね! 蕎麦ができたら、まずは奥の部屋で……『手付金』をもらおうか」
おときが鼻歌交じりに厨房へ戻っていくのを見送りながら、リュカは完全に言葉を失っていた。
自分の命はもう長くない。
だが、あの重い愛と情念の檻は、死の淵に向かう彼の首を、さらに強固に、そして優しく絞め上げていく。
(……帝都の平和は安泰だが…手前の子どもくらい抱いてから死にてえな)
リュカはヤケクソ気味に天を仰いだ。
彼の蒔いた種は、国家権力から裏社会にまで深く根を下ろし、彼を永遠に逃がさないための『鉄壁の揺りかご』を完成させようとしていた。リュカの気持ちをすりつぶして。




