秩序は理性によらず、ただあるのみ
夜風が彼の心臓を刺したが、不思議と胸の奥は、これまで感じたことのない温かな火が灯っているようだった。
「……それにしてもだ」
太一は櫓の手すりにどっかりと寄りかかり、眼下で後片付けを進める隊員たちを見下ろしながら、ふと声を潜めた。
「あの権力と金に執着していた奉行隊のタヌキ親父……老伯爵が、引退なんて殊勝な真似を自分からするわけがねぇ。お前、辞める前に裏でどんな絵図を描いたんだ?」
その問いに、リュカは菅笠の奥で冷たい笑みをこぼした。
老伯爵は当然、自らの意志で引退などしていない。彼が「加齢」という建前で表舞台から逃げ出した裏には、リュカが仕掛けた容赦のない罠があった。
「大したことはしていない。ただ、彼が裏社会と結託して帝都の復興資金を横領していた証拠と……彼と昵懇だった闇商人の『小指』を、アマ◯ンの箱に入れて枕元に置いてきただけだ。……『綺麗に引退し、娘に跡を譲るか。明日、この帳簿とともに広場に首を晒すか』とな」
「で、その後釜に座った『娘』ってのが、親父とは似ても似つかない真っ当な奴だったってわけか」
「まっ…とう…といえばそうか。だが……奉行隊はまともになった。そして、こちらのトップが『狂犬』と呼ばれた私のままでは、民衆も心からは歩み寄れない。だからこそ、私に代わる新しい象徴……**『光』**が必要だった」
太一は腕を組み、納得したように頷いた。
「それが、新しい局長……エレオノーラ様ってわけか。だがよ、あんな大貴族の深窓の令嬢で、誰にでも優しい聖女みたいな人が、なんでまた地べたを這い回る隊のトップなんぞを引き受けたんだ?」
その言葉に、リュカの脳裏に局長交代の宣言をした後の夜、二人になった時のエレオノーラの顔が浮かんだ。
世間からは「慈愛に満ちた聖女」と謳われる彼女の、リュカに向けるその内面は、慈愛などという生易しいものではない——底知れぬ情念と、火傷しそうなほどの狂気じみた執着でドロドロに煮えたぎっていたのだ。
リュカが「私の後を継ぎ、帝都の光となれ」と持ちかけた夜のこと。ファイブアイアンに酒と鴨鍋を用意してもらい、ささやかながら二人だけの宴を開いた。その夜、彼女は甘い熱を帯びた陶酔の瞳でリュカの冷たい手を取り、自分の頬に押し当ててこう囁いた。
『……愛しいリュカ。あなたが命を削り、この手を血に染めて作り上げたこの美しい箱庭を、他の誰かに触れさせるなど……私は許しませんわ。私は、皆の完璧な『光』になりましょう。……ですが、たった一つだけ。局長の座を引き受ける**『条件』**があります』
潤んだ瞳でリュカを見つめ上げ、彼女は耳元で囁いたのだ。
「……何だ」
『——私に、あなたの子をみごもらせてくださいませ。死にゆくあなたの命の証を、私のものとしてこの身に宿し、育てたいのです。血の繋がった呪い《愛》として……決して、絶対に、永遠に私から離れることは許しませんわ』
「彼女が守護隊のトップを引き受けたのは、帝都のためではない。俺が作り上げたものを独占し、『俺の子を孕む』という狂気じみた契約で、俺を永遠に縛り付けておくためだ」
リュカが静かにそう零すと、太一は苦く顔を引きつらせた。
「あの聖女様、ヤバかったんだな。で、お前……条件呑んだのか!?」
「背に腹は代えられなかったからな」
「おいおい、骨の髄までしゃぶり尽くされてんじゃねえか」
呆れ、内心戦慄する太一をよそに、リュカは淡々と話を続けた。
「……だが、問題はそれだけではなかった。奉行隊のトップに立った老伯爵の娘——セリアもまた、影に日向にずっと私を見つめ、恋心を抱いていたそうだ」
「……は?」
太一の声が裏返った。
「彼女たちを引き合わせた日、エレオノーラはセリアが俺に向ける好意の視線に気づいた。だが、微笑みを浮かべたまま、そっと自分の下腹部に手を当ててこう牽制したんだ。『あなたは彼の歩んだ道(理想)を愛しなさい。私は彼のすべて(血肉)を愛しますから……共に彼が遺す帝都を、共に愛しましょうね』とな」
圧倒的な狂気とも言える愛と迫力に、セリアはエレオノーラがすでにリュカの心身と命の証を独占していることを悟りはした。しかしその愛を「決して手の届かないもの」として昇華させることは叶わなかった。
『リュカ様が帝都の安寧のためにエレオノーラ様をそうしたのなら、自分もそうされる権利はあるべきです。でなくては、彼の愛した帝都を死ぬ気で守り抜くなどという綺麗ではあるがおためごかしでは命はかけらません』という強烈な思いをぶつけたのだ。
リュカは夜空を仰ぎ見ながら、深く溜息をついた。
「その日の夜更けだった。エレオノーラは屯所に詰めていた。俺は一人で寝所に入った。そこにセリアは単身忍び込んできた。彼女は一切の迷いなく自らの衣を脱ぎ捨て、月明かりの下で震える純白の肌を晒したのだ」
『帝都を守る盾として生きる。そのための担保として、私にもあなたを……あなたの子をください。さもなくば、この命、今ここで絶ちます』
「彼女の瞳は、狂気に近い覚悟で爛々と輝いていた。私が止める間もなく、彼女は私の唇を強引に奪い、その熱く柔らかい身体を押し付けてきた。不器用だが切実な指先が、私の傷だらけの背中を掻きむしるように縋り付いてな……。結局、私は彼女のその重く深い情念に抗いきれず、一晩かけて彼女を抱き、望まれるままに、俺を刻み込むことになった」
「……」
太一は再び呆れたように天を仰いだ。
「エレオノーラだけでなく、奉行隊のトップたるセリアもまた、私と深く結ばれ、その身に私の種を宿したというわけだ。セリアの肉体を伴った狂おしい献身と、エレオノーラの底知れぬ独占欲。二人とも『私という男の血肉と軌跡を守る』という一点において強固に結びついた。それが、二つの組織が連携できるようになった真の理由だ」
「…………」
太一は畏敬と呆れがないまぜになった顔でリュカの肩を抱いた。
「お前は……帝都の治安トップ二人の女を狂わせて、自分のストーカーまがいの姫様と奉行の嬢ちゃん両方に種まで蒔いて、その嫉妬と情念で平和を盤石したと」
「——太一。……この『盤石な体制』には、もう一つ上の絶対的な蓋がある」
リュカが笠の奥で冷ややかに目を細めると、太一の動きがピタリと止まった。
「……上の蓋?」
「帝都の腐敗を裏で牛耳り、私を撃滅隊として使い潰そうとしていたあの古狸の宰相が……先日失脚し、若き新宰相が就任して、新しい屯所を差配してくれたことは知っているな?」
「ああ……元老院の勢力図も完全にひっくり返ったって………」
「新宰相は、かつて撃滅隊で私の直属の部下の女だ」
さすがに太一も驚いたようで、目を限界まで見開いた。
「彼女は、私が撃滅隊として地獄を這いずり回っていた時代から、私に絶対的な忠誠と……歪んだ愛情を捧げていた。彼女の愛は、エレオノーラの執着やセリアの献身とはまた違う。純粋な**『狂信』**だった」
リュカは妙に穏やかで平坦な声で続けた。
「私と共に血の雨を降らせていた彼女は、私のために剣を置き、自ら政治の泥沼へと身を投じた。古狸の宰相の懐に入り込み、毒となり裏の繋がりを侵食し、最後に寝首を掻き切って成り代わったんだ」
宰相の座を奪い取った夜、血まみれのドレスを着た彼女は、リュカの足元にひざまずき、恍惚とした表情で彼の靴に口づけをした。
『——隊長に血の泥を啜らせたこの腐った国を、私が中枢から作り変えましょう。もう誰も、あなたを害させません。軍も、警察も、そして国家そのものも……すべては、愛するあなたが穏やかに眠れる、完璧な揺りかごにするために』
「政治の中枢は『狂信の部下』が完全に掌握し、私を害する法案をすべて握り潰す。治安の最前線は身ごもった『表の妻』であるエレオノーラが仕切り、治安の防衛線は私と深く結ばれ同じく身ごもった『裏の妻』であるセリアが死守する。……これが、私が帝都に敷いた真の防衛網だ」
「……………………」
沈黙が降りた。
太一は虚空を見つめていた。
「警察トップ……治安部隊トップ……それに、国家の最高権力者たる宰相……」
太一の声はかすれていた。ずっと息を吸うと
「帝都の中枢、全部お前のガチ恋勢じゃねーか!! 誰が国を回してんだよ! お前へのドロドロの愛と情念と種付けで国家権力が回ってんじゃねえか!! お前、本当に逃げ場ねぇぞ!!」
「言っただろう。子供の喧嘩に大人が出ていく必要はない、と」
リュカが自嘲気味に笑うと、太一はもはや引きつった顔のまま、天を仰いで乾いた笑いを漏らすしかなかった。
雲がゆっくりと流れ、隠れていた月が再び帝都の路地を照らし出す。
眼下の三河屋の前では、奉行隊の若き女長セリアが馬に跨り、現場の指揮を執っていた守護隊の副隊長としっかりと握手を交わしていた。その凛々しい横顔の奥に秘められた、密やかな身籠りの熱と狂おしい慕情。
守護隊の奥の院で、同じく身ごもった腹を撫でながら微笑む底知れぬ聖女エレオノーラ。
そして国の中枢で、彼を守るために権力のすべてを振るう狂信の宰相。
(これでいい……)
リュカは深く笠を被り直した。
自分が手を血に染め、憎まれ、恐怖された日々は無駄ではなかった。あの重すぎる愛の数々に身を縛られ、逃げ場を完全に塞がれようとも、その情念と自身の血肉を分けた犠牲の上に、今、確かな『秩序』が芽吹いているのだから。
「さあ、帰るぞリュカ。仕事終わりの一杯に付き合え」
「……酒は控えていると言っているだろう。それに、あまり遅くなると『妻たち』が迎えに来かねん」
「あー……もうすでに奉行のセリア嬢ちゃんが影からみてそうだし、なんなら宰相閣下が国軍動かして探しに来そうだな、ま! いいから来い! 奢ってやる!」
強引に背中を押す旧友の温かさに苦笑しながら、リュカは静かに火の見櫓を後にした。
彼を待ち受ける女たちの重すぎる愛と、新たに芽生えゆく命たちの気配。国家を巻き込んだ巨大すぎる情念の檻に囚われていることを胸の奥底にしまい込みながら、帝都の夜は、かつてなく穏やかに更けていった。




