ニートではない
帝都の喧騒から少し離れた裏路地。深く被った菅笠の影から、リュカのんびりと街の息遣いを観察していた。
すり切れた着流しに、無精髭。かつて帝都の闇を震え上がらせた『撃滅隊』のトップは、今やどこからどう見ても、その日暮らしのうらぶれた浪人であった。
隊の運営を心から信頼する新局長に丸投げ……いや、託して以来、リュカはこうして単独で動ける自由を手に入れていた。「悪い奴はいないかなー」と呑気に空を見上げるその姿は、事情を知らぬ者からすれば、昼間からふらふらと歩き回るただの浪人の散歩にしか見えないだろう。
だが、染み付いた習性というものは恐ろしい。無目的に歩いているように見せて、その実、リュカの足は確かな情報網をなぞっていた。先ほども裏長屋に住む昔馴染みの密偵を訪ね、幾つかのきな臭い噂と引き換えに小粒《小金》を握らせてきたばかりだ。
(さて、そろそろ腹も減ったな……)
行きつけの蕎麦屋で、温かい田舎蕎麦でも手繰ろう。あそこの気立ての良い看板娘・おときは、リュカが顔を出さないと「またどこかでしにかけているんじゃないか」と本気で心配して泣き出しかねない。蝕まれた心臓の調子も、今日はいくぶんかマシだった。
「……またお前か」
リュカがふと歩調を緩めた瞬間、音もなく隣に寄り添ってくる影があった。
「ご隠居の散歩にしては、少しばかり殺気が漏れておりますよ。元・局長」
菅笠を深く被り、リュカと瓜二つの薄汚れた浪人風の男。いや、男か女か、それすらも定かではない。
新星『守護隊』が誇る、四番隊隊長。年齢、性別、体格すらも自在に偽り、あらゆる環境に溶け込む変装と潜入の達人である。新体制になってもなぜか時折り、こうして半分引退したリュカの後を野良猫のように追ってくるのだ。
「俺はもうただの素浪人だ。報告なら、あの女……いや、新局長にしろ」
ウンザリしたようにため息をつくリュカに、四番隊隊長は笠の奥でくすりと笑った。
「総局長殿には、すでに書置きを残してあります。これから少々、長丁場になりますゆえ、ご挨拶をと」
「長丁場?」
「ええ。帝都のはずれ、廃村になったあの一帯の荒屋に、どうやら質の悪い流れ者の盗賊が巣を張っているようでしてね。少々手際が良すぎる。裏で糸を引いている者がいるやもしれません。……手始めに、下っ端の浪人として一味に潜り込もうかと」
並んで歩きながら、世間話でもするかのような軽い口調で四番隊隊長は告げた。敵の懐に丸腰で飛び込む、死と隣り合わせの任務だというのに、その横顔には微塵の緊張もない。
「……ほどほどにしておけよ。下手すると命を落とすぞ」
「ご忠告、痛み入ります」
二人の足が、大きな辻道に差し掛かった。蕎麦屋へ向かう大通りと、帝都のはずれへと続く裏道との分岐点だ。
「では、私はこれにて。おときちゃんによろしく」
「気をつけろよ」
短く声をかけると、四番隊隊長は一礼し、まるで最初から存在しなかったかのように、人混みの中へと溶けて消えた。その見事な気配の絶ち方に内心で舌を巻きながら、リュカは再び蕎麦屋への道を歩き出した。
しかし、平穏な「ニートの散歩」は、そこまでだった。
蕎麦屋の角を曲がり、出汁の香りが漂ってくるはずの路地に足を踏み入れた瞬間、リュカの背筋に冷たいものが走った。
香りが、違う。
鰹と醤油の匂いを塗り潰すような、生臭い鉄の匂い——血の匂いだ。
「きゃああああっ!!」
店の中から、鼓膜を劈くようなおよねの悲鳴が響き渡る。
リュカが目深に被っていた菅笠を弾き飛ばし、一瞬で店の暖簾をくぐり抜けると、そこには異様な光景が広がっていた。
昼飯時で賑わっているはずの店内は荒らされ、常連客たちが床にうずくまっている。そして、店の奥で震えるおよねの首筋に、汚れた刃を押し当てている三人の男たち。
男たちの首元と腕には流れ者の盗賊特有の刺青が刻まれていた。
「……帝都のはずれに巣食っているはずのネズミが、なぜ白昼堂々、こんな市中のど真ん中にいる?」
リュカの低い声が、静まり返った店内に響く。
男たち三人は振り返り、血走った目でこの場違いな素浪人を睨みつけた。
「あぁ? すっこんでろ! 俺たちはもう失うものなんてないんだよ」
男がそこまで言いかけた瞬間。
ズドォォォォン!!
一瞬にして三人は床に伏していた。何が起こったかも当人たちは知れなかったろう。
しかしこれは…
もしや、四番隊隊長が潜入しようとしていた盗賊と何か関わりがあるのか。優れたリュカの勘働きと何より経験が事件のあらましを見抜いた。こいつらは単なる狼藉者などではない。何かの起こり…、か?
リュカの目が久方ぶりに、撃滅隊トップの頃の狂気と冷酷の混じった光が宿った。




