巨悪
帝都守備隊の屯所には、今日も今日とて市民からの「お礼」が届く。
「迷子の猫を探してくれてありがとう」「悪徳商人のぼったくりを止めてくれて感謝する」――かつては帝都で見境なく悪と思われる者どもを見境なく殲滅し、「帝都の狂犬」と呼ばれた彼らも、今や下町の住人にとっては頼れる用心棒と少しずつ認識されてきた。
「隊長、差し入れです。今度は手作りの焼き菓子だそうで」
トニが抱えきれないほどの包みを運んでくる。
「随分と周囲の評価が良くなったね、我々は」
リュカは書類の山から顔を上げ、細めた目を優雅に遊ばせた。奉行団の役人たちが「身分をわきまえぬ下衆が集まってアホ踊りをしているだけだ」と毒づく声が屯所の外まで聞こえてくるが、リュカはそれをどこか遠くの羽虫の音のように聞き流している。
「貴方が正義を執行するほどに、既得権益にしがみつく連中は牙を剥く。ですが、この街の空気は確実に変わっています」
エレオノーラが淹れたての茶を差し出す。彼女の剣筋も、かつての迷いが消え、より鋭く洗練されていた。街を巡回すれば、子供たちが手を振り、商人たちが深々と頭を下げる。それは帝都守備隊が力でねじ伏せて得た平和と、何より日々の小さな積み重ねで勝ち取った「信頼」の証だった。
だが、そんな平穏な日常のすぐ下で、死の淵にいた何かが動き出そうとしていた。
帝都の地下深部。かつての王宮のさらに奥、陽光が永遠に届かぬ聖域。
そこには『古き血族』の長、枢機卿ヴォルガが、腐りかけた玉座に座していた。その姿は、人の皮を被った深淵そのものだ。
「宰相の小僧が、たかが『掃除屋』ごときに足元を掬われるとはな。実に嘆かわしい」
ヴォルガの指先が、帝都全土の魔力回路を記した地図を撫でる。
彼の周囲には、ザザを上回る異形の「器」たちが、影のように直立していた。彼らはリュカのような個人の強さではなく、国家を一つ丸ごと生贄にするための「儀式装置」だ。
「リュカ……あの男の魂は、我らが長年求めていた『器』に相応しい。彼が積み上げた信頼、守り抜こうとする日常、その全てを絶望に塗り替えたとき、最も高純度な『死の魔力』が生まれるだろう」
ヴォルガの傍らで、一人の道化師が踊るように笑った。
「あの方々はもうすぐ、帝都という名の舞台で踊り狂いますよ。守備隊の皆さまが愛してやまない、この『日常』を、我々がどのように灰に変えるか……想像するだけでナニが震えますねぇ!」
ヴォルガは冷酷に言い放つ。
「焦ることはない。リュカが帝都の平和に執着するほど、その魂は美しく熟す。帝都という名の檻を、我らの神の揺り籠に変えてやるのだ」「は!御心のままに」
その頃、リュカは屯所の屋上で夜風に当たっていた。
街の灯りは温かい。先ほど食べた蕎麦と天ぷらの香りがまだ残っているような、そんな平和な匂いがする。
「……何か、嫌な予感でも?」
背後から近づいたエレオノーラが、リュカの隣に立つ。
リュカは自分の右手をじっと見つめた。ザザとの戦いで禁術を使った影響で、その皮膚の一部は既に、人間とは違う黒い結晶のような質感を帯び始めている。
「いや、ただの深酒のせいさ、つまみが美味くて少し過ごしてしまった」
リュカはエレオノーラに背を向け、街を俯瞰する。
「だが、エレオノーラ。俺たちは守り抜く。奴らがどんな『嵐』を連れてこようと、この帝都の明かりが消える前に、奴らの喉元を食い破る。……たとえ俺が人でなくなったとしても、な」
「その時は、お供します。あなたが人でなくなるのなら、私は鬼となり、全てを滅します。あなたのいない帝都、隊には何の意味も価値も私にはない」
それが、例えなどでないこと、そのままの意味である事をリュカは知っていた。
「そうはならないようにしないとな」
エレオノーラがリュカについて、|好意|《粘ついた狂気》を持っていることを知っているリュカは、苦笑しながら「無論、そうはならないように努力するけどね、僕に何かあったら頼むよ、|そうしてくれ|《奴らをやっつけて》。
「わかりました、|そうした後|《全てを消し去った後》あなたの後をすぐ追います」
リュカは何となくお互いの認識の違いが気になったが『ま、いいか、何とかするだろ、この女なら』そう空を見上た。
ふいに、遠くの地平線に、不吉な赤い閃光が一本、稲妻のように走った。
その邪悪な輝きはリュカとエレオノーラの視界に不吉な予感を孕んで映った。
リュカの切長の目が、獲物を狙う猛獣のように静かに、しかし激しく光を宿す。日常の終わりは、もうすぐそこまで来ていた。




