五
「お疲れ様」
藤堂さんがカップを軽く掲げる。
「お疲れ様です」
自分もグラスを掲げて返礼する。
「いつも思うんだけど、ガラッと雰囲気が変わるよね」
「そんなこと言ってくださるのは藤堂さんだけですよ」
ギャルソン風の装いは格好良いので気に入っているが、プライベートでも同じ様に着飾りたいかと聞かれるとそうではない。結い上げた黒髪と比較的高めな身長のせいでキャリアウーマンの様な印象を持たれやすく、その印象を打ち破る為に森ガールといったゆるふわなコーディネートを普段から意識しているが、その試みは虚しいあがきに終わることが多い。
「全く見る目が無いんだね、今時の男は」
曖昧に頷いてグラスを傾ける。温かく滑らかな味わいが伝わってくるのが感じられて気分が高まる。待ちに待ったアイリッシュ・コーヒーはいつもよりも濃厚で優しかった。
「それにしても静かだ。こういうのもたまには悪くないね」
「そうですね」
「まあ、敏ちゃんとしては微妙なところだろうけど」
「それなら閉店にしないよ」
畑島さんが静かに笑う。
閉店時間には早いが、これ以上お客さんが来そうにない様子の時は早めに店仕舞いしてしまって、残った常連の人達と一緒に本来の閉店時間までゆっくりするのが常だった。
必然的に私の最後の仕事が、出入り口の扉に掛けてある開店と閉店を示す表示板を裏返すことになる日が多いが、気心知れた人達と談笑出来るのは良いものだ。
しばらくして藤堂さんが後ろを振り返る。窓際のテーブルではこの日最後の客となった男性が夜景を眺めていた。藤堂さんが立ち上がって声を掛けた。
「もし宜しかったら一緒に如何でしょうか?」
相手は驚いた様子で振り返る。
「良ければ一杯差し上げますよ。こちらで話しませんか?」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
男性客がグラスを持ってこようとしたので、そっとその手を止めて自分が代わりに受け取る。同じく向かおうとしていた畑島さんは一瞬何か言いたそうな表情をしたがそのまま黙っていた。シフトは確かに明けているがこれくらいのことなら問題はないだろう。
「二十年も経てば綺麗な夜景も少しは変わるものですが、この雰囲気と陳列されているお酒の種類は変わりませんね」
「昔はあまり高層ビルもありませんでしたから」
「確かに」
「では何を飲まれますか?お好きなものを仰ってください」
「それではクイーン・エリザベスを」
「かしこまりました」
男性客は大塚と名乗った。
大塚さんは差し出されたクイーン・エリザベスを少し眺めていた。そしてゆっくりと口元に運ぶ。その姿には先程感じた切なさは無く、ただ純粋にその一口を楽しんでいるように見えた。
私は、お酒に詳しくないと言いながらもこのカクテルを頼むことについて興味を覚えずにはいられなかった。
「どうしてクイーン・エリザベスなんですか?」
「え?」
「いえ、先程お酒には詳しくないと仰っていたから気になってしまって」
「ああ、そうでしたか。お恥ずかしい話ですが、初めてこちらに来店した当時の私は全くお酒の知識が無かったんです。見たこともない名前が並ぶメニューを見た時はどうすれば良いものか分からず困り果てた私は、中でも特にお洒落な響きのものを選ぶことにしました。いえ、目に飛び込んできたというのが正しいですね。それがこのカクテルでした」
懐かしげに語るその横顔は楽しげだった。
「今にして思えば、非常に思い切った真似をしたものです。ですが、格好良いところを見せたかったんでしょうな」
「分かりますよ。男はみんなそういうもんです」
藤堂さんがゆっくりと頷きながらカップを口元に運ぶ。
「私もピアノを始めたそもそものきっかけは、女の子に振り向いてもらいたかったからですし。女の子にちやほやされる為に始めたことが商売になるとは思いもしませんでした」
お互いに軽く笑い合うと大塚さんが尋ねた。
「ということは今もピアノを?」
「ええ、ピアニストの端くれとして過ごしております」
「彼は開店当初からここで演奏しているんです。彼とはもう随分と長い付き合いですが、有名になっても変わらずここに足を運んでくれるのです」
畑島さんが少し微笑んで言った。
「そうでしたか。ではもしかすると、演奏を拝聴しているかもしれませんね」
「いやはや、それはお恥ずかしい。昔ですら拙い状態でしたのに老齢の身である今となっては全くです。これからは彼女の様な若い世代の時代ですよ」
唐突に話を向けられて戸惑うが、謙遜の中に込められた賛辞が少し誇らしかった。そんな私を大塚さんは目を細めて見つめてくる。
「こうして見ると、彼女のことを思い出します」
「え?」
返答に窮していると大塚さんは申し訳なさそうに頭をかき、おもむろに小さな懐中時計を取り出す。よく見るとそれはロケットペンダントだった。
「私は二十年前のこの日に、一人の女性を連れてこちらにお邪魔しました。彼女とは同じゼミだったのですが、芸術に造詣が深く聡明で、高嶺の花でした。多くの男性が声を掛けては足蹴にされてきたという噂もありましたが、当時想いを寄せていた私はダメ元で誘ってみたのです」
「それでこそ男です」
藤堂さんが頷く。
「彼女は二つ返事で了承してくれました。返事を聞いて驚いたのはこちらです。何せ断られるものだとばかり思っていましたから」
大塚さんがグラスを傾ける。室内の薄暗い照明に照らし出されて琥珀色の液体が輝きを増した。
「その時の彼女の返事がまた面白くてね。にっこりと微笑むとこう言ったんです。お酒に詳しい?ってね。お酒に詳しいんだったらイブは付き合ってあげるわ。詳しいですよと、思わず言ってしまってからが大変でした」
「お酒に詳しいかどうかですか。確かに中々聞かない返事ですね」
「ええ。全く不思議な女性でしてね、誘いを受ける条件がお酒とは後にも聞かない話です。ですが当時の自分は嬉しさにすっかり舞い上がってしまって、色々と努力しました。
お酒の種類を必死に勉強したりデートの計画を立てたりとね。学期末レポートや試験の時でもここまで必死にならなかったものです」
軽く笑いつつそっとロケットペンダントを握り込む瞬間、そこに収められた小さな写真が垣間見えた。
「彼女は私がお酒に詳しくないのを一瞬で見抜いていたと思います。でも怒って帰ることは無かった。慣れない手つきでメニューを差し出そうとした私には目をくれず、ボーイを呼んで頼んだんです。グラッド・アイを頂戴。彼はまだ決まっていない様子だから先に持ってきてもらって構わないわ、とね」
「それがさっきの話に繋がる訳ですね」
「ええ。彼女は非常に博学で、メニューに書いてあったカクテルに纏わる様々なエピソードを教えてくれました。クイーン・エリザベスが豪華客船の名を冠していることもその時知りました。
張り切ってデートに誘っておきながらいつの間にかリードを奪われていた私はすっかり彼女の虜となっていましたね。いや、本当に楽しい時間でした」
「ロマンチックですな」
藤堂さんがにこやかに微笑んだ。
「ええ。幸せな時間でした。ですがここで交わした約束は果たせないままでした」
大塚さんがため息をついた。献杯のことや先程からの様子で彼女は既に亡くなっているのだろうと予想はついていたが、改めて明言されるとやはり心にのしかかってくるものがある。
「また二人でグラッド・アイとクイーン・エリザベスを飲もうと言っていたんです。初デートからちょうど二十年後のこの日にこの場所で。結婚は早かったのですが中々子どもが出来ず、妊娠した時には三十代半ばになっていました。三人でここに来るんだとよく笑っていたものです。ですが予想以上の難産で……。結局どちらも助かりませんでした。もう十年前のことになります」
「それは……。何と申し上げれば良いか」
「いえ、お気になさらないでください。もう折り合いの付いたことですから」
静かに微笑む大塚さんの横顔が切なかった。
「まあ、今日は本来約束していた日ですし、せっかくですから献杯を捧げようと思いこうしてやって来た次第です。先程は無茶な注文に応えて頂いてありがとうございました」
そっと畑島さんに向かって頭を下げる。畑島さんがおもむろに口を開いて、
「ささやかではありますが、お役に立てて何よりです」
と答えた。
ゆっくりと流れる時間は店内を巡り、私達の周りをたゆたう。
思い思いに傾けるグラスとカップの中身が徐々に減っていく中で、さっきロケットの写真を目にしてからというもの、頭をよぎり続ける、ある確信を口にしなければならないと感じていた。
「この様なことを申し上げるのは非常に失礼かと存じますが、お二人の約束は果たされたと思います」
全員が怪訝な顔でこちらを見やる。
「それはどういうことでしょうか?」
「その前に大塚さんにお聞きしたいことがあります。奥様はジャズがお好きでしたか?」
「ええ、まあ。確かに好きでしたが」
「ミスティですよね。それもエロール・ガーナーが弾いている」
「どうしてそれを……」
「大塚さんがこちらにいらっしゃる前、私は一人の女性客を窓際のテーブル席に案内しました。その方は待ち合わせているからと仰って何も注文することなく静かに夜景を眺めていました」
「それって……」
畑島さんが声を漏らす。
「先程ロケットを眺められていた時に、中の写真が目に留まりました。あの時、来店されたお客様は確かに奥様でした」
震える手で大塚さんがロケットを開く。その中からこちらに微笑みかける姿は確かに先程の女性客だった。
「なんと……」
藤堂さんがため息をついた。畑島さんも信じられないという様子で私達を見つめている。
「私達の想い出の曲、と仰っていました。思い入れのある曲なのですね」
「ええ。何かある度に二人で聴いていたものです」
大塚さんが項垂れながら言った。
「一度大喧嘩したことがありました。二日も互いに口をきかない状態でしたが、ふとした拍子にこの曲を聴いていると隣に座りに来るなんてこともありましたよ」
見る見るうちに大塚さんの頬を熱いものが零れ落ちてくる。声を押し殺そうとすればするほど溢れる思いが込み上げてくるのだろう。
畑島さんが静かにカクテルを作り始める。一つは淡く爽やかな緑色に彩られ、もう一つは重厚で甘美な琥珀色に彩られて。
畑島さんの真意に気付いた私は窓際のテーブル席に歩み寄り、セッティングに入る。束の間、女性客が腰かけていた席を見やる。
今にして思えば大塚さんはこの席には着かず、向かい側の席に着いていた。本人も気付かない内にその席に座る彼女の姿が見えていたのかも知れない。
「テーブル席の準備が出来たようです。ただいまご案内致します」
畑島さんが私に向かって頷く。
大塚さんを席に案内し、キャンドルに火を灯す。出来上がったグラッド・アイとクイーン・エリザベスを差し出し、一礼してその場を去る。
席に戻った時には藤堂さんがピアノの方へと移動していた。
饒舌な藤堂さんが奏でる寡黙な旋律が店内を静かに流れて行く。その時、私の目には確かに二人の男女がグラスを傾け談笑している姿が映っていた。




