四
女性客の元に歩み寄ろうとした時、正面の出入り口から男性が一人で入ってくるのが目に入った。とりあえず目礼を済ませ、新たな来店者を迎える。
「いらっしゃいませ。ただいまお席にご案内いたします」
遠目では気付かなかったが、年齢は三十代後半くらいだろうか。防寒にぴったりの厚手のジャケットに黒のニット・タイを締め、チャコール・グレーのスラックスにローファーといった装いは英国紳士然としたものだった。
バーカウンターに案内し、メニューを差し出す。カウンター用に備え付けられている灯りが男性客の顔を照らし出す。顔や手に刻み込まれ始めた皺から年齢が四十代くらいなのではないかと思い始めていた。
初老の紳士はメニューに目を向けることなく、クイーン・エリザベスとグラッド・アイはまだありますかと聞いてきた。
「どちらもご用意出来ますが、どちらを先にお出ししましょうか?」
バーカウンターの向こうから畑島さんが歩み寄りつつ声を掛けてくる。男性客は一瞬言葉に詰まった様子だったが、二つとも一緒に出して欲しいと答えた。
私と畑島さんが一瞬目配せし合ったのを見ていたのだろう。彼は静かにこう付け加えた。
「一つは献杯の為なので」
畑島さんが注文に応えている間、私は女性客の元に足を運ぼうとした。しかし窓際のテーブルにその姿はなく、灯し火がすっかり少なくなったキャンドルと結露で濡れそぼったグラスがあるだけだった。
「マスター、あちらのお客様ですが」
畑島さんが手を止めて、テーブル席の方を見やる。
「あれ、いらっしゃらないね」
「化粧室でしょうか?」
「それだったらすれ違うはずだけど、お会いしていないよね?」
「ええ」
ここに限らずビル全体がそうなのだが、化粧室は店内には無いので利用したい場合は一旦店を出てエレベーターホールの隣まで向かわねばならない。しかし仮に席を立ったとしても来店した初老の紳士との対応で出入り口付近に私がいたのだから必ずすれ違うはずである。
そもそも畑島さんの位置からは夜景が真正面に見えるので、必然と窓際に備え付けられたカウンター席やテーブル席が目に入る。女性客が席を立てば必ず気付くはずなのである。
「念の為にエレベーターホールまで向かいましょうか?」
「いや、別にいいよ。何か注文されていたのであれば話は別だけど」
「敏ちゃん、忘れちゃいけないよ。あのお客さんはしっかりと注文してたじゃないか」
藤堂さんが会話に入ってきた。
「演奏のことかい?」
「そうだよ」
「でも元々演奏代は取ってないからね。それにあの時は甚ちゃんがクリスマスプレゼントとして一曲弾いてやってくれって言ったからねえ」
「それを言われると参った」
藤堂さんがすっかり薄くなった頭頂部を書きながら苦笑いする。
「きっと約束をすっぽかされて帰ったんじゃないかな」
ため息をそっとついて畑島さんはシェーカーを手に持った。氷が撹拌されていく小気味良い音が辺りに響く。
女性客がいたテーブル席を片付けながら彼女のことを考える。二人は女性客のことをイブに振られた気の毒なご婦人として見ているようだが、どうも納得がいかなかった。
私達の知らないところでドタキャンの連絡を受けていたとしても平常心を保っていられるだろうか。そもそも演奏のリクエストなどせずにそのまま席を立っても良いはずなのに。
考えられるのは演奏中に連絡が入った場合だが、それでも店を後にする際に出入り口付近にいた私とすれ違わなかったことが気にかかる。
「何かあったんですか?」
キャンドルとグラスの後始末を終えたところで紳士がこちらに話しかけてきた。丁度、誰にも気付かれないようにそっと肩甲骨当たりの凝りをほぐそうとしていたところだったので対応が一拍遅れる。
「いえ、何かあったわけではないのですが…」
畑島さんがカクテル・グラスを二つ、前に差し出す。
「聖なる夜は誰に対しても微笑んでくれる訳ではないようです」
「そうでしたか。この日に限らず年を経るごとに催し事の意味が薄れていく身としては何とも言えないものです」
寂しそうに言いながら隣の空席にグラスを置く。仄かな灯りに照らし出されて淡いグリーンがグラスに映える。
「それにしてもこちらの景色も良いものですね。私はお酒には詳しくないのですが、様々な色合いのボトルが綺麗に並んでいる姿は充分見応えがあります」
「普段は召し上がらないのですか?」
尋ねると紳士は照れ臭そうに笑った。
「元々アルコールには弱いものですから」
「そうは見えないので驚きました」
「そうですか?それは嬉しいですね」
嬉しそうに頷くと、グラスを口に運んだ。
「ああ、この味だ」
感慨深げにグラスを満たす琥珀色を見つめる姿が何故か切なかった。
グラスから仄かに漂うスイート・ベルモットの高貴な香りがこちらにも伝わってくるので、心持ち後ろに下がる。シフトが明ける直前にこの香りはまずい。
「すみませーん」
最後まで残っていたカップルが手を挙げたので、急いでそちらに向かう。
「おあいそで!」
さっきのカップルとは違い嫉妬や色欲の眼差しを向けられることもなかったので、精算するまでの時間が長く感じずに済んだ。
デリカシーは無いが互いを思う気持ちは強いようで、お釣りを渡す時ですらその手はしっかりと握り合わされていた。
幸せそうに店を後にする二人の姿を見送りながら、自分もそんな人と出会いたいと思わずにはいられなかった。
店内に戻り、カップルが今までいた席の片付けに取り掛かろうとした時、男性客が席を立った。両手にカクテル・グラスを持ち、窓側のテーブルに着く。その席は姿を消した女性客がいた場所だった。
「よろしいんですか?」
畑島さんにそっと尋ねると、別に構わないと返事が返ってきた。何でも思い出のある席らしい。別にその席に他のお客さんがいる訳でも無いので問題はないのだろう。
「どうも開店当初のお客さんらしくてね。長らくここで働いてきてはいたけれど、そう言われるとそうだなって思う感じで。めっきり記憶力が落ちてしまったもんだよ。やっぱり引き際なのかもしれないね」
「そんなこと言うもんじゃないよ、敏ちゃん」
藤堂さんが少し不満げにつぶやく。
「客商売ってのは記憶力が命だからね。一度来店されたお客様の顔を覚えられなくなるようじゃね」
「気持ちは分かるけど、この店を畳まれちゃおいらは何処でこの裏メニューにありつけるんだい?」
「そんなの家でだって飲めるじゃないか。今時紅茶なんて何処でも売ってるんだから、それにブランデーを少し垂らせばいいんだよ」
「え、この紅茶はてっきり百グラムで一万円もするような高級なやつじゃなかったのかい?」
「市販だよ、市販。それもお徳用」
藤堂さんが顔を真っ赤にして堪え始めた。余程面白かったのか、全身がプルプルと震えている。最後のお客様がいなければ普通に大声で笑っていたのだろう。
二人はよくこういったやり取りを交わすのだが、他愛のないそのやり取りが何故か面白く、シフトが明けたらそのまま席に着いてよく話を聞かせてもらっていた。
今日もそうしようかと思っていると、笑いの波を何とか抑え込んだ藤堂さんが、ふと真面目な表情に戻ってぼそりと呟いた。
「まだ辞めないでくれよな」
畑島さんは相変わらず表情が読めなかったし、藤堂さんも何事もなかったかのように紅茶を楽しみ始めた。
「テーブルの片付けを忘れてはいけないよ」
「あ、すみません」
畑島さんに言われて慌ててそちらに向かう。グラスを片付けながら微かな罪悪感が頭をよぎる。藤堂さんの最後のつぶやきは赤の他人が決して踏み込んではいけない本音だったのだ。それを聞いてしまったことが申し訳なくて仕方なかった。
いつの間にかスピーカーが再起動しており、ハーモニカとそれに寄り添うピアノの音色が店内に流れていた。以前、トゥーツ・シールマンスに憧れてハーモニカに挑戦してみたことがあったが、練習や努力ではどうにもならない向き不向きというものがあることを痛感させられたほろ苦い思い出がある。
「酒とバラの日々か」
男性客が話しかけてきたのでそちらを振り向く。しかし彼はこちらに背を預ける形で座っていた。
「一緒にこの曲を聴いたのはいつのことだったかな」
かけようとした言葉をそっと飲み込む。この紳士は目の前の相手に話しかけているのだ。クリスマスイブにわざわざやって来て献杯する程の大切な存在に。
静かにその場を立ち去りいつもの位置に戻る。それぞれが胸中に去来する思いを抱えてこの一時を過ごしている。ラリー・シュナイダーが奏でるテナー・サックスのソロパートが全員を力強く、それでいて優しく包み込んだ。




