三
見るとはなしに窓の外を眺めていると、飛行機が厚い雲に差し掛かった。外部灯火が雲間から零れ出て灰色の雲をぼんやりと照らし出す。
地上を彩る鮮やかな色彩と対照的なその光景を見ていると何だか心が安らいでくるのが不思議だ。
「こんばんは」
気を抜いたそばからこれだ。
ため息を押し殺して笑顔を作る。振り返った先に立っていたのはカップルではなく、少し小柄な女性客だった。
「いらっしゃいませ。ご案内が遅れてしまい申し訳ありません。只今お席にご案内致します」
「ありがとう。窓際のテーブルはまだ空いているかしら?」
「ええ、こちらにどうぞ」
女性は慣れた様子でテーブル席に歩み寄っていく。見覚えは無かったが一見ではないことは確かだ。
「待ち合わせているから注文は後でお願い」
「かしこまりました。お水をお持ちします」
「ありがとう」
一礼してからキャンドルに火を灯す。揺らぐ炎が照らし出す女性の横顔は儚げに見えた。
「注文は後でとのことです。お連れの方がお見えになるそうで」
「そう。ありがとう」
畑島さんは別に気にする風でもなく、軽く頷くと作業に戻った。
藤堂さんはその女性客に興味津々といった様子だが振り返って見つめるようなことはしなかった。
「失礼します。お水をお持ちしました」
「ありがとう」
コースターを差し出してグラスを置き、ウォーターポットから水を注ぎ一礼する。
「ところであなたはピアノを演奏されるの?」
「え?」
「指が綺麗だから」
女性客はにっこりと微笑んだ。
「私も昔は弾いていたのよ。もう弾けなくなっちゃったんだけどね」
自身の指を眺めながらどこか楽しげに話すその様子よりも彼女の細長く白い指先に目を奪われた。
爪は綺麗にやすりがけしたのか、磨かれたかのように整っていて、マニキュアやネイルアートはしていない。肩先まで伸ばされた豊かでつやのある黒髪と相まってその女性の性格をよく表している。
「得意な曲は?」
「得意という程では無いのですが、フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーンが好きでよく弾いています」
「そう。私も好きよ。でも聴くばかりで弾いたことはないの。変わってるでしょ?」
「いえ、そんなことはありませんよ。私は聴く方が中心ですから。因みにお客様はどの曲を演奏されるのですか?」
「ミスティ。エロール・ガーナーのね。この曲は私達の想い出の曲なのよ」
私達というのは、待ち合わせている相手のことだろうか。話を聞いていくにつれ女性客に対して興味が湧いていくが、女性客は何かに気付いたかのような表情を浮かべて、ばつが悪そうに謝ってきた。
「話し込んでしまってごめんなさい。お仕事の邪魔をしてしまったわ」
「いえいえ、お気になさらないでください。お話を伺うことが出来て嬉しかったです」
何かございましたらお声がけくださいと伝えてその場を後にした。ウォーターポットを所定の位置に戻していると、比較的下品ではない方のカップルの女性が声をかけてきた。
「お会計をお願いしまーす」
朗らかな口調ではあったが、その視線には敵意とまではいかないものの、嫉妬めいたものが見え隠れしている。連れの男性が会話の中で何度かこちらを見やっていることに気付いていたのだろう。
窓に目を移すと案の定、名残惜しそうに、それでいてこっそりとこちらに視線を投げかけている男性と目が合った。
本人なりによく考えたようだが、窓に反射する光景と夜景では視線の位置が異なるし、何よりあざとい盗み見である。堂々と見てくるのであればまだしも、彼女がいるのにじろじろと他の異性に目移りする様な軟派な男に興味はない。
カップルが帰ると店内は静けさを増した。元々飲食店の規模から見ると少し小さ目なこの店は、五人がくつろげる程のバーカウンターと、窓際に備え付けられたカウンター席と申し訳程度の大きさのテーブル席が二つしかない。そこにピアノが鎮座している為、それ以上の客席を確保することは叶わない。
だが、それはオーナーである畑島さんが望んだことでもある。今までに満席となったことはないが、一番多かった時でも畑島さん一人で充分に対応出来る程なので本来ならば誰かを雇う必要は無い。しかし、畑島さんは元々杖が必要なほど足が悪く、また足腰に負担がかかる年齢に差し掛かってきたこともあって人手が増えることを望んでいた。
「静かなもんだね」
藤堂さんが満足げにつぶやく。備え付けられているスピーカーからはジョン・コルトレーンの哀愁漂うソプラノ・サックスが流れていた。
気が付けば周りに配慮出来ていなかったバカップルもいつの間にか静かになっている。そこにはただ穏やかな時間が流れていた。
することもないのでバック・バーに並ぶボトルを眺めていると、畑島さんが軽く手招きをしてきたので歩み寄る。
「あちらのお客様だけど、お連れの方はいつ頃お見えになるのかな」
顔は動かさず目線だけで窓際のテーブルを見やるので、自分は背後に顔を向けることなく畑島さんが気にしている相手を思い浮かべる。ゆったりとした時間と雰囲気を楽しむ店だからこそ、相手の気が散らない様に細心の注意を払う必要があるのだ。
「そういえばまだいらっしゃいませんね。残業でしょうか?」
「電車が遅れているのかも知れないね」
「もしくは渋滞に巻き込まれているとか」
女性客が訪れてきてから三十分ほどになるが、相手は未だに姿を見せていない。
「自分が知る限りでは連絡は来ていない様子でしたけど」
「ああ、そうみたいだね。でも待たされているという感じでもないんだ」
「言われてみれば確かにそうですね」
連絡も無しに三十分も待たされたら何かあったのかと心配になると思うのだが、女性客にその様な素振りは無かった。
「もしかして、待ち合わせの時間よりも早めに着きたかったんじゃないでしょうか?」
「早めに?それにしたって随分と待っている様子だけど…」
畑島さんは首をかしげているが、何となく私の予想が合っている様な気がした。心配になることもなく、待たされている様子もないということは自分の意思で早めに待ち合わせ場所に来たということだ。そうしたくなる理由が分かるからこそ、そう思う。
「敏ちゃん、おかわり頂戴」
藤堂さんがティーカップをそっと前に差し出す。グラスの中が少なくなっていたのでウォーターポットから水を注ぐ。
「ありがとう」
こちらに軽く頭を下げると藤堂さんは畑島さんに向き直った。
「敏ちゃんがお客さんに関心を持つなんて珍しいこともあるもんだね。顔見知りかい?」
「いや、そういう訳では無いんだけどね」
そう言いながらも畑島さんは何かが気にかかる様子だった。
「でも何処か気になるんだよ」
「敏ちゃん、それは惚の字ってやつだよ」
藤堂さんがニヤリと笑う。畑島さんは冗談はよしてくれと呟くとそそくさとグラス磨きに取り掛かり始めた。畑島さんには奥さんがいたそうだが離婚して以来ずっと独り身を貫いている。
独り身と言えば自分もそうだ。本来ならクリスマスを満喫していたはずなのにこうして愛想笑いをカップルに振りまいている。考えれば考えるほど気が滅入ってくる。
「余り浮かない顔ばかりしていてもだめだよ。せっかくの別嬪さんが台無しになるんだから」
藤堂さんは笑って言うが、実際は気にかけてくれているのが伝わって来て胸がいっぱいになる。
「また、そんなこと言って。困りますよ」
それを悟られたくなくて精一杯の愛嬌でごまかす。
「ありゃ、困らせてしまったか。それは困った」
笑いながら頭をかく藤堂さんに感謝しつつ、そっと入り口付近に戻る。そこでなら込み上げてくるものにも何とか対処出来そうだ。
この場所が定位置という訳では無いが、全体が広く見渡せることから自然とここで待機することが多くなった。それに窓の外に広がる夜景に心を奪われていても周りには気付かれない。
何より今日みたいに惨めな気持ちを抱えている時は一人になる瞬間がどうしても欲しい。ここはまさにうってつけの位置なのだ。
気持ちを静めて平常心を取り戻す。準備が整った時にちょうど女性客が手を挙げた。
「何かございましたか?」
「こちらではリクエストを受け入れているの?」
言いながら奥のピアノを指し示す。
「いえ、普段からリクエストは受け付けていないんです」
「それは残念ね。もう使ってないの?」
「いえ、ピアニストの方がいらっしゃる時は演奏して頂くのですが、今日は……」
「そうなの。気にしないでね。ピアノを見ていたら何だか懐かしくなっちゃっただけだから」
懐かしげに語るその横顔が何処か寂しげに見えて胸が締め付けられる。スピーカーはディア・オールド・ストックホルムを奏でているが、馴染み深い音源のはずなのに今日は無機質に聞こえて仕方なかった。
「それにしてもここは相変わらず雰囲気が素敵ね」
「ありがとうございます」
「昔と比べて流石に所々変わっちゃったけど、それでもここから見る夜景は綺麗だわ」
「以前はどのような景色だったのでしょうか?」
「そうね……。もう少し建物の背が低かったわね。後、交通量もこんなに多くなかった。今じゃ想像もつかないでしょうけど、ヘッドライトだけが緩やかに近付いては遠ざかっていくの。
車間距離が空いているから自動車のシルエットが照らし出されることは無いのだけれど、だからこそ二つの眼だけが走って行くような、ちょっと不思議なその光景をここから眺めながらお気に入りのカクテルを頂くのが楽しみだったの」
「こちらにはよく来て頂いていたんですね」
「ええ。まあ、最後に来たのはかなり前のことなんだけどね。ところで、あなたは学生さんでしょう?」
急な問い掛けに一瞬言葉に詰まる。いくら既に成人していて、親戚の店を手伝っているだけとはいえ、学生がバーでアルバイトというのは余り聞こえの良い話ではない。
「オーナーの姪でして。こちらには手伝いに来ているんです」
精一杯そう答える。思わず苦笑いを浮かべているところからも余程表情が引き攣っていたのかもしれない。
「驚かせてしまってごめんなさいね。私がこのお店に初めて来たのが学生の頃だったから、何だか親近感が湧いちゃって」
「デートでいらしたんですか?」
「いえ、一人で来ることが多かったわ。デートも何度かあったけどね」
「お酒が好きなんですね」
「ワインをよく飲んでいたんだけど、ここに来てからカクテルも好きになってね。カーディナルやローズも飲んだけど、特に好きだったのはスプリッツァーなの」
「ワインベースがお好きなんですね」
「リキュールやウィスキーも飲めないことは無いんだけど、やっぱりワインベースが口に合っていたみたいなの。ところで、あなたは何が好きなの?」
「私ですか?」
「ええ」
「そうですね……。好きというより思い出深いものでしたらアイリッシュ・コーヒーが」
「あら、その年でアイリッシュ・コーヒーが思い出のカクテルだなんて、中々なおませさんなのね」
女性客はにこやかに微笑むと、外に広がる夜景に目を向けた。
「意外に思うかもしれないけど、私の思い出のカクテルはワインベースじゃないの」
「そうなんですか?」
「ええ。今となっては名前を口にするのも恥ずかしい年になっちゃったけど。まあ、私自身もませていたのよ」
口にしづらいカクテルということはビトウィーン・ザ・シーツかセックス・オン・ザ・ビーチだろうか。それともイノセント・ラブやヴェルジーネのような一杯目から頼むには照れくさく感じるカクテルだろうか。
「宜しければそのカクテルを教えてくださいませんか?お持ちいたしますよ」
「ああ、ありがとう。でも、もう少しだけ待ちたいの」
「かしこまりました。では、お連れ様がお見えになるまで、宜しければ私が一曲弾きましょうか?オーナーに了解を取ってきますから」
女性客は驚いた顔をして、慌てて呼び止めてくる。しかしその時には私の足は自然とバーカウンターの方へと向いていた。
自分自身でも不思議な感覚だった。ただ、何となく目の前の女性を独りにしておくのに躊躇いがあって。ピアノの一曲くらい、パートナーを待つ彼女の為に弾いたところで罰は当たらないだろう。
畑島さんがグラスを拭く手を止め、訝しげな表情でこちらを見やるので、女性客とのやり取りを簡単に伝える。
「へえ、てっきり敏ちゃんの顔見知りだとばかり思っていたんだけどねえ」
藤堂さんがカップを置く。
「それにしても最初のオーダーが演奏のリクエストってのも珍しいもんだね。そこが引っかかるけど女性の頼みとあっちゃ無下にも出来ないってとこだろ。せっかくだから、おいらからのクリスマスプレゼントってことでつけといてくれないかい、敏ちゃん?」
藤堂さんの言葉に畑島さんは少し考えるそぶりを見せてから、おもむろに口を開いた。
「甚ちゃんはいつまでたってもスケベじじいだね」
「おいおい、かっこよく決めさせてよ」
項垂れる藤堂さんを横目に、畑島さんがぼそりと呟く様に言った。
「お客様も少ないし、一曲弾いてくれるかな」
「ありがとうございます。では、行ってきます」
「良かったら後で一緒にどうですかって伝えておいてね」
「別に伝えなくて良いからね」
「はい」
名残惜しそうに藤堂さんは女性客を見やっていた。彼女の元に向かう先に広がる窓にその様子が反射していたのでそちらを少しだけ見やる。未練たらたらの表情がまるでタヌキのようで可愛げがあった。
「お待たせしました。早速ですがリクエストをお聞かせください」
「何だか無理を言っちゃってごめんなさい。オーナーさんに怒られなかった?」
心配そうに尋ねてくる女性客に心持ち顔を近づけて、
「実は、あちらのお客様からのクリスマスプレゼントということで特別に」
言い置いてさりげなく姿勢をずらす。女性客から藤堂さんが見える位置だ。いつの間にかバーカウンターに向き直っているが、再び振り向きたくてうずうずしていることはその背中姿から充分に窺い知れた。
「私には勿体無いわ。後でお礼を言えれば良いんだけれど。あなたも本当にありがとう。ではお言葉に甘えて、ミスティをお願い出来るかしら?」
「かしこまりました」
軽く一礼して店内の奥に設けられたステージに向かう。途中バカップルが騒ぎ出さないかと気になったが、二人だけの世界を堪能している様子だったので安心してピアノの隣に立つ。
ミスティを弾くならやはり作曲者のエロール・ガーナーに敬意を表してなるべく忠実に再現すべきだ。
最初の八小節にしてジャズ・バラードのスタンダードナンバーとして記憶される有名なテーマをオクターブで奏でる。
三分にも満たない原曲を思い返しながらサビの前で現れ始める優雅なアルペジオに意識を向ける。指が途中でもつれそうになるが、後半部のストップ・タイムがしっかりと意味を持つように手先の神経を叱咤する。途中、レイ・ブライアントが弾くミスティが一瞬頭をよぎったが、それに流されることのないように、じっくりと、丁寧に弾いていく。
演奏を終えた時、背中を汗が伝っていく感触があった。それはオフとはいえプロのピアニストの目の前で演奏したこともさることながら、女性客の為に何としても完璧に弾かねばならないという不思議な緊張感があったからだ。
起立し軽く一礼すると、藤堂さんが静かに、それでいて暖かみのある拍手を送ってきた。窓側のテーブル席に目を向けるとカップルがしんみりとした表情で余韻に浸っている。
その奥に座る女性客は笑顔だったが、その時、確かに口元はありがとうと呟いていた。その様子を見て何故かこれで良かったのだと思えてきて、いつの間にか頬を伝う熱いものを覆い隠す様にそっと目尻の辺りを拭っている自分がいた。
それはまるで果たさなければならない約束をしっかりと守り通した時のような、達成感とは少し違う感覚だった。




