二
「いらっしゃいませ」
一組のカップルを窓際のテーブル席に案内する。席に着く前から男性客がモスコー・ミュールとカンパリ・ソーダを注文した。
「かしこまりました」
差し出そうとしていたメニューをそのままにしておき、テーブルの真ん中にあるキャンドルに火を灯す。その様子を見ていた女性客が感嘆の声を上げた。
チーフバーテンダーに注文内容を伝えると定位置に戻る。
カクテルの準備に取り掛かる様子を横目で眺めつつ、今日の予定をドタキャンした男のことを呪う。前日の晩にいきなり連絡が来てからというもの、気分は憂鬱になるばかりだ。
「お姉さん、オーダーを」
窓際のカウンター席から声がかかる。その席に着いているのもカップルだ。心の中でそっと毒づきながら笑顔で応対する。
カップルがいつになく目立つのは今日がクリスマスイブだからだろう。ましてこのバーは手頃な広さで夜景が売りと来ているが、雑居ビルの最上階ということも相まって訪れる人の大半は常連客である。
それ故に隠れ家的な雰囲気があり、今日の様な特別な日にここをデートスポットに押さえることは、大手を振ってお酒を飲むことが出来るが故に少し背伸びしたい年頃の学生にとって一種のステータスとなっていた。
窓の向こうに広がる淡い光の帯が静かにたゆたう様は束の間現実を忘れさせて非日常な空間へと見るものを誘う。浮かれ気分の二人組にはたまらない光景だからこそ、私は懸命に頭の中で、光の帯を生み出している正体である自動車の群れを想像していた。
テーブル席のカップル達は思い思いにカクテルと夜景を楽しみながらのろけ続けている。この後はどうする?どうしよっか?良いことを思い付いたんだけど。なあに?聞かなくとも容易に想像が付く会話に水を差したい衝動に駆られてしまう。
「こんばんは」
振り返ると藤堂さんが入口に立っていた。藤堂さんはチーフバーテンダーに向かって笑顔で、それでいて雰囲気を乱さない程度に挨拶をした。チーフバーテンダーは相変わらず表情を変えることなくカウンター奥の席を示す。そこはどれだけ店内が混み始めても唯一空席のままである特別な席だった。
「今日みたいな日くらいは休まないとだめだよ」
にこやかに話しかけてくる藤堂さんの優しさが今日に限って憎らしい。本当は休みだったのに自分からシフトに入れて欲しいと電話しなければならなかった屈辱が思い出されて気が滅入る。
私の心情を読み取ってくれたのだろうか、藤堂さんはバック・バーに並ぶドリンク類に興味を持った素振りを見せた。その空間に湯気が立ち込めてゆく。
藤堂さんはいつも紅茶にブランデーを数滴垂らしたものを飲んでいた。勿論、これはメニューにない。
「今日は演奏されるのですか?」
そう尋ねると藤堂さんは、
「いや、クリスマスソングってのはどうも苦手でね」
と茶目っ気たっぷりに舌を出す。
藤堂さんはジャズ・ピアニストで、若い頃はかなりの評判だったらしい。初めてその話を聞かされた時は随分と調子の良いおじいさんだなとしか思っていなかったが、一度生演奏する機会に立ち会った時にそれが冗談半分のよもやま話では無かったことを思い知らされていた。
「それにしても今日に限って少ない方じゃないかい?折角の日なんだからお洒落な所で過ごそうとは思わんのかね」
確かに藤堂さんの言う通りだ。さっきのカップル二組がテーブル席とカウンター席に、バーカウンターには藤堂さんとくたびれた様子のサラリーマンがいるだけで、空席が目立つ。とは言えこれ以上カップルの面倒を見る気にもなれないので、お店には悪いがこのまま誰も来ることなくシフト終わりである十時を迎えて欲しかった。
「学生がバーでイブを過ごすのは洒落じゃなくて酔狂だよ、甚ちゃん」
チーフバーテンダーの畑島さんは普段、姪である自分にすら滅多に口を開かない。話し相手が欲しいお客さんからすれば不愛想に見えるかもしれないが、それがこの店に漂う重厚な雰囲気を醸し出している理由の一つであることは間違いなかった。
そんな畑島さんも藤堂さんに対しては饒舌になる。と言っても店の雰囲気を壊さない程度の声量でのやり取りだが、目の前のバーカウンターに座るお客さんとですら注文のやり取り以外の会話はほとんど交わさないことからも、畑島さんにとって藤堂さんは特別な存在なのだろう。
一度、藤堂さんに畑島さんとどういう関係かを聞いてみたことがある。その時はただのお酒好きな常連客と飲み屋の主人という関係に過ぎないと笑っていたが、畑島さんが席を外した間にふと真顔になって、
「あいつは命の恩人でね」
そう言って、シャツの袖を捲って左腕を見せてくれた。そこには過去に重度の火傷を負ったことを示すケロイド状の皮膚が広がっていた。
それ以上藤堂さんは何も言わなかったし、腕を見せてくれたのも一瞬のことだった。
一足早く店じまいを始めているというのに、いつまでもその席に座って美味しそうに紅茶をすする藤堂さんと、片付けを行いつつもどこか楽しげな畑島さんのその姿が何だか羨ましくなって他にも色々と話を聞いてみたかったが、シフトが明けているのに余り長居するのもお店に迷惑がかかるのでその日は帰路に着いた。
機会があれば、二人の間で交わされる一連のやり取りに垣間見える友情と信頼を紡ぎ出した物語をいつか聞いてみたいと思う。
「そんなこと言ったってその酔狂が無いから草食系なんて言われるんだよ、敏ちゃん」
藤堂さんの言う通りだ。草食系には我慢ならない。何を一人でぐずぐずしているのか全く分からない。というよりこっちから声をかけて欲しいなんて考えてるんじゃないでしょうね。
「確かに多くなったね、草食系男子が。想いを寄せているならしっかりと言葉に表すもんだよ」
それが男の務めじゃないかね、と呟きながら畑島さんはグラスを拭く。そうですよ、もっと言ってやってください。
「お勘定をお願いします」
「あ、かしこまりました」
カウンターのサラリーマンがそっと声をかけてきた。ずっとアイリッシュ・コーヒーを注文していた人だ。会計処理を行いながら、あの香り高いウィスキーをベースとしたカクテルをゆっくりと味わいたい衝動に駆られる。シフトが明けたら帰らずにそのままカウンターに座って同じものを頼もうかな。どうせ帰っても一人だし。
家に帰っても自分一人しかいないことを思い出すと気が滅入る。一瞬、自分に好意を寄せているサークルの後輩のことが頭をよぎったが、こっちから声をかけるのは何だか癪に障る。
そもそも興味も好意も抱いていない男の誘いを受けたのは、いつまでたっても煮え切らない態度の後輩に腹を括らせるためだ。それなのにクリスマスのご予定はあるんですか?と聞いてくることもないまま冬休みに差し掛かってしまった。
サラリーマンを見送り、カウンターを片付ける。空いたグラスから仄かに漂うホイップ・クリームの香りが鼻腔をくすぐる。
角砂糖を入れた専用のグラスにアイリッシュ・ウィスキーとホットコーヒーを注いで軽くステアし、ホイップ・クリームをフロートするというこのロングドリンクは、二十歳の誕生日記念に初めて飲んだカクテルだけに思い入れが強い。
見るとはなしに店内の奥を見やる。そこはちょっとしたステージとなっていて、ジャズの生演奏もよく行われている。置かれているピアノは年季が入っているがよく手入れされていることが分かる。
自分も何度かピアノを弾かせてもらったことがあるが、今までに多くの人の手によって演奏されてきたことが伺い知れた。
「すみませーん」
カップルの片割れが大声で呼びかけてくる。目が合っていたのだから手を挙げれば済む話なのに、どうして雰囲気を壊すような真似をしたがるのだろう。
「お代わりをお願いします」
言うや否やグラスをぐいと差し出してくる。こんなガサツな男のどこが良いのか分からないが、彼女は幸せそうな顔で窓の外に目を向けている。バカップルなのか寛容な心の持ち主なのかは知らないがとにかくさっさと帰って欲しい。
注文内容を畑島さんに伝える際に藤堂さんが苦笑いしているのが目に入ったので、申し訳ありませんでしたとそっと一言声をかける。
「いいよ別に。自分だって敏ちゃんとぺちゃくちゃ喋ってるんだから」
言いながら藤堂さんが辺りをぐるりと見回したので、つい自分も合わせて視線を店内に投げかける。楽しげに言葉を交わすカップルに、夜景に彩りを添えるカクテル。いつもと変わらない光景がそこには広がっていた。
「何かありましたか?」
「いや、何だか急に懐かしくなっちゃってね。普段から見慣れているはずなのに、何だか随分と遠い昔の出来事の様に感じられてさ。クリスマスってのは不思議なもんだよ」
「何だい、急にジジむさいことを言い出して。ブランデーが効き過ぎたかい?」
「いやいや、単なる年寄りの感傷ってやつさ」
畑島さんがわざとらしく溜息をついた。
「まあ、歳は取りたくないもんだよ」
「甚ちゃん、いくら知った仲とはいえ孫ほどの年齢の女性にべらべらと話しかけてちゃ、まるで寂しい老人が年甲斐もなく口説き落そうと必死になっているようにしか見えないよ」
ぺちっと自分の頭を軽くはたきながら藤堂さんはしまったという顔をする。
「それは困った。この店の看板娘にちょっかいを出したとあっちゃ、出入り禁止になっちゃうな」
「年寄りの武勇伝にもならないよ」
とりとめのないやり取りを続けながらも畑島さんの手は止まっていない。いつの間にか二つのカクテルを作り終えると、涼しい顔でこちらに差し出してきた。
「さて、自分もお代わりをもらおうかな。今日のお酒はいつになく進むんだな、これが」
にこやかにカップを掲げておどける藤堂さんに会釈して、カップルの元にカクテルを運ぶ。
「わあ、ありがとうございます」
思いがけない感謝の意に少し戸惑いつつ、こちらも感謝の意を示す。
何気なく目に入った男性客の腕時計は、自分がシフトに入ってまだ一時間半しか経っていないことを示していた。




