一
ふと眼下に広がる景色を見下ろすと、街路樹がすっかり色落ちした葉を落とし始めていた。
この光景が見られる頃になるといつも気が滅入ってしまう。
来週から始まる冬休みは学生にこそありがたいものかもしれないが、教員にとってはただ眼前に広がる仕事の量を直視せざるを得ない残酷な期間に過ぎない。
楽しそうに街路樹の隣をすり抜けていくカップルは早くも、短くもかけがえのないこの時間を過ごすことで頭が一杯のようだ。かつて同じように青春を過ごした時代が、遠い昔のことに感じられる自分が少し情けない。
大学教授になりたいと思ってひたすら勉強と研究に時間を捧げてきた。
時には、ただ長くその世界にいるだけで分不相応な力を手にしている無能な相手にこびへつらうこともあった。
そうして最近、やっとの思いで望みのものを手に入れたが、現実は学生の頃に抱いていた憧れを踏みにじるには充分過ぎるものだった。
自分の周りは表立って口にすることは無いものの、准教授の頃から交際していた男性と別れたのは、自分が教授の地位に就いていよいよ釣合いが取れなくなったからだと見ているようだった。
悔しいことにその見立ては概ね当たっている。釣合いが取れなくなったのは相手との地位の違いではなく自分の心そのものだったが。
教授としての経験をある程度こなしていけば余裕も生まれてくると思うし、これでも美貌には自信がある。街を歩けば未だに声を掛けられるくらいなので、自分がその気になれば新しい恋を掴み取る可能性は充分高い。
しかし、それでも四十二という年齢は大きなハンディキャップであることを自覚させられずにはいられなかった。
「そんな顔をしないで。酒場にネガティブな気を持ち込むのはご法度なのよ」
カウンターの奥でグラスを拭きながら、このバーのオーナーが声を掛けてくる。まだ開店していない時間帯なのにいつもこうやって席に案内してくれるのは、彼女によると「古い友人だから」らしい。
豊かなセミロングの黒髪を後ろで束ね、玉簪で留めている。飾り玉に用いられている鼈甲は店の重厚な雰囲気と相まって、チーフバーテンダーとしての彼女の品格を漂わせているが、その姿にはさぞかし和服も似合うことだろう。
「オカルトめいたものは嫌いだったんじゃなかったんですか?」
「心の持ちようにオカルトなんて関係ないわよ」
じろりとこちらを見やるその目付きは鋭かったが、どこか優しさも感じられた。思えば、昔から彼女は非常に饒舌でありながら繊細な一面も併せ持った不思議な目をしていた。
「考えてみなさい。お酒を楽しみに来たのに先客が塞ぎ込んでいたらどんな気分になるかしら?」
「確かに良い気分はしませんね」
「そうでしょう。まあ、今は他にお客さんがいないから良いけどね。はい、これ」
差し出されたのはこの店で一番のお気に入りであるデザート・ヒーラーだった。少し説教臭いところがあるものの、一言言い終えた後は必ず気遣いを見せてくれる。その不器用な優しさが今日に限って特に胸を締め付けてくるのは何故だろう。
「長くなっちゃいますけど、話を聞いてもらっても良いですか?」
自分でも気付かないうちに言葉が口を突いて出ていた。一度漏れ出た感情の澱は留まるところを知らずに次から次へと我先に飛び出していく。そんな身勝手な独白に彼女が耳を貸しているとも思えなかったが、ただただ胸の中にずっと残っていたしこりを取り払ってしまいたかった。
長年連れ添った相手と別れたくだりでは思わず涙を溢しそうになって、慌ててタンブラーを傾ける。チェリー・ブランデーとオレンジジュースが織りなす甘酸っぱい後味が鼻腔を駆け抜けていく。
思わずそっと頬を伝う滴をハンカチで拭っても彼女はまるで気にする様子でもなく、ミキシング・グラスに入れた氷の面取りをしていた。
結局、彼女には全く話を聞いて貰えなかったみたいだが、それでも別に構わなかった。了解も取らずに勝手に始めた独り言である。何も言わずに聞き流してくれただけで充分だった。
すっかり空になってしまったタンブラーの縁をそっと一撫でして余韻を楽しむ。言葉に出すと何だかすっきりした。決して出来たばかりの心の傷が癒えた訳ではないけれど、当分の間はその傷口から目を逸らしていられそうだ。
「自分勝手に話し込んじゃってごめんなさい。お詫びと言っちゃなんですけど、一杯ごちそうさせてくれませんか?」
照れ隠しに言ったこちらの言葉を聞き流して、チーフバーテンダーはストレーナーをかぶせたミキシング・グラスから中身をそっとカクテル・グラスに注ぐとこちらに差し出してきた。
「何ですか、これ」
「随分と昔のことだけど、何でオカルト嫌いのくせしてオカルト研究会の会長になったのかって聞いてきたことがあったわよね」
唐突な話の流れに一瞬戸惑うが、長年抱えていた問いを彼女自ら話題にすることが珍しくて身を乗り出す。
「そう言えばそうでしたね。まあ、聞く度にはぐらかされちゃいましたけど」
「答えなかったのは、その理由がこの店にあったからなの」
「え?どういうことですか?」
「一浪して入学した分、同級生より早く二十歳になる訳だけれど、だからと言って学生が飲食店とはいえバーでアルバイトというのは余り聞こえの良い話ではないわ。いくらその店が親戚の店だったとしてもね」
言われてみれば、確かに彼女からアルバイトの話を聞くことは一度もなかった。
「お客さんから話を聞くことはあっても、こっちからお客さんに話すことは滅多にしないの。特に長話はね。その一杯は今から話す昔話にあなたを付き合わせることへのお詫びよ。遠慮せずにどうぞ」
そう言うと彼女は記憶を辿るように瞼を閉じた。




