タクシーの車内で
その日は四連休の二日目だった。
楽しそうに笑いながら歩いて行く家族連れや幸せそうに微笑み合うカップルで、最寄り駅付近は混雑していた。
その光景を見た和葉はしばらくの間、そこで佇んで考え込んでいたが、やがて決心すると踵を返してタクシーがよく停まっている場所へと向かう。
ターミナル駅と違い、その駅はタクシー乗り場がない。代わりに少し歩いたところにタクシーが二台ほど、停まっている場所がある。
そこはちょうどファストフード店の前ということもあり、需要はかなりあるようだ。今しがた客を乗せて走り出したタクシーを見送りながら、和葉は学生の頃を思い出した。
下宿生のくせにタクシーを利用したことが複数回ある。今にして思えばませている学生だと自分でも痛感するが、当時はそのワンメーターの距離が特別なものに感じられたものである。
寝坊して遅刻しそうだった時、見栄を張りたい時、夏バテでうんざりとしていた時、失恋した時。日常の中に時折顔を見せる非日常に出会う度に和葉はタクシーを使った。
ほんのわずかな瞬間。
それらを一つ一つ思い返す余裕は今の和葉にはない。幸せオーラ全開の人混みに逆らいながら、和葉は一人タクシーを追い求めた。
幸いなことに、その場所にはまだタクシーがいた。利用客も他にはいないようで、和葉は慌てて手を挙げて自分がいることを運転手に知らせた。
後部座席のドアが開く。乗り込もうとしている客がいないのに、和葉は大急ぎで駆け込んだ。
「お足元にお気を付けください」
そう言うと運転手はドアを閉めた。
「行き先はどちらまで?」
目的地を言いかけて、和葉は結構な距離があることに気付く。電車で行けば片道二百円以内の距離だが、タクシーを使うとゼロが一つ付く。
目的地より二つ前にある駅の名前を告げると、和葉はほんのりと赤みが差した頬を隠すように窓の外を見た。
タクシーは滑らかに動き出すと、遅過ぎることもなく早過ぎることもない快適な速度で道路を進んでいく。
窓から見える景色の移り変わりは、普段電車の窓から見ているものとはまた違い、和葉の瞳に新鮮なものとして映った。
「お仕事ですか?」
タクシーを操りながら運転手が尋ねてくる。こういった時間の会話にあまり慣れていない和葉は一言「ええ」とだけ答えた。
「そうですか。お疲れ様です」
運転手は軽く返すと、そのまま続けることもなくタクシーを走らせる。
会話のきっかけをぶった切ってしまったことに若干の気まずさを覚えながらも、和葉は運転手が「大変ですね」といったありきたりな言い回しではなく「お疲れ様です」と言ったことに興味を覚えた。
赤信号だ。
ブレーキをかけることによって生じる振動を一切感じさせることなく、タクシーは停まる。このタイミングだと言わんばかりに和葉は話しかけた。
「今日はやっぱりお客さんが多いんですか?」
「ええ、そうなんです。ありがたいですね」
そう答える運転手の表情は朗らかだった。人柄の良さがにじみ出ているその表情に少し気圧されながらも、和葉はめげずに話を続ける。
「やっぱりそうなんですね。すぐに乗れた私はラッキーです」
これが和葉の精一杯のコミュニケーション能力だった。
自分のコミュ力のなさに辟易としながらも、和葉は思いつく限りの言い訳を自分の頭の中に浮かべていく。
「この時間は車の通りも少ないので、更にラッキーですよ」
バックミラー越しに話す運転手の瞳は涼やかだった。
信号が青に変わる。
乗車した時と同様、タクシーは滑らかに発進する。
運転手が言うように、確かに他の車はほとんどいなかった。思いの外早く目的地へ着きそうだと喜びそうになったが、自分がお金をケチって目的地のかなり手前を告げたことを思い出してテンションが下がる。
思えば昨日の出来事がいけなかった。
付き合っている彼氏がデートに遅れたことに腹を立て、その後の振る舞いも気に食わず途中で帰ってしまった。その後、彼氏から誤りの連絡は来ていたが、怒りが覚めていないこともあって和葉は無視し続けている。
今日だって本当は休みである。ただ、ずっと家にいるのも気分が悪いので気晴らしに出かけたのが真相だった。
そんな状態の和葉に、幸せな気分で駅に向かう人達の様子は眩しすぎた。
ふと思う。自分は何て馬鹿なことをやっているのかと。いつまでも怒り続けている自分が情けなくなり、和葉は勢いで目的地の変更を告げた。
イレギュラーなことのはずなのに、運転手は動じることもなく「分かりました」とだけ答えるとタクシーを走らせた。
しばらくの間、車内は無言だった。赤信号で停まった際に何かを話そうと思う和葉だったが、運転手がボードに何かを書き込み始めたので話す機会を失ってしまった。
こういう時に通知が来てくれればスマホを見てそのまま時間をつぶすことができるが、何の通知も来ない。彼氏からの連絡も今朝に一件来ただけで、それ以降は音沙汰がなかった。
和葉はもやもやとした気持ちを抱えたまま、窓の外を眺めるしかなかった。
目的地まで後、半分くらいのことである。
「お客さんはよくタクシーを利用されるんですか?」
思いがけない質問に和葉は我に返る。
「え?まあ、使う時は使いますけど……」
無難な答えになってしまったが、その通りなのだからしょうがない。
「そうですか。最近はタクシー自体が減っていますからね」
「そうなんですか?」
思わぬ言葉に和葉は驚きを隠せない。街中を見ていてもタクシーは多い印象だ。だが、運転手の話によると規制の関係で全盛期よりもかなり減ったらしい。
「でも、こうやって使ってくれる人がいるだけありがたいんですよ」
笑みを浮かべながらそう話す運転手の表情が何故か和葉は忘れられなかった。
目的地に着く。
料金は二千と端数だ。
和葉は三千円を出した。
「三千円ですね。お釣りが……」
「ああ、お釣りは結構です」
「宜しいんですか。ありがとうございます」
こちらが恐縮するくらい頭を下げる運転手は、和葉が完全に降りたことを確認すると扉を閉め、走り去っていった。
全く無駄なことをした。けれど、不思議とその心は暖かい。
和葉はスマホを取り出すと彼氏に電話を入れる。呼び出し音が三回鳴った後、相手が電話に出た。
「もしもし?あのね。昨日はごめんね……」
相変わらず人通りは多い。だが、和葉の瞳には彼らが優しく映った。
「いや、私の方こそ……。うん……。うん。それでね。今、近くまで来たんだけど……」
明るい日差しに包まれながら和葉は空を見上げる。その表情は晴れやかだった。
大人になった和葉の日常のひとときを。




