一
今回から新章です。
食堂の窓際のカウンター席からは構内に聳え立つ大木と次の講義に向かう学生たちを見下ろすことが出来た。
俗に「ぼっち席」と呼ばれるカウンター席も、昼ごはんの時間になると男女分け隔てなく我先にと殺到する。まるでハゲタカの様に席を陣取っておきながら、普段は何食わぬ顔でぼっち席のことを小馬鹿にして話す様はいかにも子供っぽい。
和葉はいつもの様にトレイを降ろすと、眼下に広がる景色を束の間楽しんだ。皆して急ぎ足に目的地へ向かう様子は普通の学生にはつまらなく、興味も湧かない光景なのかもしれないが、オカルト研究会に属する和葉の目には高名な絵画を美術館で眺めるような期待感と好奇心が宿っていた。
近頃、もぐりの学生がいるとの噂が流行っている。何でもそのもぐりは様々な学部の講義に出入りしているらしく、不審に思った学生や講師が声を掛けようと後を追いかけてもいつの間にか姿をくらましてしまうそうだ。不思議なのは、そのもぐりの目撃証言が人によって違うということだった。性別は勿論のこと、身長や髪形まで違うのだからどうにも雲を掴むような話だが、講義室の後ろの方に陣取っていたことだけが唯一共通した証言だった。そんな噂を聞いてしまったからにはオカルト研究会としてその正体を突き詰めなければならないと一席ぶったのが昨日の活動日のことだった。
「パスで」
彩夏はにべもなかった。
相変わらず、オカルト研究会に対する自治会の目は厳しい。こういった噂の一つ一つに関心を持って活動しなければならないのに、彩夏はのんびりと構えたままだった。和葉にはそれがずっと不思議でならなかった。
「早速張り込んでるの?ご苦労なことね」
呆れ顔で奏恵は和葉の隣に腰掛ける。トレイの上に鎮座していたのは期間限定のチキン南蛮定食だった。
「だって気になるじゃん」
「それにしたって何も空きコマをここで過ごさなくても良いでしょうよ」
「ここからだとキャンパスが見渡せるからね。いくらオカルト好きだからって、興味も関心もない他学部の講義に紛れ込んでまで会えるかどうか分からないもぐりを探す気にはならないしね。それにこの時間だからのんびりと過ごせるんでしょ。揚げ物のセールもそろそろ始まるし」
「ああ、どれだけ詰め込んでも一皿百円のやつ?でもあれって意外と深さが無いから元が取れないよね」
「もうちょっと深さがあっても良いんだけどね」
傍から見れば青春を謳歌する女子学生である。まして花も恥じらう端正な顔立ちの持ち主が仲良く談笑している様はちょっとした大学生活の理想だった。まさか揚げ物のセールに愚痴を溢し合っているとは誰も予想出来なかった。
「で、いつまで粘るの?何なら次のコマもサボっちゃう?」
「そこまで考えてなかったけどな。あ、次って美術史か。出席取らないしこのままサボっちゃおうかな」
「え!代わりにノート取っといて欲しいんだけど。ちょっと用事入ってるから」
「無理に決まってんでしょ」
友達の頼みなのに、と言いながら奏恵は和葉のトレイにある小鉢の一つに手を伸ばそうとする。その手をかいくぐって和葉はタルタルソースが一番かかっている真ん中の一切れを掠め取った。
「え、それは割が合わない」
「細かいわね。こっちはコロッケ定食なのよ。貴重な小鉢に手を出すんだから、少しくらい恵んでくれたって良いでしょ」
「どうせ揚げ物を山盛り食べるんでしょうが。その分を足したってこっちの方が高いんだから返しなさいよ」
その時には和葉は半分まで齧っていた。そして悪びれる風でもなく残りを戻す。
「中々美味しいわね」
「ほんと、あつかましいんだから」
奏恵の小言を聞き流しながら和葉は窓の外を見やった。二階建ての建物と言っても高さは余り無く、外を歩く学生達の様々な表情や周りのものがしっかりと見える。植え込みの青葉は瑞々しさを湛えながらそよ風に身を任せていた。柔らかな日差しは行き交う人々を暖かく包み込んでいる。大木の根元では待ち合わせでもしているのだろうか、一人の女子学生が物憂げに佇んでいた。
「やっぱりあの木の下って涼しいのかな」
「どうだろう。涼しいとしても私はパスかな。虫とか多そうだもん」
「ああ、食欲が無くなるからそういうことは言わないで」
「無くなるくらいがちょうど良いんじゃないの?てか、そんだけ食べて何で太んないの」
「言っとくけど、しっかり運動してますから」
ふーんとつまらなそうに相槌を打ちながら奏恵はチキン南蛮を頬張る。ボリューム溢れるメインディッシュもいつの間にかその大半が消えていた。
「それでどうなの。ある程度の目星は付いたの?」
「目星も何も、これから顔を覚えていくのよ。あの顔は見たことがあるか無いかってね」
「ほんと、暇だよね。そんなんじゃ手伝おうにも手伝えないじゃない」
「へえ、興味あるんだ」
「まあね。オカルトとか関係無く何か不気味じゃない?全然知らないやつが紛れ込んでるなんて」
「まあ、確かにね」
確かに不気味だと和葉は思う。如何に高校までの教室より講義室が広いとはいえ、誰も正体を知らない人間と同じ部屋に一時間以上もいるのは少し恐怖を覚える。
「それにこの前もあったでしょ?不審者の目撃情報」
「ああ、あったわね」
奏恵の言う不審者とはつい先日、文化会館の地下にある女子トイレに現れたと噂されている人物のことである。もっとも、その正体は酒盛りをしていた軽音楽部の男子の一人ではないかと囁かれている。軽音楽部の酒癖の悪さは学生の間では有名な話だった。
「やっぱり正体が分からないのは気味が悪いわ」
「まあね。それで手伝ってくれるのはありがたいんだけど、ここで学生の顔を覚える以外に何か良い方法を思い付いた?」
「自分が受けている講義に出てくるのを待つ」
「真面目か」
「でもそれくらいしかないでしょう。空きコマの度にここに来てがつがつ揚げ物を食べながらじっと待ってたら身が持たないし」
それもそうかと和葉は呟きながら席を立つ。レジ手前には先程カートが出てきたばかりである。香ばしい湯気に目を奪われながらも奏恵は席を立とうとはせず、渋い顔で無料の緑茶を飲んでいた。
その顔を見ながら和葉は苦笑する。普段はすまし顔でいることが多いのに、時折見せる所作の端々に滲み出る格好良さが飾らない彼女の性格を物語っていた。
「はい、これ」
席に戻ると和葉はからあげを二個、チキン南蛮の隣に置く。
「ちょっと取り過ぎちゃった」
確かに皿には溢れんばかりに揚げ物が盛られている。奏恵は溜め息をつきながら憐れむように和葉を見やった。
「あんたさ、食い気よりも色気って言葉知ってる?」
「それを言うなら色気よりも食い気でしょう?だいたい、堂々と正面切って告白も出来ない連中にこっちから媚売ったって仕方ないの」
「そういうのは告白されてから言いなさい」
「はいはい。奏恵と違って私は告白されたことなんてありませんよ。ああ、やだやだ。私もモテたいなあ」
本心から言っている訳では無いことは奏恵も知っている。だからこそその芝居に乗っかって、ふてくされた顔をしながらからあげを和葉の皿から取って口に運ぶ。
「え、嘘でしょ。そっちに置いてあげたでしょうが」
「中々いけるわね。やっぱりからあげ定食かな」
「この借りは大きいからね」
へいへい、と邪険に頷きながらお椀に手を伸ばす。そこには山盛りの白米が聳え立っていた。二人とも見た目に反して大食漢である。
先程の女子学生がおもむろに歩き始めた。所在なさげなその足取りがどこか気になって、和葉は奏恵に目配せした。
「ちょっと。あの子、何か気になるんだけど」
「え?ああ、さっきの子ね……って、どこに行ったんだろ?」
「ほら、あそこ」
言いながら指差そうとして和葉の手が止まる。ついさっきまで歩いていたはずの女子学生の姿が消えていた。
「あれ、どこに行ったの?」
二人して息をのむ。大木の先はなだらかな一本道である。また、大木から最も近い法学部棟でも、一瞬視線を逸らしたこの短時間でそこに駆け込むには充分に距離があった。
「見間違い?」
奏恵が情けない声を出す。見間違いにしてははっきりとしていたが、説明が付かない以上それで納得するしかなかった。
「まさか、もぐりを探して幽霊を見ちゃったとか」
「ちょっと、冗談にならないって」
奏恵は今ではオカルト研究会随一の怖がりである。元々は懐疑派だったが、去年に他のメンバーとつるんで会長にドッキリを仕掛けようとしてからというもの、幽霊の類がすっかり苦手になってしまったらしい。自業自得だと和葉は切り捨てたが、そんな楽しい企みに自分を交えなかったことが未だに少し腹立たしくもあった。
「引き返してこっちに向かって歩いてるんじゃない?ここからじゃ下の方は見えないし」
確かに奏恵の言う通りである。このカウンター席からは死角になって下の方が見えない。女子学生がこちらに引き返していれば姿が見えないのも頷けた。
「まあ、あんまり難しく考えるのはやめとこう」
自分に言い聞かせるように和葉が奏恵に伝えるのと、刺すような鋭い視線を二人が両肩に感じたのはほとんど同時だった。
「……ねえ。私たち、今誰かに見られてる?」
「やっぱり気のせいじゃないよね?」
「どうする?振り返ったらやばいかな」
「絶対にやばいよ。知らんぷりしとこう」
「あの」
ひっ、と声にならない悲鳴を上げて二人が思わず振り返ると、そこには先程まで話題にしていた女子学生が立っていた。彼女は怪しむ目付きでこちらを見つめている。左目の辺りには泣きほくろが見えた。白のドットブラウスにデニムのロングスカートという装いが印象的だった。
「さっきから何ですか。じろじろとこっちを見て」
どうやら幽霊ではなかったようだ。ホッとした表情を浮かべて奏恵は女子学生に頭を下げた。
「誤解させちゃってごめんなさいね。あの大木の下で友達と待ち合わせをしてたから、てっきりもう着いたのかなって」
「そうなの。あなたと服装が似てたから勘違いしちゃって」
和葉も奏恵に合わせる。嘘はつきたくなかったが、まさか幽霊と勘違いして騒いでいましたなんて失礼なことは口が裂けても言えなかった。
「そうだったんですか。こっちこそすみませんでした」
女子学生も頭を下げる。どこか勝気な態度は一見同年代か一個上に見えるが、少し幼さの残る顔立ちから年下に間違いないと和葉は見当を付けていた。
「んじゃ、失礼します」
女子学生はもう一度頭を下げると階段の方へ歩いていった。言葉遣いとは裏腹に丁寧な物腰が印象的だった。




