一
今回から新章です。
イタリアンバル・バードランドの扉を開くや、真奈美はマスターの挨拶にも答えることなく、コートも脱がずにいつもの席に腰掛けた。
「あれ、どうした?今日はいつになく荒ぶってるけど、何か嫌なことでもあった?」
「あたっちゃってごめんなさい」
そう言いながらもパックから乱暴におしぼりを引っ張り出す真奈美に苦笑しつつ、マスターは水をなみなみと注いだグラスを差し出した。
「何か食べる?それとも飲むだけにする?」
「とりあえず、ビールをください」
差し出されたグラスをはしたなくも一気に呷ると、真奈美は口元を伝う滴も拭かずにビールを注文した。
「ちょっと真奈美。飲みたい気持ちなのは分かるけど、普段飲まないものを無理して飲んでも仕方ないよ。サービスしてあげるからアイスミルクティーにしなさい」
いただきます、と途端に相好を崩す真奈美に、隣の席に座っていた和葉が肘鉄を喰らわせた。
「ちょっと待ちなさいよ。こっちは静かにお酒を飲んでるっていうのに、あんたが騒がしくするから台無しじゃない。だいたい、今日は自主練するって言ってたでしょ。なんで、ここにいるのよ」
呻きながら真奈美は左の脇腹を痛そうにさすると、和葉を睨みつけた。
「あんたこそ最近顔を出してないくせにさ、偉そうに言わないでよ」
「色々と忙しいの」
「忙しいならなんでここにいんの」
「うっさいわね」
和葉と真奈美はジャズ研究会の同じメンバーだが、基本的にはウマが合わない。例えて言えば、和葉が目玉焼きに醤油をかければ真奈美はソースをかけ、真奈美がそばを食べれば和葉はうどんを注文する様なものである。性格も片方が几帳面で、もう片方は大雑把というように二人は何に付けても真逆だった。
がみがみと言い合う二人を微笑ましげに眺めながら、マスターは手元を忙しく動かしていた。
イタリアンバル・バードランドは二人が通っている大学からほんの少し距離はあるものの、良心的な価格と落ち着いた雰囲気によって下宿生の憩いの場となっている。
店の奥に置かれた蓄音機型のスピーカーからジョン・コルトレーンの「Just Friends」が流れ始める。マスターはジャズ研究会でも名を馳せた存在として有名で、かつて共にジャズ研究会に属していたであろう壮年の紳士や女性陣がよく訪ねて来ては、奥のテーブル席で和やかに思い出話に花を咲かせていることがある。そういうこともあってか、客層の大半はジャズ研究会の一員だった。和葉がこの店を知ったのも、ジャズ研究会の一個上の先輩に教えてもらったからだった。
「はいはい、ケンカはそこまで。で、何があったの?」
「そうなんですよ、ちょっと聞いてください。これなんですけどね」
言いながら真奈美はそこそこ大きな紙袋を掲げてみせた。鮮やかな色合いの花々が顔を覗かせている。
「綺麗ね」
思わず顔をほころばせる和葉に軽い一瞥をくれると、真奈美は溜息をついた。
「何で誕生日プレゼントに花なのよ。もうちょっと何かあったでしょうよ」
「お洒落でいいじゃん」
「考えてみてよ。花瓶の用意もしないといけないし、毎朝水も変えないといけないんだよ。めんどくさいったら」
「でも、今の人と付き合ってもう結構経つんでしょ。なら逆にそういうシンプルさがいいんじゃない?」
「他人事だからって呑気なもんね」
溜息をつく真奈美にミルクティーを差し出しつつ、マスターが不思議そうな表情で尋ねた。
「そんなに幸せなくせに何が気に食わないの?」
「え、幸せですか?」
「だって、さっきからずっと花束が入った紙袋を大事そうに抱えているじゃない」
和葉は真奈美の方を改めて見やった。確かに紙袋は両膝の上に置かれている。
「これは……。まあ、いくら何でも下に置くのは悪いし、空いてる席に置くわけにもいかないし……」
ばつが悪そうに真奈美は答える。この店に入ってきた時とは打って変わったしおらしさである。この感情の起伏の激しさが男には受けるのだろうかと、和葉はぼんやりと考えながら鶏ハムを一口食べた。
「自分自身がまんざらでもないないくせに、相手を悪く言うのは都合がよすぎるよ」
思いがけないマスターの手厳しい一言に、真奈美はますます身を小さくした。
「でも、何だかちょっと羨ましいわ。私の頃は何かとかっこつけた男ばっかりだったから、気が利いていると勝手に自分で信じ込んでいるプレゼントばかりで、本当に心が込められたものってほとんど無かったのよ」
「へえ、マスターって結構色々とあったんですね」
「あら、和葉。何をいまさら」
軽く微笑むとマスターは懐かし気に目を細めた。
「でもね、そんな男ばかりの中でも良い男ってやっぱりいるもんだよ」
「え、それって?」
「まあ、私の話じゃないんだけどね。でも目の前の幸せに気付いていない子もいるみたいだし、馬鹿なのは男も女も関係無いのかもね」
マスターは静かに笑みを閉ざすと真奈美をじっと見据えた。




