五
「むにゃ……」
寝ぼけまなこを擦りながら和葉が伸びをする。思わぬ邪魔に彩夏は知らず知らずのうちに顔をしかめていた。
「あれ……会長じゃないですか」
何とも言えない幸せそうな表情で和葉が彩夏を見つめている。その様子を楽し気に見つめていたマスターはおもむろに二人のグラスを下げた。
「はい、もう閉店時間だからね」
「え……もうそんな時間なんですかあ」
和葉はまだ覚醒し切っていない。まだ閉店時間には早く、彩夏は話の続きを聞きたかったが、マスターはどうやら話を続けるつもりはもうないようだった。
「ほら会長、帰りますよー。今日は泊めてください」
すっかりご機嫌な和葉を支えながら店を出る。振り返ると、扉にはめ込まれたガラス窓の向こうでマスターが食器を片付けていた。
その日、彩夏は図書館を出ると、足早にフレーバーロードへ向かった。花壇に並べられた様々な花が水気を吸って生き生きと咲き誇っている。
太陽はまだ空高くにあるが、直に西へ進み始める頃合いだ。程よい暖気の中に一陣の風が舞い込み、午睡を誘うひと時である。
彩夏がその場所に着いた時、扉の向こうでは目的の人物が仕込みだろうか、カウンターの向こうで忙しなく動き回っていた。
その様子を扉のガラス窓から見た彩夏は一瞬ためらう様子を見せたが、すぐに意を決した表情を見せて扉を開けた。
「ごめんなさい。まだ開店前なんですが……」
言いかけて相手は黙り込む。彩夏は静かに扉を閉めると軽く会釈をした。
「あらあら、誰かと思えばあなたなのね。まだオープンには時間があるんだけど、折角だし何か飲む?」
「……では、アイスティーをお願いします」
彩夏は以前と同じ席に腰を下ろす。マスターはアイスティーを用意すると彩夏に差し出し、自分のグラスには赤ワインを注いだ。
「その様子だと、話の結末は分かっちゃったんだね」
「結末自体は最初にマスターが話してくださっていましたから」
あ、でもね。昔のことだけどハーブ園で似たような話があったのよ。
「オチを最初に言っちゃうなんて、私も話下手ね」
「そんなことは無いです。マスターの話は本当に楽しかったので」
「有難う」
そう言いながらマスターはゆっくりとワインを流し込んだ。
「でも、それを言う為だけにわざわざ開店前の時間にここへ来た訳じゃないでしょう?」
いたずらっぽく笑いながらマスターは彩夏を見つめた。
「はい。どうしても気になることが一つあって。どうして続きを和葉には聞かせたくなかったんですか?」
「ああ、それはね、あの子がハッピーエンドを望んでいたからよ。いくらお酒が入っていたとはいえ、こんなおばさんの思い出話にあれだけ目を輝かせてのめり込んでくれてたんだもの。そのままにしておきたかったのよ」
「出来れば私もそのまま楽しい思い出話の一つとして聞き終わりたかったです」
少しふくれっ面な彩夏をマスターはただ見つめているだけだったが、おもむろに吹き出すと軽く笑った。
「驚いた。和葉と同じで純情なところがあるのね」
「そりゃあそうですよ」
「ふふ。ごめんなさいね。でも、嬉しいな」
マスターはグラスを置くと、仕込みの作業に戻った。慣れた手つきで塊をスライサーに置き、瞬く間に生ハムを生み出していく。
その様子を見ながら、彩夏は先程図書館で読んだ過去の新聞記事を思い返す。
運転手が発作を起こした暴走車に巻き込まれ、彼は運転手と共に亡くなっていた。
この不幸な事故において、唯一解決していなかったのは、事故に遭う前に彼が握り締めていた物の行方である。ついに見つからなかったその物の正体をマスターは知っているのではないかと彩夏は考えていた。
彩夏がアイスティーを飲み終える頃には、マスターは自家製のタルタルソースを作っている最中だった。
「ごちそうさまでした。お金はここに置いておきますね」
「ちょっと待って」
代金を置こうとする彩夏をマスターは止める。
「折角だし最後まで聞いていって」
もとより、彩夏はそのつもりだった。フレーバーロードに出るという幽霊の噂話から想起が始まったこの話の、まだ語られておらず、恐らく聞くのも自分だけになるであろう部分が彩夏を惹き付けていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
土曜日だというのにその日は人もまばらだった。
噴水公園は、広大な敷地を持つ古藤ハーブ園の中でも平地に近い場所に位置している。大通りから山に向かって続く長い石段を上がり切るとロープウェーの中継地点に辿り着く。そこから更にロープウェーを乗り継いだ先にあるのが噴水公園だった。
友望はそこのベンチの一つに、落ち着かなさそうに座っていた。公園に置かれた時計台を見ると針は間もなく十時四十五分を指すところだった。
少し前からトークアプリが深雪からの連絡を知らせている。画面を見ると何でもない緩やかな日常のやり取りが綴られているが、そのさりげない心遣いが友望は嬉しかった。
「この前話してたあの映画だけどさあ」
「うん」
「観たけど全然面白くなかったよ」
「そうなの?」
「いつもの予告詐欺だった」
「最悪だね」
トークを続けながらも友望はしきりに時計台に目を向けていた。
深雪が踏み込んだ話をしてきたのは、約束の時間の三分前のことだった。
「ねえ、あいつから連絡は来たの?」
「ううん、まだ来てない」
「私とのやり取りに夢中で通知見落としてない?(笑)」
「いや、それは無いよ。ポップアップだから話してても分かる」
「そっか」
画面から顔を上げて辺りを見回したが、今一番会いたい相手はまだ姿を見せていない。
「まだ来てないみたい」
「連絡してみる?」
「うん」
相手の画面を呼び出し、「今どの辺り?」と打ち込む。無事に内容は送信されたが既読は付かない。
「ねえ、そっち行こうか?」
深雪が気遣ってくれたが、友望はそれを断った。
しばらくの間友望はその場で待ち続けた。段々と客足が増えてくるが、いまだに相手は姿を見せない。
いつの間にか時計の針は十一時半であることを知らせていた。風に乗ってサイレンが聞こえてくるのが今日はいつになく鬱陶しかった。
「はあ……」
自分でも気付かないうちに溜息をついていた。
今度こそすっぽかされてしまった。仲直り出来るなんて淡い期待を抱いていたのは自分だけで、とっくの昔に愛は冷めきっていたのだ。
友望は帰ることにした。ベンチから立ち上がり、沈んだ気持ちのままロープウェーの方へ歩き出す。向かい側からカップルが歩いて来る。
「事故かな……」
「うん……」
二人とも顔色が悪い。どうやら事故があったようだ。
「嫌なもんだね……。吹き飛んだ眼鏡が転がっててショックだった」
「あの男の人、大丈夫かな……」
通り過ぎていくカップルのやり取りがやけに耳に残る。
友望は何を考えるでもなく、トークアプリを開くと通話画面を呼び出した。だが、通話が取られることは無かった。
「何で……。出てくれたって良いじゃないの……」
訳も分からないまま、足が震え出す。
いよいよ立っていられなくなった友望は、ベンチに縋りつく様に座り込んだ。
嫌な予感が頭をよぎる。それを振り払いたいが、出来ることはただスマートフォンの画面を見つめることだけだった。
ふと、手元のスマートフォンが震えた。連絡があったと思った友望は画面を確認することなく話し出した。
「もしもし!」
「もしもし、友望?」
相手は深雪だった。
「どうしたのよ、そんなに大声出しちゃって」
「深雪……。私、どうしたら良いかな……」
友望は今起きたことを全て話した。約束の時間を大幅に過ぎても何の連絡も無かったこと。帰ろうとした際に聞いた事故のこと、ずっと連絡が付かないこと。
深雪はずっと黙って聞いていてくれた。友望が何とか話し終えた時には通話時間がニ十分以上になっていた。
「ねえ、友望。まだハーブ園よね?今からそっちに行くから、そこで待ってなさい。途中で見つけたらぶん殴って連れて来るから」
深雪の声が遠くに聞こえる。どうやら走っている様だった。
「良い?そこで待ってないとあんたもぶん殴ってやるからね」
何か返事をしようと思った時には、通話は切れていた。
この状況を何とも出来ない無力感が自身を苛む。友望は祈るような気持ちで足元を見つめることしかできなかった。
ふと、人の気配を感じた。
「ごめん、スマホが壊れちゃって……。連絡出来ずに本当にごめん」
驚いた友望は顔を上げて、再び驚く。
相変わらず季節に似合わない汗を浮かべながら、男は友望の少し前の方に立っていた。
「……大丈夫なの?」
「う、うん……」
大丈夫じゃないのは様子を見れば明らかだった。
「また待たせちゃってごめんね」
「……」
「それと、ケンカのこともごめん。辛い思いさせちゃった」
「ううん。私もごめんね」
「これ……。仲直りにって思ってたんだけど、ここに来る途中でちょっと……」
見れば、それは様々な花で彩られた花束だった。包装紙こそ土で汚れているが、花々は綺麗なままだった。
「有難う……」
「受け取ってくれるんだね。良かったよ」
ああ。やっぱりこの人は私のことを想ってくれてたんだ。
「当たり前じゃん……」
「あれ、何で泣いてるの?」
「だって……だって……」
片意地張っちゃってごめんね。気を遣わせてごめんね。最期まで信じきれなくてごめんね。
「そんな……。こっちこそごめんね。それと、有難う」
男は微笑んだ。
「これだけが心残りだったんだけど、最後に会えて良かったよ」
「え……」
「有難う、友望」
風が吹き抜ける。慌てて目を凝らしたが、そこには誰もいなかった。
友望は自身の手元を見つめる。花束は役目を終えたかの様に急激に劣化し、手元から崩れ落ちていく。
「友望!友望!」
振り向くと、深雪が走り寄ってくるところだった。
友望の前に立つと、息を整えるのもそこそこに緊張した面持ちで彼女を見やる。
「あのね、落ち着いて聞いて欲しいんだけど……」
「うん、知ってる」
「え?」
「それなのに仲直りの花束を持って来てくれたんだ……。なのに私ったら……本当馬鹿みたい」
両手の上にあった花束の残骸も、今はその殆どが風に飛ばされている。それを見た深雪は一瞬驚いた様子だったが、友望を見やるとそっと彼女の右腕をとった。
「行こっか」
「うん」
友望は手の甲で頬を伝う涙を拭うと、前を向いた。心に残った花束のプレゼントをそっと握り締めながら。
次回から新章です。




