一
今回から新章です。
この章は毎日投稿します。
グラスを傾けていると、カウンターの向こう側でマスターが鶏肉を軽く叩く音が聞こえてきた。
柔らかくなったのだろうか、鶏肉に小麦粉とチーズ、パン粉をまぶしていく。底の深いフライパンには多めのオリーブオイルがじっくりと温められている。
「マスター、もう腹ペコです」
漂ってくる香りに心躍らせながら和葉は目を輝かせる。そんな彼女の様子にマスターと呼ばれた女性は優しく微笑み返す。
イタリアンバル「バードランド」はリーズナブルな価格とボリューム感溢れる料理によって、下宿生たちやサークルメンバーの多くから愛されている場所だった。また、小洒落た雰囲気であるところや同じ大学の卒業生でもあるマスターの屈託ない人柄も、人気の一つである。
「もう少しで出来るからね」
ラストオーダーまでまだまだ時間はあるが、店内は既に和葉達だけとなっていた。普段は学生同士のざわめきで余り聞こえないBGMも、今日は静かに身体を包み込む。
ほどなくして油が跳ねる小気味良い音が響いて来た。テナーサックスによって奏でられるジャズ・スタンダードの『Misty』と相まって、上質な時間が漂う。
「会長、良かったら一緒に食べません?」
無意識なのだろうか、彩夏は軽く首を縦に振ると水の入ったグラスをグイっと傾けた。今か今かと待ちわびながらも彩夏はじっとマスターの手元を見つめている。
その様子を見ながら、和葉は当初の目的を彩夏が忘れているのではないかと疑い始めていた。
「花束を持った幽霊がこの先の通りに出るって?そんなの聞いたこと無いなあ」
カツレツを二人で平らげた後、和葉と彩夏は食後の一杯を楽しみながらマスターに尋ねたが、すぐに一笑に付されてしまった。
最近、フレーバーロードに花束を持った幽霊が現れるらしいと、オカルト研究会のメンバーの一人が食堂で聞きつけた噂を持ち帰ってからというもの、ここ数日のオカルト研究会の話題はそれで持ちきりだった。
大学への最寄り駅の南側に広がる胡麻富通商店街は、一駅隣にあるハーブ園にあやかってフレーバーロードと呼ばれている。名前に見合う様、フレーバーロードの各店舗の前には花壇が設置され、従業員が思い思いのタイミングで水やりをする光景は一種の風物詩となっている。そこに花束を持った幽霊が出る様になったらしい。
最寄り駅の北側に店を構えるマスターなら何か知っているかもしれないと思った和葉は、いつもの幽霊話だと嫌がる彩夏をなだめすかして、遅い夕食も兼ねて店に足を運んだのであった。
「何か事件や事故があった訳でも無いし、ガセネタよ、それ」
サングリアを片手に、楽しそうにマスターが笑う。頬にはほんのりと赤みが差していた。
そんな風にお酒を飲むマスターが和葉には新鮮に映った。少し前に兼部することになったジャズ研究会のOGでもあるマスターは、後輩の自分からすると憧れの存在である。別に厳しい訳ではないが、穏やかながらも凛とした佇まいを崩さないその姿勢は、自身の目標である未来像と重なっていた。
「やっぱりそうですよね。そんな都合のいい話なんてないですよね」
心なしか上機嫌に彩夏が答える。店に来る前は、お酒は余り飲まない主義だと言いながらサングリアを既に六杯は開けていた。今でこそ食後の紅茶を啜っているものの、顔色は全然変わっていない。さっき聞いた主義が嘘だったのではないかと思うこともあったが、どうやら良い加減に酔いは回っている様である。
「そうよ、あるわけないじゃないの」
マスターが笑う。
手元のコーヒーカップを見ながら、苦笑交じりに和葉は頷くしかなかった。元々、噂自体に関心は余り無かったと言えば嘘になるが、まさか大学のすぐ近くで都合よくオカルトな存在が現れるとも思わないくらいには現実的な思考の持ち主だった。だが、隣を見やると彩夏が安心しきった表情で紅茶を啜っていたのが、何とも憎らしい。
「あ、でもね。昔のことだけどハーブ園で似たような話があったのよ」
何かを思い出したようでも無く、自然と口にしたマスターのその言葉に和葉は思わず身を乗り出した。
「ちょっと、その話、詳しく聞かせてくださいよ」
隣で彩夏が身を強張らせていたが、それに構わず和葉は話の続きを促した。その勢いに一瞬面食らった様子だったものの、すぐにマスターはにっこりと微笑んだ。
「いいけど、その前にね」
マスターはカウンターを出ると玄関のドアまで向かい、「OPEN」のプレートを裏返した。
窓の外では、枯れた木の葉が風に吹かれて舞っている。




