六
会長が対面式に並べた座席を示した。その時になって自分が今まで立っていたことに気付いたのだった。
向かい合わせに座ると会長は私たちの間にある机の上にファイルを二冊置いた。ここで遥さんの依頼を受けたことをぼんやりと思い出しながら、私は会長に尋ねた。
「じゃあ、どうすれば良いんですか?」
「それを考える為に、ここに籠っていたの」
「え、じゃあ今日、遥さんがいらっしゃることはないんですか?」
「まあね」
てっきり今日中に全てを終わらせるつもりだと考えていた私は、自分が如何に短絡的で感情的に物事を見ていたかを改めて認識せざるを得なかった。
「でも、遥さんから進捗状況を尋ねる連絡はあったの。一応、過去の噂との関連性を調べているところとだけ伝えておいたんだけど、顔を出せたら出したいって言ってたから、あまり先延ばしに期待できそうにもないわね」
「それってかなりまずいですよ」
「まずいのは、まだ全ての調査が終わったわけじゃないってことよ」
「え?」
「移ろい雪が残ってるわ」
「ちょっと待ってください。移ろい雪伝説と今回の件は何も関係無いでしょう。確かに遥さんが追い求めている件は幻覚症状と似ているものがあるかもしれません。でもそれはどちらかと言えば、幻想に近いものですよ。ある程度の積雪が一夜で姿を消したかと思えば、翌日にはまた元通りになっているなんて、それこそ幻覚でも見たんでしょう」
「昔の人は何故、移ろい雪を見たのかしら?」
「急に何ですか」
「幻覚にしたって幻想にしたってね、それを自身の眼に映し出すことには何かれっきとした理由があるはずなの。その理由を何としても見つけ出さなければならないわ」
「よく分かりませんよ」
「良い?大切なことは私たちに調査を依頼してきたことなの。冷静に考えることができれば、自分が依頼した調査内容が実は自身の子どものことを指していると気付くはずだけど、それに気付いていない。もしかしたら本能では気付いているのかもしれない。或いは理性下で気付いているかもしれない。そもそも実際に子どもの幽霊を見たのか、見たという自分自身の経験を信じているのか。それを明らかにしないことには遥さんと向き合えないし、遥さんも自身の依頼の調査結果に対して向き合えない」
「言いたいことは分かりました。でも、だからって移ろい雪伝説そのものを調べる理由がありますか?」
「ここに書いてあったことだけど」
会長が上に置いていたファイルを開いた。それは初めて遥さんに出会った時に目にした調査記録だった。
「これを付け加えたのは遥さんよ」
「え?」
「昔の記録をひっくり返していたらこんなものが見つかったの」
机の上に残されていたもう一つのファイルを開くと、子どもの幽霊の話を纏めた調査記録の軽く三倍はあるのではないかと思わされるほど、膨大で詳細な記録が綴じられていた。
「これって……」
その記録は移ろい雪伝説に纏わるものだった。最初のページに書き記された日付を見るとオカルト研究会が発足した年だった。
「大先輩たちは移ろい雪伝説を真剣に調べていたのよ。ほら見て。地元の人へのインタビューの口述筆記まであるわ」
「こんな記録があったんですね」
「代が変わってもその調査は受け継がれていた。まあ、発足したばかりのオカルト研究会にとって地元の不思議な伝説は強烈なインパクトを持ったものだったのでしょう」
言いながらページを次々と手繰っていく。迷うことなくページを進めるのは、恐らく既にそのファイルに目を通したからだろう。
「そしてそれはつい最近の代にまで引き継がれていた」
ぴたりと手を止める。その記録に記されていた名前は「御幣島遥」だった。
「この二つを見比べてみて」
会長が先程のファイルを隣に置く。両方に書き記された「移ろい雪」の筆跡は確かにそっくりだった。
「移ろい雪伝説の調査は最初の頃に比べて少しずつではあるけれど尻すぼみになっているの。代が飛んでいることもあったわ。けれど、ある時からまた調査内容の量も質も上がり始めている」
「遥さんですね」
「ええ。歴代の記録を見返してみても遥さんの記録が群を抜いているわ」
「これだけの量を調べるとなると、ずっと移ろい雪伝説だけを調べていたんですかね」
「恐らくね。遥さんがここに在籍していた頃の他の記録をあたってみたけれど、遥さんの名前はほとんど出てこなかったわ。記録の中で言及されているし、フィールドワークにも出向いていたみたいだから他の調査に全く携わっていなかったわけでもないでしょうけど、移ろい雪伝説に精力を注いでいたのは間違いないわね」
「でも、やっぱり分かりません。移ろい雪伝説を遥さんが調べていたからって、今回の依頼とどう関係があるんですか?」
「移ろい雪伝説はその名の通り雪が消えては現れる内容だけれど、もう一つのことを覚えていて?」
「もう一つ……。あ、それってこの世とあの世が繋がっているから山に立ち入ってはいけないって話ですか」
「そうよ」
またページをめくり始める。素早く目的のページまで進めていくその手はまるで意思を持った別の生き物のように見えた。
「この記録を見て。これは移ろい雪が起きたとされる年にこの辺りに出回った怪談を集めたものだけれど、人型の幽霊を見たという話が多いの。しかもその幽霊は髪の長い女といった共通の特徴を持っていない」
「確かに、目撃談では女性だったり子どもだったりしますね」
「伝説では、移ろい雪が起きた時は山に立ち入ってはいけないとされているわ。その答えがここにあるんじゃないかしら」
「それってつまり……」
「ここには明記されていないけれど、恐らくこの幽霊たちは目撃者にとってかつて意味のある存在だったのよ」
だから山に立ち入ってはならないのだ。立ち入ってしまうと、本来ならもう二度と会えない人たちとまた出会うことになる。
「立ち入った者にとって良くないことが起きる」
かつて会長が適当に返した言葉は、実は正確な表現だったのだ。
「ええ、そうね。出会ってしまったらまた会いたくなる。でもそれは私たち生きている者同士と違って、会いたいと思って会えるものではない。移ろい雪っていうくらいだから、真冬の雪山はとんでもなく寒いわ。吹雪くことだってあるでしょう。そんな中、いつ起こるとも知れない移ろい雪に出くわすことを期待して夜ごと雪山に出掛けていけば、遭難する可能性だって高くなる。もしかすると自ら望んで繋がっているとされるあの世を目指すかもしれない。移ろい雪伝説が少し暗い部分を持ち合わせているのは、生者が死者を慕うあまり自らも死者になる可能性を秘めているからなのよ」
「じゃあ、遥さんが子どもの幽霊の調査記録に移ろい雪伝説を付け足したのは、そうだと思う何かしらの根拠があったということですか?」
「さすがに根拠があったとまでは思わないけれど。けれど、移ろい雪伝説に精通している人なら誰でも人の形をした幽霊の目撃談が寄せられることには何らかの因果関係があるのではないかと考えてもおかしくないでしょうね」
「その通りよ」
突然のことにぎょっとし、二人して振り返る。いつからそこにいたのか、出入り口のドアを半ば開けた状態で遥さんが立っていた。
「遥さん……」
会長の驚きぶりからも、遥さんが何の連絡もなしに訪ねてきたことが容易に見て取れた。
「彩夏。どうして移ろい雪伝説なんて調べているの?」
ふらりとした足取りで遥さんが歩み寄ってきた。無造作に手を放したせいでドアがひとりでに閉まり、大きな音が辺りに響き渡った。
「ねえ、彩夏」
すっかり薄暗くなった部屋の中では互いの顔こそ見えるものの少し先のものは判然としない。だからこそ、落ちくぼんで虚ろな遥さんのその目が印象的に映った。
会長はしばらく遥さんを黙って見やっていたが、何かを決意したかのように背筋を伸ばすとおもむろにこう告げたのだった。
「遥さんに依頼された調査の為です。あなたを探している子どもの幽霊……遼太君の」




