第 3 章 新しい世界 (02)
「ふぅ……」
朝からさまざまな穀物を運び、整理していたせいで、もう昼になろうとしていた。
雪原の拠点を離れ、この場所に農園を作ってから、すでに一年が過ぎていた。
目の前に広がる畑や施設を眺めていると、これまでのさまざまな出来事が頭をよぎった。
雪原の拠点には、今でも定期的に足を運び、必要な物資を持ち帰っている。
迷宮……。
巨大な樹が見えた地域も含め、この一帯を迷宮と呼ぶようになったのは最近のことだ。
多くの地域を探索し、調査を重ねるうちに、いろいろなことがわかってきた。
迷宮と呼ばれる地域は非常に広大で、多くの謎を抱えているということ。
地域によって違いはあるものの、基本的には前後の見通しが利かない迷路のような場所で、何の情報もないまま道に迷ってしまえば……。
十中八九、何もできずに餓死するか、精神的な衝撃に耐えられず、自ら命を絶ってしまうだろう。
巨大な樹が見える地域を出発し、現在の農園を拠点として生活するようになってから、もう一年以上が経っていた。
正確には、一年と五か月ほどになる。
もっとも、この世界の時間の概念はわからないため、持っている携帯電話と時計を基準にした時間ではあるのだが。
短いと言えば短く、長いと言えば長い。
その間にも、実に多くのことがあった。
初めて生きている人間と出会い、迷宮の外まで案内したこと。
迷宮の中には、道に迷って命を落とした人々の遺体や遺品が、かなりの数残されていること。
そして、迷宮を抜けたそれほど遠くない場所に、中立都市アルカディアが存在すること。
「はぁ……」
少し腰を伸ばし、ある方向をじっと見つめた。
おそらく、あちらが中立都市のある方向だろう。
農園から少し速足で移動すれば、半日ほどで到着できる距離だ。
これまでも興味がなかったわけではない。
ただ、わざわざ行く必要がなかったため、訪れたこともなければ、行きたいと思ったこともなかった。
けれど、そろそろ考えを改める必要があるのかもしれない。
立ち上がり、倉庫の方へ歩いていった。
倉庫は居住区域とは反対側にあり、いくつもの建物をつなげた形で、用途ごとに使い分けている。
大部分は木造だが、火災に備えて、一部には石や泥を積み上げて作った場所もあった。
すべてを一人で管理しなければならないため、あまり多くの種類の野菜や果物を栽培することはできなかった。
そもそも、その必要もない。
雪原の拠点には、今でも大量の物資が山のように積み上げられている。
これほど長い時間が経った今でも、ほかの誰かが侵入したり、近づいたりした形跡はなかった。
しかし、氷点下の気温によって自然冷凍されているとはいえ、食料はいずれ時間とともに傷み、消費しきれなければ廃棄するしかなくなる。
どれほど大量にあったとしても、それだけに頼り、少しずつ減っていく食料を眺めながら、残りの数を数えるような無様な真似はしたくなかった。
意味もなく捨てるのはもったいないため、保存期間の短いものから食べたり、畑の堆肥として利用したりしている。
缶詰など、保存期間の長い食品は非常食として分類し、別に保管していた。
冷凍食品については、文字どおり冷凍された状態なので、拠点を往復するたびに農園へ持ち帰って消費したり、そのまま保管を続けたりしている。
雪原の拠点にある食料も、いつかは必ず減り続け、底をつく日が来る。
だからこそ、農園で作物を収穫することは、生きていくうえで欠かせない重要な問題だった。
かなりの量の非常食や物資が保管されている倉庫をひととおり確認すると、扉に鍵をかけ、隣の種子倉庫へ入った。
「…………」
そこには、雪原の拠点から持ってきたさまざまな野菜や果物、穀物の種子が、種類ごとに整理されていた。
もちろん、すべてを持ってきたわけではない。
万が一の事態に備え、ある程度の量は安全な拠点に残してある。
その隣には、小さな石や岩、泥で作った冷蔵倉庫があった。
雪原地帯を探索していた時、偶然発見した万年石……とでも呼ぶべきだろうか。
溶けることのない万年雪という言葉は聞いたことがある。
だが、これは何と呼べばいいのだろう。
「…………」
冷蔵倉庫に入った途端、冷たい空気が全身を包み込んだ。
外はまだ暖かな春の陽気だが、倉庫の中は氷点下の温度が保たれている。
雪原地帯のある場所には、強烈な冷気を放つ石や岩が数多く存在していた。
最初は珍しいと思って記録するだけだった。
しかし、農園を作るにあたって冷蔵倉庫や暑さへの対策が必要になったため、試しにかなりの数の石や岩を運び込み、倉庫に設置してみたのだ。
永久に冷気を放ち続けるのかどうかは、まだわからない。
それでも、現在まで一年以上、何の問題もなく冷蔵庫としての役割を果たしてくれている。
ちなみに、扇風機と万年石を利用した簡易エアコンも作ってあるため、夏の暑さにも対応できるようになっていた。
冷蔵倉庫を通り過ぎ、最も大きな倉庫の扉を開けた。
そこは食料倉庫で、居住区域へ持ち込んで消費する前の野菜や果物を、一時的に保管しておく場所だった。
もともとは、それほど大きな倉庫ではなかった。
どうせ一人で食べて暮らすのだから、大量の食料が必要なわけでもない。
畑を作って種をまき、農業を始めてはみたものの、本当に収穫できるかどうかもわからなかったからだ。
ところが、この土地の土壌は農業に最適な環境を備えているらしい。
温暖な気候に、湖や滝。
そして何より重要なのは、地下水が豊富どころか、あふれるほど存在していることだった。
居住用の建物には地下水を引き込み、飲料水として使えるように水道を設置した。
畑や清掃などに使う農業用水については、近くの滝から水路を引いている。
農園の拠点を作る際、最も多くの時間を費やしたのが、この水道と水路の工事だった。
工具や道具、材料は雪原の拠点に余るほどあったため、それらを利用することはできた。
しかし、地下水を掘り当てて水道管につなぎ、近いとも遠いとも言い切れない滝まで、パイプや木材を使って水路を作る作業は、決して簡単ではなかった。
農園の中央と外側の区域をパイプでつなぎ、水路を開閉して水を引き込めるようにしてある。
定期的な点検や確認も欠かせない。
「…………」
水路へ近づき、流れる水を眺めながら、手ですくって飲んでみた。
農業用水とは名ばかりで、澄んだ湧き水と変わらないほどきれいで、美味しかった。
もちろん、地下水も冷たくて美味しいことに変わりはない。
居住用の建物にも、当然ながら冷蔵庫に似た保管設備があり、食料の状態を確認しながら消費している。
ところが……。
再び食料倉庫へ戻り、中の様子をじっと眺めた。
かすかに、野菜が腐り始めた臭いが漂っている。
ここにも万年石を設置してあるとはいえ、野菜が傷むのを完全に防ぐことはできない。
倉庫の中には、大量の野菜や穀物が積み上げられていた。
管理の問題もあるため、栽培する品種はそれほど多くない。
基本的には、育てやすく、保存しやすいものを中心に作っている。
ジャガイモ、サツマイモ、ニンジン、タマネギ、ニンニク、長ネギに小ネギ、豆類。
そして、最も収穫量の多い小麦。
果物についてはリンゴが好きなので、試しに何本か栽培してみた。
今では十本以上に増え、多くのリンゴを収穫できるようになっている。
それ以外の果物や野菜は管理が難しいため、栽培していない。
最も重要なのは、米を作ることだった。
しかし、雪原の拠点には数十トンもの米が保管されているため、今のところ急ぐ必要はなかった。
とはいえ、いつかは必ず取り組まなければならないことでもある。
「…………」
農園は、それほど大規模というわけではない。
それでも、一人で管理するには決して楽ではない広さだった。
それにしても……。
この迷宮の土壌と水質が、あまりにも良すぎるのだろうか。
最初こそ、さまざまな失敗や試行錯誤を繰り返した。
しかし、栽培が安定してからの収穫量は、まさに次から次へとあふれ出すような勢いだった。
当然、一人ですべてを食べきれるはずもない。
いろいろと工夫して保存してはいるものの、すでに相当な量が、食べられないほど腐り始めていた。
堆肥にしてしまえば、それで済む話ではある。
だが、あまりにももったいない。
倉庫の扉をすべて閉め、近くの木陰に置かれたベンチへ腰を下ろした。
そして手帳を取り出し、これまで記録してきたさまざまな情報を読み返し始めた。
「…………」
この一年以上、ほとんど迷宮の外へ出たことがなかった。
その必要もなければ、そうしようと考えたこともなかった。
ただ、倒れかけている人々を何人か助け、中立都市が見える場所まで案内したり、運んでいったりしたことはある。
そうしたことを繰り返すうちに、いろいろな情報を得ることができた。
当然のことながら、互いの言葉はまったく通じない。
わざわざ口にするのも面倒なほど、当たり前のことだ。
以前暮らしていた国でも、船や飛行機で一、二時間ほど移動するだけで、文化も言語も価値観も変わる。
ここがどんな場所なのかはわからないが、言葉が通じるはずもない。
何人もの人々を助け、そのたびに会話を試みてみたものの、これまでの人生で一度も聞いたことのない言語だった。
もちろん、相手にとっても同じだったのだろうが……。
しかし、身振り手振りを交えた意思疎通によって情報を集めた結果、中立都市アルカディアでは、それぞれの民族固有の言語とは別に、共通語が使われていることがわかった。
アルカディアは中立都市というだけあって、多くの種族が共に暮らす共同体になっているようだ。
そのため、都市の中や周辺地域で通じる共通の言語が必要だったのだろう。
もっとも、多くの種族といっても、今まで人間以外の種族を見たことはない。
そもそも、人間以外の種族なんて本当に存在するのだろうか。
これまでは、中立都市へわざわざ足を運ぶ理由も必要もなかった。
けれど……。
小さなため息が漏れた。
正直なところ、怖いという気持ちもないわけではない。
今の生活では、飢えや喉の渇きに苦しむこともない。
以前の暮らしとほとんど変わらないほど、住居の設備も整っている。
わざわざ何が起こるかわからない都市へ行く必要があるのだろうか。
しかし、余るどころか腐り始めている野菜や穀物。
米のような重要な作物も栽培したいが、一人では限界がある。
「…………」
そういえば、誰とも会話ができないせいで、ほとんど言葉を発していない。
「このままだと、言葉まで忘れてしまいそうだな……」
どうやら、まだ言葉は忘れていないらしい。
それだけは幸いだった。
中立都市アルカディアについては、あまりにも情報が足りない。
あそこで、自分が育てた穀物を売ることはできるのだろうか。
貨幣はどのように使われ、どんな仕組みで流通しているのか。
そもそも、何事もなく都市へ入れるものなのだろうか。
迷宮の外へ出た途端、数々の危険にさらされる可能性は?
都市そのものにも、どんな危険が潜んでいるかわからない。対策はどうする?
「…………」
頭に浮かぶ数々の危険は、農園を離れて中立都市へ行くだけで生じる、現実的な問題ばかりだった。
今余っている作物は、そのまま堆肥にしてしまえばいい。
そうすれば危険にさらされることも、面倒事に巻き込まれることもない。
しかし……。
ここに農園を作り、家を建て、倉庫を作り、水路や水道まで整備した。
一人で一生を過ごし、静かにこの世を去るつもりなら、いったい何のためにこれほどの設備を作ったのだろう。
昔から一人でいるのが好きで、他人との交流をできるだけ避けて生きてきた。だが、社会の中で自ら孤独を選ぶことと、何もない森の中で孤独を選ぶことは違うのだと思う。
正直に言えば……。
これは、寂しさだった。
誰かと一緒にいたいという欲求……。
「……行ってみよう……」
自分の声かどうかもわからないほど、小さな呟きが漏れた。
今の状況に甘んじているのはよくない。
何か新しい環境への変化と、情報が必要だ。
中立都市へ向かう道筋は、以前から徹底的に調べてある。
あとは行くだけだ。




