第 3 章 新しい世界 (01)
中立都市アルカディアでは、迷宮は「死の迷宮」、あるいは「地獄の迷宮」と呼ばれている。
一度足を踏み入れれば、生きて戻ることも、死体となって運び出されることもない。
そんな場所として知られているからだろう。
その迷宮の中を、一人の女性が歩いていた。
本来なら戦いに使うはずの剣を杖代わりにして、どうにか足を前へと運んでいる。
その足取りに力はなく、顔を上げることさえできない。
ただ足元の地面を見つめながら、歩き続けていた。
「…………」
この迷宮で道に迷ってから、いったい何日が過ぎたのだろう。
最後に食事をしたのがいつだったのかも思い出せない。
どこまで進んでも、果てしなく森が続いている。
確かに、遠くに見える川を目指して歩いているはずなのに、いつまで経っても川へたどり着くことができなかった。
助けを求めて叫ぶ力すら残っていない。
喉はすっかり乾ききり、声を出すことさえできなかった。
このまま死ぬのだろうか。
国の力が及ばず、ただ虐げられるしかない人々のために。
国を守るために....
あれほど修練を重ね、己を鍛え続けてきたというのに、こんなにもあっけなく死んでしまうのだろうか。
手から力が抜け、杖代わりにしていた剣が地面に落ちた。
そして、その場にゆっくりと崩れ落ちる。
「……う……うぅ……」
自分の口から漏れた声が、いったい何を意味しているのかさえわからなかった。
それでも、一つだけわかることがあった。
もうすぐ、死が訪れる。
少しずつ瞼が閉じていく。
すべてが静まり返り、穏やかな静寂が訪れた。
ああ……。
これが、死を迎える瞬間なのか。
決して長く生きてきたとはいえない年齢だった。
それなのに、こうして迎える死が不思議なほど穏やかに感じられることが、どこか奇妙だった。
その時だった。
何かが自分の身体を揺さぶっているような感覚があった。
しかし、目を開ける力も残っていない。
きっと死の間際に見る幻覚なのだろう。
ところが。
再び身体が揺れる感覚があり、誰かの声が聞こえてきた。
何を言っているのか、まったく理解できない言葉だった。
誰かが自分の身体を抱き起こしている。
その直後、口元に冷たい液体が触れた。
頭で考えるより先に、身体が反応した。
唇を濡らしていた液体が、口の中を通って喉へと流れ込んでくる。
その瞬間、死を迎えようとしていた身体に、再び命が戻ってくるような気がした。
礼儀も作法も忘れ、ただひたすら水を飲み続けた。
いや、吸い込むように飲んでいた。
突然、激しく咳き込んだ。
あまりにも急いで飲みすぎたのだろうか。
「ゴホッ、ゴホッ!」
呼吸は苦しかったが、身体に水分が行き渡るにつれ、少しずつ意識がはっきりしてきた。
「はぁ……はぁ……」
荒い息を繰り返しながら、自分が誰かに上半身を抱きかかえられていることに気づいた。
陽の光が眩しく、顔はよく見えない。
それでも、相手が人間族であることはわかった。
「助けて……くださった……のですか……?」
問いかけても、男性と思われる相手は何も答えなかった。
男性は自分を支えていた腕を離すと、背負っていた鞄を下ろし、何かを取り出し始めた。
それは銀色に輝く、小さな丸い容器のようなものだった。
もう一つの透明な容器には水が入っており、それをこちらへ差し出してくる。
震える手で受け取り、今度はゆっくりと水を喉へ流し込んだ。
口から細い息が漏れる。
容器の水をすべて飲み干した頃、男性は銀色の小さな容器と、匙のようなものを差し出した。
容器の中には黄色い粒が入っており、どこか甘い香りが漂っていた。
それを受け取ったまま動けずにいると、男性も同じ銀色の容器を手に取り、匙で黄色い粒を食べ始めた。
そして、そっと微笑んだ。
その姿を見て、自分も同じように匙を手に取り、口へ運んでみた。
「…………」
甘い。
最初は冷たく、少し硬い感触がした。
けれど噛めば噛むほど、甘い味が口いっぱいに広がっていく。
気がつけば、決して少なくない量を夢中で食べ尽くしていた。
男性は鞄の中から同じ色の容器を取り出し、再び差し出してくれた。
生まれてから、これほど甘く美味しいものを食べたことがあっただろうか。
いや、見たことさえなかった。
この世に、こんなにも美味しい食べ物が存在していたなんて。
黄色い粒の入った容器を三つも食べ終えた頃、ようやく目の前の男性の姿をはっきりと見ることができた。
黒い髪に、黒い瞳。
どこか冷たい印象を受ける顔立ちだった。
けれど、かすかに微笑んでいるようなその表情からは、優しさと温かさが感じられた。
「ありがとうございます……。あなたのおかげで助かりました……。このご恩を、どうお返しすれば……」
「…………」
こちらの言葉に、男性は困ったような表情を浮かべ、自分の唇に触れる仕草を見せた。
言葉が通じないのだろうか。
それなら。
「あの……もしかして、アルカディアの共通語はおわかりになりますか?」
しかし、共通語で問いかけても、男性は特に反応を示さなかった。
故郷の言葉も、共通語も通じない相手。
男性もこちらの言葉が理解できないようで、小さな声で何かを呟いていた。
「困ったな……何を言っているのか、さっぱりわからない……」
聞いたことのない言語だった。
これまで一度も耳にしたことがない。
男性は身振りを交えながら、自分とこちらを交互に指さし、それから別の方向を見つめて何かを話していた。
繰り返される言葉はまったく理解できなかったが、その仕草が意味することは、何となくわかる気がした。
私を、どこか別の場所へ案内してくれるということだろうか。
「私を……迷宮の外へ連れていってくださるのですか?」
そう言いながら、男性とは逆の順番で指をさしてみせた。
「ええ、あなたを森の外まで案内しますよ。言葉は通じなくても、意味は伝わったのかな?」
男性は立ち上がって鞄を背負い、こちらへ手を差し伸べた。
震える手を伸ばし、その手を握った。
男性は互いの言葉が通じないとわかってから、言葉ではなく動作で意思を伝えるようになった。
つないだ手を何度か離して首を横に振り、再び手を握る。
おそらく、絶対に手を離してはいけないという意味なのだろう。
こちらが強く握り返すと、男性は微笑んで頷いた。
こうして、生まれて初めて出会った男性と手をつなぎ、迷宮の森を歩き始めた。
男性はゆっくりと歩きながら、周囲の地形を何度も確かめていた。
時折、何かを取り出して記録をつけながらも、つないだ手を軽く握ったり、こちらを振り返ったりして、何度も様子を確認してくれた。
男性は私の手を握ったまま、まっすぐ歩いているかと思えば、突然方向を変えたり、来た道を引き返したりしていた。
そんな行動を繰り返しながらも、足を止めることなく歩き続けている。
目の前には、薄い霧のようなものが見えることもあった。
突然、周囲が真っ暗になる瞬間もあった。
そうして、どれほど歩いただろうか。
男性はある時、不意に足を止めた。
そして、私と正面の景色を交互に見つめていた。
もしかして、本当に……?
思わず前へ駆け出し、目の前に広がる景色に驚いてしまった。
遠くに、アルカディアが見えていた。
男性は本当に、私を迷宮の外まで連れてきてくれたのだ。
「ど、どうやって迷宮を……!」
自分の言葉が通じないとわかっていながらも、聞かずにはいられなかった。
迷宮に入れば、誰一人生きて戻ることはできない。
生還した者もいなければ、遺体を見つけることさえできない。
それなのに、目の前の男性はいったいどうやって迷宮を抜けてきたというのだろう。
男性は私の肩を軽く叩くと、指で下の方を示して頷いた。
あちらへ下っていけばいい、という意味なのだろう。
そして、水の入った容器と黄色い果実をいくつか手渡してくれた。
何かの果実のようで、触れると柔らかかった。
私がアルカディアの方を呆然と眺めていると、男性は踵を返し、再び迷宮へ向かって歩き始めた。
「あ……待ってください!このままお帰しするわけにはいきません!」
歩き去ろうとする男性の腕をつかんだ。
男性は相変わらず何も言わなかったが、少し驚いたような表情を浮かべていた。
何を言えばいいのかわからなかった。
けれど、命の恩人をこのまま行かせるわけにはいかなかった。
「私は、帝国の……」
自分の名前と所属を明かそうとした。
しかし、互いの言葉が通じないことを思い出し、口をつぐんでしまった。
「…………」
男性はしばらく私と目を合わせた後、アルカディアの方を指さした。
そして、そのまま背を向けて歩き始めた。
「少し……待って……」
アルカディアの方へ目を向け、それから再び男性を見た。
けれど、その姿はすでに少しずつ遠ざかっていた。
「…………」
女性はしばらく迷宮の方を見つめていた。
そして、やがてアルカディアへ向かって歩き始めた。




