第 3 章 新しい世界 (03)
これまで、迷宮の外へ出たことは一度もなかった。
新しい世界へ転移したのか、それとも次元を越えて移動したのかはわからない。だが、あの巨大な樹を見てから、すでに一年以上が過ぎている。
いろいろな出来事や事件もあったが、無意味だったとは思わない。
それでも、今こうして迷宮の外へ向かって歩いていると、気持ちは複雑だった。
本当に行ってもいいのだろうか。
わざわざ行く必要があるのだろうか。
「…………」
小さくため息をつき、後ろの荷物運搬用の荷車に積んだ野菜や穀物を見やった。
多すぎるわけでも、少なすぎるわけでもない、中途半端な量だ。これをどうすればいいのだろう。
言葉は?
いっそ引き返そうか?
しばらく足を止め、迷宮の方を振り返った。
まるで故郷を離れ、遠い土地へ旅に出たような気分だった。
それに、まだ誰とも出会っていない。
迷宮の近くだからだろうか。
あれこれ考えすぎて、頭が痛くなりそうだ。
歩く速さも、普段よりずっと遅い。
このまま都市へ行ってもいいのだろうか……。
気がつけば、背後の迷宮は少しずつ遠ざかっていた。
頭では行きたくないと思っているのに、足はそのまま都市へ向かっている。
その時だった。
迷宮とは反対の森の方から、何やら騒々しい音が聞こえ始めた。
「…………」
どうしようかと一瞬考えたが、今から身を隠すには遅すぎた。
音の正体は馬によく似た動物らしく、その背には白い鎧をまとった人々が見え始めた。
槍や盾、剣などで武装した五人ほどが、馬に似た動物に乗って後ろから近づいてくる。
五人とも鎧に兜まで身につけているため、人間なのかどうかもわからなかった。
彼らは徐々に速度を落とし、ゆっくりと近づいてきた。
先頭の人物が兜の面を上げ、右腕で胸を二度叩く仕草をした。
そして何かを話しかけてきたが、理解できなかった。
「ああ、共通語ならわかりますか? この近くにお住まいですか?」
共通語。
話の全体はわからなかったが、「共通語」という単語と、「近く」「住む」といった言葉は聞き取れた。
「はい、共通語……近く、住んで……います」
久しぶりに、人と会話を始めた瞬間だった。
共通語は最初こそ複雑に感じられたが、調べてみると、その名のとおり、いくつかの簡単な単語を組み合わせて会話するような特徴があるらしい。
名詞や代名詞、形容詞といった複雑な説明抜きに、発音を頼りに言葉をつないでいくような感覚だろうか。
知っている単語は少ない。それでも聞き取れた言葉を頼りに、共通語が少しわかることと、この近くに住んでいることを伝えてみた。
先頭の男の後ろにいた二人が、荷車に積まれたものを見て指をさしている。
何なのか、と尋ねているようだ。
「あ、共通語、苦手……農園、作った、野菜」
何人かは驚いた様子を見せたが、特に問題はないらしく、頷いて兜をかぶり直していた。
「アルカディアに入れば、共通語を無料で教えてくれる場所もありますし、手引きも配られていますから、利用するといいですよ。それに後ろのは農作物のようですが……いったい、どうやって?」
「……あ……」
先頭に立つ、隊長らしい男の話はかなり長かった。
聞き取れたのは、「共通語」「配布」「作物」くらいの単語だけだった。
誰が言ったのだったか。
異世界には、自動で通訳してくれる道具や魔法が存在するのだと。
現実とは、こういうものだ。
こちらが話を理解できていないと気づいたのか、彼らは都市へ向かう方向を教えると、再び前方へ駆けていった。
荷車に積まれた農作物を見て、ずいぶん驚いているようだった。
通行料を払えと言われるのではないかと内心ひやひやしていたが、そんなことにはならなかった。
言葉はほとんどわからなかったものの、いかにも屈強そうな彼らの口調や雰囲気は、意外にも穏やかだった。
教えられた道を進んでいくと、遠くに都市が見え始めた。
都市と呼ばれるだけあって、かなりの規模に見える。
遠くから眺めていた時とは、また違った印象だった。
「…………」
もう、これ以上引き返すわけにはいかない。
周囲には案内板が現れ、道もいくつかに分かれ始めていた。
中立都市の周辺に、ほかの国や都市があるのかどうかはわからない。
けれど、迷宮を含めたこの一帯には、意外と多くの人々が暮らしているのかもしれない。
大きな川や湖が見え、先ほど出会った騎士のような人々が行き来している姿もあった。
中立都市アルカディア。
かなり高い城壁があり、その壁には大小さまざまな入口が設けられている。
都市の内部へ通じているらしい、大きな門が見えてきた。
その前には、都市へ入ろうとする人々の列ができていた。
先ほどの騎士たちと似ているが、鎧の色が違う。
さっきは白かったのに、今度は青いようだ。
どうやら、役割によって鎧の色が異なるらしい。
前に並んでいた人々は検問を受け、一人ずつ都市の中へ入っていった。
飛行機に乗って旅行したことはないけれど、入国審査を待つというのは、こんな気分なのだろうか。
「…………」
ようやく自分の順番が回ってきた。
係員は何やら熱心に話しかけながら、後ろの荷車を見ている。
今度は何を言っているのか、まったくわからなかった。
話す速度がかなり速く、口もあまり大きく開かないせいだろうか。
「あ……共通語、苦手……まだ、よく……」
長い前髪で顔がよく見えない係員は、しばらく頷くと、入口の右側にある道を指さした。
「共通語がわかるようになる手引きがある場所です。あちらで学んでから入ってください」
今度は口を大きく開き、一語ずつはっきりと発音してくれたので、半分ほどは理解できた。
門を通って都市へ入っていく人も多いが、右側にあるかなり大きな建物にも、人々が盛んに出入りしていた。
そして、今になってもう一つ、不思議なことに気づいた。
自分と同じ黒髪の人間が、ほとんど見当たらない。
金髪で背の高い男性や女性、赤い髪をした気の強そうな女性、どこか変わった肌の色をした人。
それだけではない。
動物のような耳と尻尾を持つ女性たちの姿まで見える。
「…………」
何と言えばいいのだろう。
「まあ……そういうこともあるか……」
そう呟きながら、共通語を学ぶための建物へ入っていった。
建物はかなり大きかったが、学生に言葉を教える学校のような場所ではなかった。
どちらかといえば図書館に近い。
たくさんの本が並び、それを読んだり、周囲の人々と話をしたりしている姿が見える。
一角では、案内板のようなものを掲げ、熱心に話している人もいた。
ただ、その顔は人間のものではなく、まるで動物のようだった。
案内板には見慣れない文字と数字が書かれている。
そういえば、この世界の貨幣についても何も知らない。
共通語も大切だが、そちらも重要な問題だ。
建物に入る前には列ができていたのに、中へ入ってしまうと、そうした決まりはないらしい。
これでは、誰に尋ねればいいのかもわからない……。
とりあえず、人が多く集まっている方へ行ってみた。
壁際には、「共通語」という単語が書かれた本が並べられていた。
お金を払う必要があるのだろうか.
けれど、ほかの人々は一冊ずつ手に取り、そのまま持ち出している。
それほど厚くはないが、薄い同人誌ほどでもない本を一冊取ってみた。
中には共通語の基本事項と、都市についての情報が記されているようだった。
文字は読めない。
それでも親切なことに、絵を使った説明が添えられているので、何となく内容を理解できそうだった。
人の多い場所はどうにも苦手だ。
共通語の入門書と、都市の絵が描かれた本をもう一冊手に取り、入口へ向かった。
外へ出た瞬間、荷車をそのまま置いてきたことを思い出した。
幸い、盗まれてはいなかった。
ただ、尖った耳や尻尾を持つ男女が二、三人、珍しそうに荷車を眺めていた。
近づいて引き綱を握り、動かそうとすると、すぐに話しかけられた。
何を言っているのかわからない。
「だから、もう少しゆっくり話してみろって。どうしていつもそんなに早口なんだよ? 全然わからないじゃないか!」
「…………」
「ああ、悪い悪い。なあ、兄ちゃん。これ、どこで買ったんだ? それとも自分で作ったのか?」
相手は荷車を指さし、両手で槌を振るって何かを叩くような仕草をした。
これを自分で作ったのか、という質問だろうか。
「ええと……自分で、作っ……」
言葉が出てこない。
そうして口ごもっているうちに、動物の耳と尻尾を持つ人々は、そのまま立ち去ってしまった。
「ふぅ……」
ため息が漏れた。
これで、どうやって作物を売ればいいのだろう。
もう帰ろうか。
またしても、帰りたいという気持ちが湧き上がってきた。
農園で作物を育てながら、静かに暮らしていれば、それでいいじゃないか。
わざわざ……。
そんなことを考えながらも、周囲を見渡した。
外から眺めた時には大きく壮麗な都市に見えたのに、実際に足を踏み入れると、どこか違和感があった。
「…………」
荷車を引きながら、都市の中へ続く道をゆっくりと進んでみた。
人間とは異なる種族の姿が、今でははっきりと見える。
そして、悟った。
初めて巨大な樹を目にしたあの場所も、今立っているこの場所も、自分が以前暮らしていた世界ではないのだと。
こみ上げるため息をぐっとこらえ、周囲を見回した。
まずは共通語と、アルカディアの案内書らしいものを、もう少しきちんと理解したかった。
日が沈むまでには、まだ時間がある。
公園と呼んでいいのか微妙な場所だったが、人はそれほど多くないようだ。
荷車を引いて、ベンチのある方へ移動した。
今いるのは、中立都市アルカディアの入口にあたる区域らしい。
人通りが少ないわけではないが、都市の規模に比べると、どこか静かな印象だった。
ベンチのようなものに腰を下ろし、本を取り出した。
まずは共通語を、ある程度理解することが大切だ。
「…………」
一時間ほど経っただろうか。
都市の案内書らしい本も、二度ほど繰り返して読んでみた。
共通語は意外にも簡単な構造になっていて、かなり驚いた。
複雑な動詞や名詞をできるだけ少なくし、手話もある程度取り入れられている。まるで口の動きをそのまま言葉にしたような感じだろうか。
だからといって、すぐに流暢に話せるようになるとは思わないが、ある程度の会話ならできそうだ。
もともと外国語の勉強は、実際に会話するのが一番だ。
何日も本にかじりついているより、一文でも実際に話してみた方がずっと役に立つ。
案内書を見ると、市場区域はかなり広い範囲にわたっているらしい。
今いる場所から、もう少し移動しなければならない。
そろそろ腹も減ってきたので、リュックに入れておいた茹でたジャガイモとサツマイモを取り出し、食べながら歩き始めた。
ジャガイモは手軽に食事を済ませるのに最適だし、サツマイモは糖分と水分を適度に補えるので、弁当代わりにはちょうどいい。
歩き続けるうちに、入口は次第に遠ざかっていった。
「…………」
本当に別の世界へ来てしまったのだと、改めて実感し始めた。
そろそろ市場区域が近いのだろうか。
商人たちの声が聞こえ、人の数も次第に増えてきた。
市場というものは、国や世界が違っても、だいたい似たようなものらしい。
客を呼び込んだり、品物を運んだり、値段の交渉をしたりしているような光景が、なぜだか懐かしく感じられた。
通貨の単位はバリス。
一バリスは、以前暮らしていた場所の十円くらいだろうか。
それに、品物同士の物々交換もできるようで、金や銀、宝石のようなものも存在するらしい。
きちんとした店舗を構えた店も多い一方で、地面に品物を並べて商売をしている人々の方が目についた。
服装も清潔とは言いがたく、ひどく疲れているようにも見える……。
「…………」
市場区域を歩いていると、店先や商品に付けられた値札が目に入るようになった。
何を売っているのかはよくわからないが、ほとんどの値札には百バリス、あるいは千バリスを超える数字が書かれていた。
売られている品物はさまざまだが、その多くはあまり状態がよさそうには見えない。
農園で収穫した作物とは、まるで違っていた。
ジャガイモ、サツマイモ、小麦。この三つは農園で育てるのも、収穫して管理するのも比較的楽な作物なのに、ここでは似たようなものさえ見当たらない。
目につくのは、何かの肉や黒い豆、それに初めて見る果物のような、小さな粒ばかりだった。
しかも、その上に付けられた値札には、なんと三百バリスと書かれている。
「…………」
一握りにも満たない肉の塊が、三百バリス。
数つかみほどの小さな粒が、二百五十バリス?
どうやら、今見ている市場は普通の場所ではないらしい。
情報があまりにも足りない。
それに……。
空を見上げると、太陽が少しずつ傾き始めていた。
引いて歩いている荷車も、今となっては負担だった。
いっそ穀物はリュックに入れて来た方が楽だったかもしれない。
もっとも、傷む前の作物をほとんど積んできたのだから、仕方がなかったのだが。
目の前の市場区域は、奥へ進めば進むほど、何やら複雑で暗い雰囲気になっていく。
食料や食材と呼べるかどうかも怪しいものが、高値で売られているのは確かなようだ。
しかも、何を話しているのかはわからないが、互いの胸ぐらをつかんで争っている人々や、商人に買い物ではなく何かを頼み込んだり、物乞いをしたりしているような人々も大勢いた。
あんなにひどい状態の品物が高値で売られ、それでも必死になって買おうとしている。
「…………」
中立都市アルカディアでは、食糧難をはじめ、必要とされる量に対して物資の供給が大幅に不足しているようだ。
情報があまりにも足りない。
振り返って荷車を見た。
ここまで市場区域を歩いてきたが、ジャガイモやサツマイモ、小麦、タマネギ、ネギに似たものは見当たらなかった。
ほとんどが、何の作物なのかもわからない初めて見るものばかりだ。
これは下手に行動すれば、相当な問題になるかもしれない。
こんな状況で、この場所には存在しなかった作物を取り出して並べる?
そう考えながら周囲を見回しているうちに、都市は少しずつ夕暮れの姿へと変わり始めていた。
「…………」
とにかく……。
帰ろう。
迷宮での生活には慣れているルードですが、人間社会の常識となると、どうやら話は別のようです。
初めて訪れるアルカディアは、彼にとってどんな街なのでしょうか。
これからもルードの旅を温かく見守っていただければ嬉しいです ^ ^




