第 1 章 見知らぬ森
「ありえない……」
距離はざっと見積もっても三十キロ以上はある。
それなのに、あれほど大きく、しかも光を放っている木がここからでも見えるということは、実際にはどれほど巨大なのだろう。
ここまで来るだけでも、かなりの距離を歩いたはずだ。
もう、野営していた場所はどこにも見えない。
だが、どう考えてもこの一帯は普通ではなかった。
確かに前へ進んでいたはずなのに、いつの間にか通った道へ戻っていたり、同じ場所を延々と回っていたりする。
今の状況は、どう考えても夢ではない。
紛れもない現実だ。
背負っているリュックが、時間が経つにつれて少しずつ軽くなっている。
持っていた食料と水が底をつき始めているのだ。
「…………」
慎重に歩を進める。
目に入る木や岩など、目印になりそうなものをできるだけ記憶しながら歩いていた。
今は、あの巨大な木が見える方角を目指している。
そのとき、ふっと風が吹き抜けるような感覚があり、目の前に霧のようなものが現れた。
「ふう……」
思わず深いため息が漏れた。
目の前に広がっていたのは、ついさっきまで歩いていた森ではない。
一寸先さえ見通せないほど深い断崖だった。
身を乗り出して下を覗こうかと思ったが、すぐにやめた。
代わりに右手のかなり遠くには、巨大な滝が見えている。
今の状況では食料も重要だが、それ以上に水が必要だった。
手持ちの水も、もうほとんど残っていない。
仕方なく引き返す。
一度戻り、まだ印をつけていない場所へ改めて向かうしかなかった。
顔を上げて空を見る。
まだ昼間ではあるが、そろそろ日が傾き始める頃だ。
ここはまるで、迷宮か迷路のようだった。
確かに目標が見える方向へ真っ直ぐ進んだはずなのに、辿り着くのはまったく別の場所だったり、反対側に出たり、元いた場所へ戻っていたりする。
何か空間そのものが歪んでいて、まともに道を進めない――そんな感じだ。
少なくとも日が沈む前に水を確保し、テントを張らなければならない。
リュックの重みで凝った肩を一度ほぐし、再び歩き始めた。
外はすでに真っ暗になっていた。
結局、昼間に見えた滝までは辿り着けなかったが、途中で進路を変えたことで、驚くほど澄んだ川辺へ出ることができた。
対岸までは三十メートル以上, 川幅もそうだが、流れも到底渡れるような速さではない。
仕方なく川から少し離れた小さな木々の間にテントを張り、その上から細い枝などを被せ、外から目立たない程度に偽装してから、ようやく中で足を伸ばした。
食べ物といえば、滝へできるだけ近づこうとしていた途中で拾った、何種類かの木の実だけだ。
横になったまま、そのうちの一つを持ち上げてゆっくり眺める。
形は苺に似ているが、色は青い。
意外にも甘い香りがする。
だが、すぐに口へ入れる気にはなれなかった。
今のようなサバイバル状況で腹を壊せば、それだけで致命傷になりかねない。
常備薬は持っている。
だが食料が乏しく、安心して休める拠点すらない以上、腹を抱えて寝込んでいる余裕などなかった。
これ以上手にしていたら、空腹に負けて食べてしまいそうだったので、苺のような実を元の場所へ戻した。
少し身体を起こし、鞄から手帳とスマートフォンを取り出した。
スマートフォンは昼間、意識して電源を切っている。
予備バッテリーはあるが、節約できるものはできるだけ節約しておきたい。
電源を入れると、しばらくして見慣れた画面とアプリが表示された。
まず、通話とインターネットは――。
「…………」
駄目だ。
アンテナ表示には一本も立っていない。
初日から変わらず、通話もインターネットも使えない。
当然、GPSも機能しない。
またため息が出そうになった。
やはりここは、数日前までキャンプをしていた場所とは違うのか。
遠くに見えた、光を放つ巨大な木。
現実の世界で、あんなものを見たことはない。
頭を振り、再び横になる。
残っている食料はカップ麺が三つ、エネルギーバーが五本、それにピーナッツと飴が少し。
幸い、水だけはいくらでも確保できそうだ。
問題は、それを入れておく容器があまりないことだ。
手を伸ばして水の入ったパックを取り、味わうようにゆっくりと飲む。
腹が減っているせいだろうか。気づけばかなりの量を一気に飲み干していた。
「はあ……」
安堵の息が漏れる。
頭の中はとても安心できる状況ではないが、冷たい水を身体に入れたことで、肉体の緊張だけは少し解けたらしい。
包装が少し開いていた小さな飴を手に取り、そのまま口へ放り込んだ。
大切に食べなければならない。
できるだけ長く甘さを味わい、頭に糖分を送る。
全身に糖分が染み渡っていくような気がした。
瞼が少しずつ重くなってきたが、今日やるべきことはまだ残っている。
手帳を開き、ペンを握った。
それほど厚くない手帳は、すでに半分ほどが文字で埋まっていた。
左手首の時計を基準にすれば、移動を始めてから一週間が経っている。
時計の時刻と外の様子は一致していない。
時計は午前十時を示しているのに、外は真っ暗な闇に包まれていた。
再びスマートフォンの録音を開始し、上体を起こして手帳に今日の記録を書き始めた。
「巨大な木を目指して移動を始めてから一週間が経過。この一帯は何か空間がおかしい。普通に歩いているだけなのに、まったく別の場所へ出たり、元いた場所へ戻されたりする奇妙な現象が起きている。幸い、この現象には一定のパターンがある。それさえ把握できれば、同じ場所を延々と回り続ける必要はない」
喉が渇き、もう一度パックを持ち上げて一気に飲み干す。
普段なら、こんなふうに一度にこれほど多くの水を飲むことはない。
だが今は、すぐ目の前にいくらでも飲める川がある。空腹をごまかす意味でも、水だけなら惜しむ必要はなかった。
「日が沈む前に、巨大な木へ向かうのは断念。確認した限り、あの木へ近づけば近づくほど道に迷いやすくなり、先へ進めない現象が強くなるのは間違いない。現在地は、元のキャンプ地からおよそ三十キロは離れていると推測」
瞼が落ち始める。
スマートフォンの電源を切り、手帳の内容を読み返すこともなく床に置いた。
目を閉じたまま、今日一日の行動をもう一度頭の中でなぞる。
そして、自分がなぜここにいるのかを改めて考えていた。
たぶん、地震だった。
時間は明け方だったと記憶している。
突然、地震のような激しい揺れが起こり、それと同時に、火花が弾けるような奇妙な現象が見えた。
山でキャンプをしている最中の地震ほど危険なものはない。
逃げ場もほとんどない最悪の状況の一つだ。
テントの上に大きな岩でも落ちてきたら。
あるいは、土砂崩れでも起きたら――。
自分にできることなど何もなかった。
ただ寝袋を頭まで被り、普段は信じてもいない神に祈ることしかできなかった。
どれほど時間が経ったのだろう。
寝袋から這い出し、テントの外を見たとき。
最初に目に入ったのは、眩しいほどの光だった。
幸い、地震の衝撃でテントの中の物が床を転がってはいたものの、テントそのものに大きな損傷はなく、無事だった。
入口のファスナーを慎重に下ろしながら、その光の正体を窺う。
何か巨大な照明でも当てられているのだろうか。
まるで真昼のように明るい。
「あ……」
目の前に広がる光景。
左手首の時計を確認する。
時刻は午前四時。
いくら山の中とはいえ、夜が明けるにはまだ早い。
それなのに、目の前には眩しい光が広がり、その遥か向こうには巨大な木が見えていた。
まるで自ら光を放っているかのような、途方もなく大きな木だった。
周囲を見回す。
テントを張った場所と、二十メートルほど先にある水場とトイレ、それに管理人用の小さな倉庫は残っている。
だが、それ以外は今まで見ていた景色ではなかった。
生まれて初めて見る場所であり、どこかで見た覚えすらない。
一人だったことは、むしろ幸運だったのだろうか。
今の状況をどう受け止めればいいのか分からない。
反射的に周囲を見回した。
危険な獣がいるかもしれない。余震が起きる可能性もある。
今は考え込むより、動くべきだ。
そう判断すると、すぐにテントへ戻り、荷物をすべて鞄へ詰め込み、テントを畳み始めた。
荷物をすべてリュックに収めると、目の前に見える水場と倉庫へ向かった。
蛇口をひねってみたが、水はほとんど出ない。
倉庫には鍵が掛かっている。
それほど大きな倉庫ではないが、昼間は管理人が使っていた場所だ。何かしら物資があるはずだった。
一刻も早くここを離れたかったが、今は食料と水を確保することも重要だ。
拳より少し大きな石を拾い上げる。
一度周囲を確認し、何もいないことを確かめてから、ドアノブ付近へ強く振り下ろした。
鈍い音が響いたが、まだ扉は開かない。
息を整え、もう一度周囲を見回す。
気味が悪いほど静かで、何も見えない。
今度は扉が壊れるまで、何度も石を叩きつけた。
静まり返った森の中に、石が扉を打ち壊す音だけが響く。
やがてドアノブが下へ落ち込んだ。
そのまま強く引くと、鍵の掛かっていた倉庫の扉が開いた。
倉庫の中にはカップ麺がいくつか、小さなペットボトルの水が三本ほど、それに未開封のエネルギーバーの束があった。
元々持っていた食べ物は、ほとんど残っていない。
昨日がキャンプ最終日だったため、朝食は下山してから店で済ませるつもりで、手持ちの食料をほぼ食べ切っていたからだ。
倉庫にあった物資をすべて確保し、足早にその場を離れる。
地震が起きた場所に留まり続けるのは自殺行為だ。
できるだけ早く別の場所へ移動しなければならない。
だが――。
振り返り、見慣れていたキャンプ場を見つめた。
そこだけは確かに自分の知っているキャンプ場だった。
けれど今、そのキャンプ場はまったく知らない土地の中に存在している。
ここがどこなのか。
なぜ自分がこんな場所にいるのか。
何一つ分からない。
それでも、生きるためには動かなければならない。
まず食料と水を確保し、初めて見るこの土地の状況を把握することが先だ。
下り坂を慎重に進みながら、遥か遠くに見える巨大な木を見つめた。
ひとまず、あの木がある場所を目標にして移動する。
状況次第ではここへ戻ってくる可能性もある。周囲の地形も把握しておく必要があった。
手帳とスマートフォンを取り出す。
スマートフォンには当然、利用可能な通信表示など何一つ出ていない。
すぐに電源を切り、手帳にキャンプ場周辺の特徴と地形を記録すると、再び歩き始めた。




