撤退
闇の奥のつぶらな目が、ゆっくりと持ち上がった。
地底の川からずるずるとはい出てきたのは、長大な影だった。
蛇のように長い胴体。
氷の結晶のように透き通った鱗が放つ冷気が、空間に満ちる。
鼻の奥がつんと痛くなる冷気。冬の夜に吹いてくる風を思い起こさせる。
坑道の壁から、霜がぱきぱきと音を立てて結晶し始めた。
ミラは、立ち止まった。
パーティから数歩ぶん離れてしまっている。コーリュウの視線が彼女に集まっていた。
「ミラ! こっちに来るっす!」
ガロンが、ライナーの手を振り払って叫んだ。
けれど、ミラは立ち止まったまま、動けない。
コーリュウの視線に、射抜かれてしまっている。
ガロンが、魔法使いの杖を捨てた。
徒手空拳になって、走った。
「(ガロン、魔法使いやめたっす!)」
メイの声が、ひっくり返る。
「(わかってたっす、ガロン先輩は最初から、バトルマスターっす!)」
ノラは、両手剣の柄を握り直した。
ガロンの身体が、深く沈んだ。
地面を蹴った。
踏みしめた石が、軽くひび割れた。
ガロンの姿が、消えた。
次の瞬間、ミラの目の前にガロンが立っていた。
コーリュウと、ミラの間に。
両手を広げて、ミラを背中に庇っている。
「下がるっす、ミラ」
「……」
「下がるっす!」
ミラは、ガロンの背中を見た。
怒りの涙が、まだ頬に残っていた。
けれど、震えは止まった。
ガロンは、両手を広げたまま、コーリュウを見ている。
ライナーが、黙ったまま、義脚で地面を蹴った。
ぴょん——ガロンとミラの、後方に跳んだ。斧を構える。
ガロンを盾役として、その援護位置。
冷気が、もう一段強くなった。
霜が、レナの足元まで結晶を伸ばしてくる。ぱき、ぱき、ぱき、と乾いた音が続いている。
レナは、ノートを胸に抱えたまま、立ち尽くしていた。
ペンを持つ手が震える。
けれど、エンジニアの本能が、勝手に動いた。
「フェネク、定格、推定して」
『了解しました、レナ。携帯灯の魔素センサーからの逆算で、誤差±15%です』
「お願い」
数秒の沈黙。
『……定格、ご……』
「ご?」
『58.9キロワットです』
レナの息が、止まった。
ダメだった。
成長し過ぎている。
民営インフラの発電機に使える上限、定格50kWを超えてしまっていた。
仮に討伐に成功したとしても、発電設備を作ることができない。
計画の立て直しが必要だ。
レナはヨナスを見た。声を張った。
「ヨナスさん!」
「ん」
「定格、58.9キロワット」
「……」
「強すぎます! 討伐を中止してください!」
ヨナスが、ぱっと振り返ってレナを見た。
「レナ」
「は、はい!」
「お前の、計画は」
レナは、一瞬、考えた。
コーリュウの魔石が確保できない。
ダイナモンキーのための、モンスターによる自前電源計画の前提が、崩れる。
代替案を、出さないと。
レナはノートを開いた。手が、震えている。
けれど、書いた。
「……プランBに移行します!」
「ん」
「通常のワイバーン核、複数の発電機を直列に繋いで、臨時の電源を数ヶ月維持します!」
「……」
「その間に別の電源を、確保します! 職人ギルドの共同電源とか、龍脈発電の夜間余剰電力の買い取りとか……!」
「……」
「ダイナモンキーが野生にかえってしまう前に、時間を稼ぎます!」
ヨナスは、しばらくレナを見た。
それから、ふっと軽く笑った。
「……了解した」
ヨナスは、コウリュウの方を向いた。長弓を、構え直す。
「よし。レナ、メイ、ノラ、撤退」
「はい」
「ミラ、お前は」
「……」
ミラは、ガロンの背中のすぐ後ろに立っていた。
真剣な眼差しを、コーリュウに返している。
その目を見たヨナスは、何か思うところがあったらしい。
「ガロンと、俺と、ライナーの、後方支援、頼めるか」
「……はい」
ミラの声は、低かった。
けれど、すでにヒーラーの声に戻っていた。
ミラは、ガロンを見ない。
腰の新調されたベルトの留め金を、指でぱちん、と外した。回復道具の小瓶を、二本、手のひらに握る。
昔のミラに戻っている。ヒーラーの顔をしていた。
ヨナスが続けた。
「メイ、ノラ」
「(うす!)」
二人の声が、ハモった。
「レナを、地下水路の入り口まで、送れ」
「(うす!)」
「(任せろっす!)」
二人は、即座に、レナの両脇についた。軽い動き。
レナはヨナスを見た。
「ヨナスさん」
「ん」
「ガロンさんと、ミラさん、ライナーさんを……」
「頼まれた」
レナは頷いた。
ノートを、胸に、もう一度、抱え直した。
それから、走り出した。
冷気が、背中を、追いかけてきた。
***
メイとノラに挟まれて、レナは坑道を走っていた。
携帯灯の青い光が、走るたびに揺れる。レナの足音が、二人の足音と揃わない。
「(レナさん、もう少し、っす!)」
「(出口、見えてきた、っす!)」
冷気が背中から追ってくる。坑道の壁が、少しずつ白くなっている。
ノートが胸に擦れている。ヘルメットの紐が、首の下で軽く跳ねていた。
「(っす!)」
「(っす!)」
二人の声が、坑道に短く反響した。
頭の上を、何かが、通った。
ぶおっ——
大きな影。風圧。
レナは、足を止めた。
メイとノラも、止まる。三人で頭上を見上げた。
四メートルの装甲ゴーレム。
胸に青く光る、擬似精霊石。
肩に革のコートの男が乗っている。
バルトと、ヘルマンだった。
「(え、何、っすか)」
「(ゴーレム、めちゃくちゃ跳んだ、っす)」
「(え、ゴーレムって、跳ぶっすか。岩の塊なのに?)」
バルトは、全身に青い光をまとい、坑道の天井ぎりぎりを、低く滑空していた。
油圧シリンダーの、しゅう、という音が、頭上を追い越していく。
コートの裾がはためいて、レナの頭上を過ぎた。
「……親方!」
レナは、叫んだ。
ヘルマンは、バルトの肩から、ちらっとレナを見た。
「まだ奥に、三人います!」
「……ああ」
それ以上は、何も聞かなかった。
バルトの背中が、坑道の奥へ消えていく。
レナは、立ち尽くしていた。
頭上を通った風圧の余韻が、まだ、頬に残っている。
メイが、両手剣を、肩から下ろした。
「(カッコ良かった、っす)」
「(カッコ良かったっす)」
レナは、頷くしか、なかった。
頷いて、頷いて、もう一度頷いた。
頬を、雫が、伝った。
ノートを、胸に、抱えたまま。
メイとノラが、ちらっと、顔を見合わせた。
「(あー、っす)」
「(うす)」
二人とも、それ以上は、何も、言わなかった。
両脇に立ったまま、レナの呼吸が、整うのを、待っていた。




