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レナ・カーシュタイン

 レナは応接室のドアの前まで戻った。ノックを三回した。


「失礼します」


 ドアを押した。

 応接室の中はさっきと同じだった。父が机の向こうに座っている。ヘルマンが机のこちら側に座っている。

 机の上にレナの資料の束が、置かれたままある。


 ただ、空気がわずかに違った。

 ヘルマンはいつもより、わずかに肩の力が抜けて座っていた。父はいつもより、わずかに姿勢がまっすぐだった。

 レナはそれに気づかないふりをした。


「お茶、お持ちしました」


「ありがとう」


「……どうも」


 レナは湯呑みをそれぞれの前に置いた。湯呑みを置く手がわずかに震えた。父もヘルマンも、それを見ていないふりをした。

 レナも自分の席に座った。


「……それで、お父さん」


「ああ」


「他に何か、申し上げることはありますでしょうか」


 レナの声はいつもの、レナの声だった。

 AGマギクラフトの出張所のレナ・カーシュタインの声。プレゼンを終えた後の社員の声。

 父はしばらくレナを見た。それからゆっくり頷いた。


「……いや。私の方からは、これで十分だ」


「はい」


「ヴァイス棟梁にも感謝する。お時間をありがとうございました」


「ああ、こちらこそ」


 ヘルマンが軽く頷いた。それから立ち上がった。レナも立ち上がった。資料を抱え直した。

 資料の一番下にノートが入っていることを、レナは今確かめた。確かめながら、確かめなかったふりをした。


「では、本日はこれで失礼いたします」


「ああ。また近いうちに」


「……はい」


 父が机の向こうから軽く頭を下げた。

 レナも頭を下げた。ヘルマンも頭を下げた。

 応接室を出た。ドアを閉めた。


 ***


 廊下を歩いた。レナとヘルマンが並んで歩く。

 廊下の配電盤の低い唸りが、続いていた。


 ヘルマンは何も言わなかった。レナも何も言わなかった。

 オフィスの玄関を出ると、外はもう夕方になりかけていた。

 電線天蓋の下、雪混じりの風が吹いている。コロナ放電が紫色にちらちら光っている。


「お嬢さん」


「……はい」


「今日はもう、宿に戻れ」


「……はい」


「工房には明日来い」


「……はい」


 ヘルマンは、それ以上何も言わなかった。

 レナは頷いた。


 二人は迷宮都市の十字路で別れた。

 ヘルマンは工房の方向に、いつもの歩幅で歩いていった。レナは宿の方向に、いつもの歩幅で歩いた。

 歩きながら、レナは自分の足音を聞いていた。一歩、一歩、一歩。電線天蓋の下、雪がぽつぽつと肩に積もり始めた。

 レナは、マフラーを首にもう一段巻き直した。


 ***


 宿の部屋。

 ベッドに座った。資料の束を机の上に置いた。一番下からノートを引き抜いた。表紙には何も書いていない。

 開いた。最後のページ。プレゼン用の論点メモが、几帳面な字で書かれている。


「自然遺産保護提案・論点一覧」

「1. ダイナモンキーの文化的価値」

「2. 共存関係の歴史」

「3. 撤去後のリスク」

「4. 文化財指定への移行案」


 レナは、ボールペンを握った。

 ページをめくった。新しいページ。

 ペン先を紙の上に置いた。

 書いた。


「私は、誰だろう」


 書いた文字を、レナはしばらく見ていた。

 ペン先をもう一度紙の上に置いた。その下に、もう一行書こうとした。


「私のお母さんは――」


 書きかけて、止めた。

 ペン先が紙の上で止まったまま、しばらく動かなかった。


(……書いたら、もう、戻れない)


 レナは、ペンを置いた。


「私のお母さんは――」の続きは、空白のまま残った。


 ベッドに仰向けに倒れた。

 部屋の天井を見上げた。電球が一つ、ぶら下がっている。ぼやけた橙色の光。


 お父さんは私を愛して育ててくれた。それは本当のことだ。

 でも、お父さんは知らない。赤ん坊を抱いていたメスが何だったのか。私が何なのか。


 レナは目を閉じた。


 自分に生えた尻尾。あれは突発的な変異じゃなかった。


 レナは目を開けた。天井の電球がぼやけて見える。

 涙は出なかった。

 出るほど、まだ自分の中で何が起きたのかわかっていなかった。


 お父さんはダイナモンキーに命を救われた。お父さんはダイナモンキーがいなければ、私を見つけられなかった。

 でも、お父さんは無電線化を推進している。


 お父さんの中で、その二つは矛盾していない。

 ダイナモンキーを自然に返すことは、正しい事だと信じている。

 お父さんは悪い人じゃない。人を死なせない技術を作るために、人生を捧げてきた人だ。私を安全な世界で育てるために、転移塔を作った人だ。


 でも、その「安全な世界」には、ダイナモンキーはいない。

 レナ・カーシュタインもいない。

 レナは寝返りを打った。横向きになった。


 机の上のノートが視界に入った。「私は、誰だろう」の几帳面な字。その下の空白。


(……書かないでおく)


(……今は、まだ、書かない)


 レナはもう一度寝返りを打った。仰向けに戻った。


 私は、何ができるんだろう。

 レナはしばらく天井を見ていた。電球がぼやけて、またはっきり見えて、またぼやけた。


 父を動かすことはできそうにない。悪意がなく善意しかない。だから止められない。

 でも――電線は残せるはずだ。


 ダンジョン側のインフラ。ギルマスの管轄。あそこはまだ、誰も撤去すると言っていない。


 ヘルマンさんも「ギルマスに話を通す」と言ったけれど、ギルマスは、ヘルマンさんの口添えでは動かない。


 それなら――私がもう一度、行く。ギルマスのところに。


 レナは起き上がった。


 机に向かった。ノートを開いた。


 ページをめくった。新しいページ。

 ボールペンを握った。書いた。


「電線は、残せるはずだ」


 それだけ書いた。

 書いた文字を、レナはしばらく見ていた。


 ノートを閉じた。机の引き出しにしまった。

 ベッドに戻った。シーツを引き上げた。

 電球のスイッチを切った。部屋が暗くなった。


 窓の外で雪が降っていた。電線天蓋の下、紫色のコロナ放電が、窓ガラスごしにちらちらと見えた。

 レナは目を閉じた。

 明日の朝、ギルドに行く。具体的に何を訴えるかは決まっていない。それは行ってから考える。


 考えるより先に動く。それがレナの、いつもの動き方だった。

 レナは、シーツの中でもう一度寝返りを打った。マフラーが首元からずり落ちた。引き上げ直した。

 窓の外で、雪が降り続けていた。

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