トリー
一件目は、傷病兵舎の近く。
バルトの背中に乗って、夜の街を進んでいく。
レナとフェネクは、バルトの肩のあたりにしっかりとしがみついていた。
湿雪が、レナの肩にぼたぼたと落ちてくる。
電線天蓋の下で、街はいつもより静かだった。
普段の夕食どきの屋台の声も、酒場の声も、今夜はひっそりとしている。
街の住人が、自分の家で息をひそめて、夜が過ぎるのを待っている。
現場に、着いた。
傷病兵舎のすぐ近く。電線がいつもより、深くたわんでいる。
けれど。
電線そのものは、切れていない。
線守ギルドの二人組が、もう先に来ていた。
革のロングコートの肩に雪を積もらせて、長い鉤棒で、電線の上の雪塊を慎重に落としている。
鉤棒の先が雪塊の根元に入って、ぼたっと雪が落ちる。
年配のほうの線守が、バルトの足音に振り向いた。
「ヴァイスさん、今夜も呼ばれましたかい」
「状況はどうだ」
ヘルマンは、バルトをその場に座らせる。レナは、肩からゆっくり滑り降りる。
「通信は鳴ったが、切れちゃいねえな」、と年配の線守が言う。
「たわんで誤検知だ」、と若いほうの線守が、上を見ながら言う。
レナは、かじかんだ手でノートを開いた。
切れていない/誤検知
年配の線守が、ヘルマンの後ろに立つレナに、目を向けた。
「ヴァイスさん、新しい弟子さんですかい」
「会社の人だ」
「ふぅん」
年配の線守は、それ以上は、聞かない。
レナは、軽く頭を下げる。
「あの、ヴァイスさんがつけて回っている新しい装置って、これですか?」と、若いほうの線守が、地面に置かれたヘルマンの道具箱のリアクトルを指さす。
「ああ」
「この区画は、これ入ってますね」、と若いほうの線守が、上の電線を、見上げて、言う。
「ああ」
「今のところ、調子いいですよ。応急でこれをつけたところでは、一本も切れてないんで」
「ふぅん」
ヘルマンは、それだけ、言った。
レナは、後ろでノートに書き加える。
装着区画/切れない
(……なんで?)
声には、出さない。
コイルの焼損事故を防ぐために開発したリアクトルを、どうして電線に着けて回っているのかも謎だった。
ヘルマンが聞かれても、「こうすると、調子いい」と言うだけだ。
もうレナは、知っている。
この職人は、電気という物を指先でつまむように、感覚で掴んでいるのだ。
レナはペンを止めて、上の電線を見上げた。
湿雪が、ぼたぼたと、上から落ちてくる。線守の長い鉤棒が、慎重に、慎重に、雪塊の根元を掘っている。
一件目は、それで、終わりだった。
「次、行くぞ」と、ヘルマンは、バルトに合図をする。
***
二件目は、職人街の外れ。
古い住宅区画。木造の家と煉瓦の家が混ざった、細い路地の奥。
現場に着く。
電線が完全に切れて、地面に落ちていた。
被覆の断面から、ばち、ばち、と、まだ微小な放電が走っている。
湿った雪に、青白い火花が、ぱち、と当たる。
「下がってろ」と、ヘルマンが、レナとフェネクに短く言う。
ヘルマンは、線守と視線で合図する。
線守が近くの上流の遮断器の場所まで走る。
何秒か経って、ばち、ばち、という放電音が止まる。
「落ちた」と、線守の声。
ヘルマンは、バルトを近づける。バルトが太い腕で、地面に落ちた電線の切れた端を、重量物ハンドリングの動作で、慎重に持ち上げる。
新聞紙のページをめくるような繊細さ。
バルトは、電線の切れた端を、自分の腰の高さに保持する。
即席の作業台。
ヘルマンは、ちらっと振り返ってレナを呼ぶ。
「お嬢さん」
「は、はい」
「こっち来い、見ろ」
レナは、近づく。
ヘルマンは、切れた電線の断面を、レナの目の前に持ち上げる。
職人の指先が、被覆の縁を、ぴ、とめくる。
「ここだ」
「……」
「被覆の内側、見ろ」
レナは、断面を覗き込んだ。
被覆の内側。
普段、外からは絶対に見えない場所。
そこに。
樹の枝のような、微細な『放電痕』が走っていた。
黒く、細く、ひびのような枝分かれ。
一本ではない。何本も、何十本も。
被覆の内部のある一点から、放射状に広がっている。
レナは、息を止めた。
「……これ、なんですか。なんでこんなに、破れているの?」
「わからん、トリー、っていう。電線は何年もかけてこいつが広がっていく」
「トリー」
「いつ切れるか、誰もわからん」
ヘルマンは、断面をレナの目の前から外す。
バルトに合図して、電線をもう少しこっちへ、と、姿勢を調整させる。
それから、ジャケットの腰のポーチから、新しい電線を引き出す。
電工ナイフで、被覆を剥く。
しゅ、しゅ。
レナが初めて間近で見る、ヘルマンの被覆剥き。
一秒もかけない。
被覆だけが、すっ、と円筒形に抜けていく。
芯線を撚る。端子に通す。半田鏝を当てる。じゅっ、とわずかな煙。
結線。
レナは、ノートに書く。
トリー/微細放電痕/被覆内部
(……被覆の中で、何かが、長い時間、起きてた)
(……何かが)
声には出さない。
ヘルマンは、結線を終える。バルトに電線を元の高さに戻させる。線守が、上流の遮断器を入れ直す。
微かに、ぶうん、と、電線天蓋の唸りが戻る。
ヘルマンは、新しい接続点をしばらく見ていた。それから、ぽつりと言った。
「ひとまず応急処置だ、ここは電線を張りなおしてから、リアクトルを入れる」
レナは、ペンを止めた。
年配の線守が、ヘルマンに片手を上げる。
「ありがとさんで」
「ああ」
ヘルマンは、バルトに合図する。
「三件目だ」
***
三件目は、リアクトル未装着の、もっと古い区画。
煉瓦の壁が、ところどころ崩れかけている。窓は薄い板で塞いである家もある。職人街の、いちばん奥。住人の数も少ない。
現場に着く。
レナは最初、何が起きているのか分からなかった。
地面に電線が二本落ちていた。
二本同時に。
上の電線天蓋の隣り合う二本が、両方千切れて、路地の真ん中に、ぼたっと落ちている。
湿った雪の上で、微小な放電が、ばち、ばち、と走っている。
線守の、別の二人組がもう来ていた。
若いほうの線守がヘルマンを見て、肩の力を抜いた。
「親方」
「おう」
「これ、たぶん、ギャロッピングです」
「ふぅん」
「隣り合う電線が、上下に揺れて、お互いにぶつかって、擦れて、被覆がやられて、両方落ちた」
「ふぅん」
レナは、地面の電線を見た。
路地の真ん中に落ちている。
幸い、誰もいない。
けれど、いてもおかしくない通りだった。
普段は職人街の、人の出入りがある生活道路。
もし、今夜ここを、誰かが歩いていたら。
レナは、それ以上は考えない。考えると、ペンが動かない。
ヘルマンは、しばらく二本の電線を見ていた。
線守が、ヘルマンの背中に声をかける。
「親方、ここ、まだ、入ってないですよね」
「入ってない」
「……入れたほうが、よくないですか」
ヘルマンは、答えない。
電線を、もう少し、見ている。
それから、ぽつりと、言う。
「……ここも明日だな。順番を変える。切れた所優先だ」
レナは、後ろでノートに書いた。
二本同時/ギャロッピング/振動で擦れた
レナは、書きかけのページを閉じた。
ヘルマンと線守たちが、修理を始める。
バルトが二本の電線を、慎重に地面から持ち上げる。ヘルマンが被覆を剥く。芯線を撚る。半田を当てる。じゅっ、と煙。
レナはその作業の隣で、しばらく立っていた。
湿った雪が、レナの肩にぼたぼたと落ち続けていた。
***
三件を片付け終わったのは、夜の十一時を回ったころだった。
バルトの背中の上で、ヘルマンは空を見ていた。
レナは、その隣で一緒に空を見ていた。
雪はまだ降り続けている。
けれど、湿雪から、また乾いた雪に変わっている。
空気が刺すように冷たい。
コロナ放電の、ぱち、ぱち、という音が、ゆっくりと戻ってくる。
電線天蓋の薄紫の光が、今度は初雪の朝のときと同じ、穏やかなリズムで灯っている。
「親方」
「ん」
「……リアクトル、入れた所、本当に、切れませんでしたね」
「今夜は、な」
ヘルマンは、それ以上は何も言わない。
レナは、上を見上げる。
電線天蓋の、薄紫の光。波打つ電線。ぱち、ぱち、と、コロナ放電。
頭の中で、今夜、見たものが、まだ、ばらばらに、浮かんでいた。
レナは、フェネクの白い装甲に積もる雪を、手の甲で軽く払った。
フェネクは、ぴ、と、一度、光学センサーを点滅させた。
「フェネク、寒くない?」
『私の装甲は、防水仕様です、レナ』
「うん、知ってる」
『ですが、レナの体温が、低下しています』
「うん」
『工房まで、急ぎましょう』
「うん」
レナは、マフラーを、もう一段、首に、巻き直した。
***
工房に戻る。
バルトを定位置に座らせる。床が低く、一度揺れる。それから静かになる。
ヘルマンは、革ジャケットを脱がずに、作業椅子にどさっと座った。
三件分の現場の疲労が、肩からゆっくり、降りてくる。革ジャケットの肩に積もった雪が、工房の暖気で、しゅわっ、と溶けて、床に小さな水溜まりを作った。
レナは、エプロンの上からジャケットを脱いだ。それからコンロに火を入れた。
鍋に、水筒の残りの山羊乳を注ぐ。湯気がゆっくりと立ち上がる。
深皿に、フレークを二人分盛る。
湯気の立つ山羊乳を、ゆっくり注ぐ。ぱりぱりのフレークが、しゅわっ、としゅんでいく。
レナは、皿をヘルマンの前のテーブルに置いた。
「親方、食べてください」
「ふぅん」
ヘルマンは、皿を受け取る。スプーンを取って、一口運ぶ。
「冬の夜は、これだな」
「……はい」
レナは、横に座って、自分の麦の雪に、スプーンを伸ばす。
外では、また雪が降っている。
コロナ放電の、ぱち、ぱち、という音が、工房の外壁を伝って、低く聞こえている。
温かい山羊乳が、レナの体の芯までゆっくりと降りていく。
冷えていた指先が温まる。マフラーを巻きすぎて、こわばっていた首がほぐれる。
冷えていた頭が、ほぐれていく。
「親方」
「ん」
「……原因がわかった、かも、しれないです」
ヘルマンは、スプーンを、止めない。
「ふぅん」
「トリーが、なんで、育つか」
「……ほう」
「高調波、です」
ヘルマンの、麦の雪を運ぶ手が、わずかに止まった。
けれど、すぐにまた動き出した。
「……続けろ」
レナは、ノートを、開かない。
今、頭の中で、見えているものを、そのまま口に乗せる。
「E2Mのリレーから、高調波が出てるじゃないですか」
「ああ」
「あれが原因です、高調波は、通常の電流に比べて、ピークになる回数が多いんです」
「……」
「被覆って、完璧な絶縁体じゃない。製造のときの、ちっちゃい気泡とか、傷とかが必ずあって」
「ふぅん」
「そこに、高調波が、ぴり、ぴり、と、ずっと、当たってる」
「……」
「気泡の中で、ちっちゃい、ちっちゃい放電が、見えない速さで、ずっと、起き続けてる」
「……」
「それが何年もかけて、被覆の中を削っていく」
「……」
「それで、あんな風に電線の内側から破れてしまうんだと思います」
ヘルマンは、麦の雪を、もう一口運んだ。
「今夜、ギャロッピングや湿雪で、最後の一押しになった、ってことです」
「……」
「でも、その前から、ずっと削れてた。何年も前から」
レナは、息を、整える。
「リアクトルを入れた区画は」
「……」
「入り口で高調波を抑えてるから。被覆の中で、放電がほとんどない。だから、トリーが育たない。だから切れなかった」
「……」
「コイルが熱くなるのを防いでるのは、ついでです」
「……」
「本当に、守ってたのは――」
レナは、視線を温かい山羊乳の湯気のほうに向けた。
「――電線網そのものの、寿命を守っている」
工房が、しん、と静かになる。
プラントの低い唸りと、外のコロナ放電の音だけが残る。
バルトが定位置で、リレーの低い音を立てている。
ヘルマンは、皿を、テーブルに、置いた。
スプーンを、皿の縁に揃えて置いた。
それから、ゆっくり、革ジャケットの内ポケットから、硬い飴を、取り出して、口に、放り込んだ。長く、噛む。
しばらく、何も言わない。
「お嬢さん」
「はい」
「お前さんが来たせいで、俺の仕事が減りそうだ」
「えっ」
「減ったぶん、別のことを、考えるか」
「……はい」
ヘルマンは、それ以上は、何も、言わない。
工房の天井で、作業灯がぶうん、と、低く唸っている。バルトは定位置でリレーの低い音を立てている。
ヘルマンは、皿の最後の一口を運んでからぽつりと言った。
「長いな、今夜は」
「……はい」
レナは、もう一口、自分の麦の雪を運んだ。
外では、雪が降り続けている。
電線天蓋の薄紫の光が、ぱち、ぱち、と、低く灯っている。
ヘルマンの作業台の上の巻きかけのコイルは、今夜も夜の間、ずっとそのまま置かれていた。




