着雪
朝、宿の窓を開けた瞬間に、レナは、空気がいつもと違うことに気づいた。
初雪の朝の刺すような冷たさとは、別物だった。冷たさが湿っている。鼻の奥に水気がふわっと入ってくる。
レナは、毛布を肩にかけたまま、しばらく、外を見た。
電線天蓋の上に、雪がまた積もっていた。けれど、初雪のときのぱりぱりと乾いた粉雪ではない。
今朝の雪は、白い塊として、電線の上にぼたぼたと重たく載っている。
(……これ、なんか、重そう)
レナは、毛布をもう少し肩に引き寄せた。
「フェネク」
『はい、レナ』
「今朝の雪、昨日までと、違うね」
『データによると、湿雪が電線重量の数倍を電線に乗せる現象を、着雪、と言います、レナ』
「……着雪」
『はい、レナ』
「それ、危なくないの?」
『危ないです、レナ』
レナは、ノートを机から取り出した。
今朝の最初の一行に書く。
湿雪・着雪・危ない
それから、エプロンの上からマフラーを巻いて、保存容器を抱えた。
麦の雪と、温めた山羊乳の入った水筒。傷病兵舎へ毎朝運ぶ。
この配達がレナの一日の最初の予定に組み込まれて、もう数日が経っていた。
宿を出る。
靴底が雪を、ぐしゃ、と踏む。湿った雪は、踏むと靴底に貼り付く。
初雪の朝の、しゃり、しゃりとは、まったく違う音。
レナは、立ち止まって上を見上げた。
電線天蓋の、いつもの低い唸り。
けれど、今朝はその唸りに、もう一つ音が混じっている。
電線が、わずかに軋んでいる。雪の重みでたわんでいる。
「フェネク、これ、電線、たわんでない?」
『たわんでいます、レナ』
「……どれくらい、危ないの?」
『データによると、湿雪は、本来の電線重量の、三倍から五倍を、線に乗せます』
「……五倍」
『許容範囲内ではありますが、上限に近づいています』
レナは、もう一度上を見た。
電線天蓋のはるか上の方で、革のロングコート姿の二人組が、長い鉤棒を持って歩いている。
電線の上に積もった雪塊を、慎重に一つずつ、落として歩いている。
普段は雨の日の早朝にしか見ない、線守ギルドの装束。
それが、今朝は雪の朝にも出ている。
一人が上を見ながら、相方に低い声で何かを言うのが、レナの耳をかすめる。
「今日はマズいぜ」
レナは、ペンを、ノートの隅で、止めた。
「フェネク」
『はい、レナ』
「行こう。傷病兵舎、急ぎたい」
『了解しました、レナ」
***
傷病兵舎の食堂は、いつものように漂白剤と、魔石の焦げた匂いと、薬草の匂いで満たされていた。
配膳の隅で、レナは、ミユンの皿を用意した。
深い皿に、フレークをたっぷり盛る。水筒の山羊乳を、湯気が立つように、慎重に回しかける。
ぱりぱりの黄金色のフレークが、ゆっくり山羊乳を吸い始める。
麦の雪の完成だ。
レナは、皿を両手で持って、奥の窓際のミユンの席へ運んだ。
ミユンは、もう起きていた。
ベッドに腰かけたまま、窓のほうを向いて、肩のリハビリの、ゆっくりとした運動をしている。
右肩は、まだ固定されている。けれど、肩甲骨の周りの動きは、初日に比べると少しだけ滑らかになっている……ような気がする。
「ミユンさん、おはようございます」
「あら、レナさん。おはようございます」
ミユンは、運動の手を止めて、振り返った。澄んだ、けれど長期療養の疲れの残る声。
「今朝も、ありがとう」
「いえ、いっぱい食べてください」
レナは、皿をミユンの前の、小さな机に置いた。
ミユンは、皿をしばらく見つめた。それから、ふっ、と、視線を窓の外に向けた。
窓の外の、電線天蓋の隙間から、湿った雪がちらちらと、また降っている。
ミユンは、ぽつりと言った。
「……今日の雪、嫌な雪ね」
レナは、皿を置いた手を止めた。
「そうなんですか」
「乾いた雪の日は、綺麗で済むの」
ミユンは、左手でスプーンを、ゆっくり取る。
「けれど、湿った雪の日は、必ず、どこかで、線が切れる」
言いながら、ミユンは、麦の雪にスプーンを伸ばす。
ふやけた一口を運ぶ。よく噛む。
(……必ず、切れる)
ミユンは、麦の雪をもう一口運んでから、続けた。
「今夜、ヴァイスさん、忙しいわよ」
「えっ、親方、ですか」
「切れたら、呼ばれるもの。あの人は、二十年、そうしてきたから」
レナは、ミユンの顔をちらっと見た。
窓の外を見ている。
それから、ぽつりと付け足した。
「……お父様の代から、そう」
レナの、皿を運び終えた手が、わずかに止まる。
「……お父様」
「ええ」
ミユンは、振り返らない。窓の外を見ながら、麦の雪を、もう一口運ぶ。
「……ご存じなんですか」
「お会いしたことは、ある、というだけ」
「……」
「ヴァイスさんの、奥様にも」
「えっ」
レナは、大きく目を見開いた。
「ええっ、親方、結婚してたんですか? ずっと独り身だと思ってました」
「お産で、王都の病院に、入院したと聞いたわ」
「子供もいるんだ」
「その後は、知らない」
ミユンは、それ以上は説明しない。スプーンを、麦の雪に伸ばし続ける。
レナは、しばらくミユンの横顔を見ていた。
(……何年、迷宮都市に、通ってる人なんだろう)
(……「お父様の代から」、って)
(……でも、なんで、その話を、私にしたんだろう?)
その話が自分に関係があるようには、レナには思えなかった。
声には、出さない。
ノートを開く気にもならない。
レナは、エプロンの裾を軽く整えて、それから、ミユンの皿に二杯目の山羊乳を注ぎ足した。
「お代わり、いつでも、ありますから」
「ええ、いただきます」
ミユンは、にっこり笑った。
レナは、頭を軽く下げて、配膳の隅に戻った。
(……毎年、線が切れたら、呼ばれる)
レナは、頭の中で思い出していた。
短く三回鳴る魔導通信機。「三番街の電線断線」。
レナは、工房で留守番をしていただけだった。
けれども、三日間工房をあけていたヘルマンが戻って来た時の、疲れた表情は知っている。
冬の夜のヘルマンを、レナは、まだ、知らない。




