麦の雪
窓を、開けた。
冷気が頬を刺した。
レナは毛布を肩にかけたまま、しばらく外を見た。電線天蓋の被覆に、薄く白いものが積もっている。今朝、迷宮都市に初雪が降った。
天蓋全体が、薄紫に光っている。雪と電線の被覆が触れて、コロナ放電を起こしているのだとフェネクが言う。ぱち、ぱち。断続的な放電音が窓ガラスを伝って届く。わずかにオゾン臭い。
「フェネク、これ、毎年こう?」
『データによると、迷宮都市の初雪の朝は、ほぼ毎年、この光景です、レナ』
「……綺麗」
『はい、レナ』
「雪が積もってるのは、危なくはないの?」
『乾いた雪は問題ありません。湿った雪が断線の主因です、レナ』
レナは窓を閉めた。寒気が床まで降りてきた。
机のノートを開く。隅に、ペンを走らせた。
初雪/紫
それだけ書いて、ノートを閉じた。
***
宿を、出る。
職人街の路地を工房に向かって歩いた。靴底が新雪を踏む。しゃり、しゃり。
電線天蓋の継ぎ目でダイナモンキーが二、三匹、何かしている。レナは立ち止まった。
一匹が電線の交差点に、薄い白いシート状のものを敷いている。雪除けの傘代わり。見覚えのある形。もう一匹は、自分の尻尾を慎重に電線の影に収めている。
(……冬支度)
レナはしばらく眺めた。
腰の後ろが、ぴ、と疼いた。尻尾は生えていない。生えていないはず。軽く首を振って、また歩き出した。
両腕には保存容器を抱えている。昨日組み上げた量産プラントの、初日分のフレーク。容器の底からまだ熱が抜けきっていない。
***
工房の扉を、押し開けた。
バルトが定位置に座っている。リレーが低く鳴る。カチ、カチ。床の油の臭い。
ヘルマンは作業椅子で、古いコイルを巻き直していた。
「親方、おはようございます」
「おう」
「あの、これ」
レナは保存容器を作業台に置いた。蓋を開ける。黄金色のフレークが、ぱりっと積まれている。
「昨日のと、同じやつか」
「はい。あれから、ちょっと、考えてて」
「ああ」
「親方、乾いてるって、言ってましたよね」
ヘルマンはコイルを巻く手を止めない。ふぅん、とだけ言う。
レナは容器の隣に、水筒を置いた。
山羊乳。
郊外の放牧地で採れるらしく、市場で安価に売っていた。
「これなら、どうかなって」
「山羊乳か」
「はい」
「温めてみろ。この町の冬の朝はそれだ」
「はい」
コンロに火を入れ、山羊乳を温める。湯気が立ち始める。獣臭と、麦の香ばしさが、片隅の量産プラントの放熱と混ざる。型番AGM-FP-001の試作三号機。ごー、と低く回り続けている。
深めの皿にフレークを盛った。湯気の立つ山羊乳を、ゆっくり注ぐ。
ぱりぱりが、山羊乳を吸い始める。しゅわっ。わずかにしゅんでいく音。
レナはスプーンを口に運んだ。
――ぱりっとした端と、ふやけた中心。獣臭が、麦の香ばしさと、口の中で重なる。
「……あ」
『いかがですか、レナ』
「……これ、合う」
『合いますか』
「合う」
レナはもう一口運んだ。コクがある。水で戻したのとは別物。動物性の脂が、フレークの内側まで染みていく。
「フェネク」
『はい、レナ』
「完成形、これかも」
『了解しました、レナ』
ヘルマンがコイルを置いた。皿を覗き込む。
「ふぅん」
「親方、食べてみてください」
ヘルマンはスプーンを取って、一口運んだ。しばらく噛む。
……
「これだな」
「やった」
「昨日のは、半分だった」
「半分」
「今日のが、完成だ」
「……はい」
レナの頬が、すこし熱くなった。フェネクの光学センサーが、ぴ、ぴ、ぴ、と三度、長めに点灯した。
ヘルマンは皿のフレークを、もう一口運んだ。しばらく噛んでから、ぽつりと言った。
「……山羊乳、もう一杯、温めてくれ」
「あ、はい」
レナはコンロに向き直った。
***
朝食の終わったあと、レナは皿をしばらく見つめていた。
ガロンを見舞った夜の帰り道。遠目に見た傷病兵舎の窓の光。
魔力を持っていないこれなら、肉を食べられない冒険者たちの新たな食料になるはず。
(……今なら、持っていける)
レナはヘルマンを見た。フレークの皿は、もう空になっている。
「親方」
「ん」
「これ、傷病兵舎に、持っていっても、いいですか」
ヘルマンは、しばらくレナを見た。
……
「ダメですか?」
「ギルマスに、話を通せ」
「あ、はい」
「直接、患者に配るな。先に、ギルマスだ」
「はい」
「お節介ってのはな」
「はい」
「順番を、間違えると、ただの押し付けになる」
レナはノートに書いた。
ギルマスに、先に、話を通す
ヘルマンはそれだけ言って、コイルを取り直した。指先で、銅線が、しゅる、と音を立てた。
***
午後、レナはフェネクと一緒にギルドへ向かった。
保存容器、二つ。山羊乳の水筒。試食セット。
ギルドの執務室。ギルマスは机の向こうで、義肢の指を机に当てている。カチ、カチ。ガロンの件以来の対面。
「ヴァイス工房の弟子か」
「あ、いえ、その、AGマギクラフトの――」
「ヴァイス工房の弟子だ」
「……はい」
ギルマスは口角をわずかに上げた。
レナは机に保存容器を置いた。山羊乳の水筒も並べる。深い皿を借りて、フレークを盛り、温めた山羊乳を注いだ。獣臭と麦の香りが、執務室に広がる。
「これ、私が作りました。肉は、入っていません」
ギルマスはしばらく皿を見つめた。
それから、スプーンを取った。
一口。
……
ギルマスがしばらく止まった。それから、もう一口運ぶ。
「いつから、作れる」
「えっ」
「量産だ。いつから、どのくらい、出せる」
「あ、その、工房にプラントがあって、一時間に家庭用オーブンの、三十倍だから——」
「今日から、傷病兵舎に、毎朝、頼みたい」
レナは息を、止めた。
「……はい」
「価格はギルドの予算で、適正に出す。ヴァイスと後で詰める」
「あ、はい」
ギルマスは皿の最後の一口を運んだ。義肢の指で、もう一度、机を叩く。カチ。
「ヴァイスは、知ってるな、この件」
「親方は、『ギルマスに先に話を通せ』と」
「順番を、知ってる弟子だ」
「……はい」
「よろしい」
***
ギルマスは、その場で食事担当に伝令を出した。レナはギルマスに連れられて、傷病兵舎へ向かった。
ガロンを見舞ったときと同じ建物だった。
漂白剤、魔石の焦げた残り香、薬草。三つの匂いが入口で出迎える。
ベッドの間隔は狭い。毛布は規格品。窓は高く、壁は飾り気がない。
療養所というより、前線の応急処置施設の延長線上の設備だった。
本当に重症な患者やお年寄りは、王都に送られるという。
食事担当の中年の女性に、レナはフレークと山羊乳のセットを渡した。
「これ、温めた山羊乳に浸して、出してください」
女性はしばらくフレークを見つめた。
「……麦のお菓子?」
「浸すと、おいしいんです」
女性は半信半疑のまま、調理場に戻った。
***
配膳の時間。
患者たちの食堂のテーブル。ガロンの姿を探したが、もういない。数日前に退院した、と聞いた。
代わりに、知らない冒険者たちが何人か、トレーを受け取っている。
革鎧を脱いだ簡素な肌着姿の若い男。包帯を巻いた腕で、不器用にスプーンを動かす中年の戦士。スプーンの柄が皿の縁に、こつ、と当たる。
レナは配膳の隅で、フェネクと並んで見守った。
***
奥の窓際の席。配膳台からいちばん遠い場所。
そこに一人、エルフの女性が座っている。
長い淡い金の髪を、後ろで一つに束ねている。本来は艶があるのだろう髪が、長期療養でわずかにくたびれていた。
耳の先がわずかに長い。年齢は人間で言えば、二十代後半に見える。エルフだとすれば、実年齢の見当はつかない。
肩から胸にかけて、厚く包帯が巻かれている。
右肩、深い傷。
弓を引く側の腕が固定されていて、包帯の下の腕は痩せていない。
戦士の腕。ただ、長く動かしていないせいで、わずかに緩んでいる。
頬の輪郭はもともと細いみたいだけれど、目の下に影がある。
レナの肩が、ぴく、とこわばった。
(……エルフ)
(……うわ、エルフだ)
(……えっ、なんで、ここに?)
王都本社の研修棟で、何度か見かけたことはある。
魔石工学科の留学生として、何人か来ていた。
綺麗で遠い人たち。同じ研修室で半年過ごした女性のエルフが、最終日に「お疲れさまでした」と一言、それで全部だった。
王都に来るエルフは、いる。学術のために。
エルフは長命だから、人間の数十年単位の学問を悠々と修めていく。
でも、迷宮都市に来るエルフは、見たことがない。
(……迷宮都市に、エルフが、来る理由?)
「フェネク」とレナは小声で囁いた。「エルフが冒険者をやる理由って、何かある?」
『個人的な理由は存じませんが、あの方は肩の負傷、治療の途上です。ですが回復が、想定より遅延しています、レナ』
「えっ」
『エルフは生まれつき魔力量が極めて高い種族です。治療魔法の魔力が、患部の魔力に押し返されます。ヒールが、効きにくい』
「……」
『さらに、エルフは肉を食べません』
「……あ、そっか」
王都の研修棟の食堂が、一瞬、蘇った。
エルフの留学生たちは、いつもサラダとパンと果物だけをトレーに乗せていた。
当時のレナは、深く考えずに流していた。
『迷宮都市の食事の大半は、モンスター肉ベースです、レナ』
「……うん、食べられるものがないんだ」
『そのため、自然回復も遅れているようです』
レナは皿を見つめた。
(……治癒魔法が、効きにくい)
(……食べられるものも、限られてる)
その人が、トレーを受け取った。両手で受け取る動作がゆっくりだった。皿の中の、白い山羊乳に浸された、黄金色のフレーク。
しばらく皿を見つめている。
そして、ぽつりと言った。
「……あら。麦の雪、みたいですね」
声は低く、澄んでいた。長期入院で少し掠れているけれど、本来はよく通る声だろう、と分かる響き。
レナのノートを開く手が、止まった。
(……麦の雪)
(……麦雪。名前、決まったかも知れない)
フェネクの光学センサーが、いつもより長く点灯した。ぴ、ぴ、ぴ。
エルフの女性はスプーンを取る前に、左手を胸の前で軽く合わせた。祈り。ほんの一秒。
『エルフの食前の祈りです、レナ』とフェネクが小声で補足する。
「……知ってる」
『研修棟の食堂で、留学生の方たちが、毎食、行っていました』
「……うん。あれが、これだったんだね」
三年経って、ようやく目の前で繋がる。
エルフの女性は左手でスプーンをゆっくり取った。右肩をかばう動き。ふやけたフレークを一口、運ぶ。口の中で、ゆっくり噛む。
噛みながら、目を閉じた。
それから、もう一口。もう一口。急がない。一口ごとに、何かを確かめている。
四口目で、スプーンが止まった。
「これ、どなたが?」
「あ、はい、その、私が作りました」
「……そう、ですか」
エルフの女性はしばらく、レナの顔を見た。
「お名前を、伺っても?」
「あ、レナ、と申します」
「レナさん」
エルフの女性は、その名前を口の中でゆっくり転がした。
「私は、ミユン、と申します」
「ミユンさん」
「……ご親切に、ありがとうございます」




