肉料理
月曜の朝。
AGマギクラフト・コーポレーション本社の社内会議室で、レナはノートPCを開いていた。
三日ぶりに戻ってきた、王都の社内会議室の空気は、迷宮都市の屋台街の煙とは、まったく別の匂いがした。
コピー用紙、空調の風、誰かが使った人工甘味料のコーヒー。清潔で、無臭に近くて、健康そのものの匂い。
(……ここ、空、見えるんだ)
窓の外を見上げて、レナはふと、そう思った。電線天蓋がない。空が、ふつうに、青い。三日前まではそれが当たり前だったはずなのに、今は、なんだか、まぶしい。
議題が、リアクトル試作品の進捗報告に移った。
「スライム核級の出力安定性を——」
ぐぅ。
レナのお腹が、小さく鳴った。
(……えっ)
(なんで、今)
レナは慌ててノートPCの画面に視線を落とした。会議室の長机を囲む同僚たちは、誰も気づいていない。気づかれなかった。たぶん。
(朝、ちゃんとサンドイッチ食べたのに)
(なのに、なんで)
レナは、議事録のキーを打ちながら、自分のお腹を、ノートPCの蓋越しに、そっと押さえた。
木曜の素材検討会でも、同じことが起きた。
「バジリスク核級からキマイラ核級までの大型E2Mでは——」
ぐぅぅ。
レナは、咳払いをした。隣の同僚が、ちらっとこちらを見た。レナは「失礼しました」と、業務上の声色で謝った。
(……バジリスク)
(……キマイラ)
脳内で、屋台街の煙の匂いが、ふっと、鼻先をかすめた。
(いけない)
(仕事、仕事)
レナは、規格表のページを、もう一度、頭の中で開き直した。
バジリスク核、定格三百ワット、毒精製魔法特化、星三つ。
仕事。仕事、仕事。
それでも、お腹は、もう一度、鳴った。
***
金曜の朝、レナは王都郊外の人工魔石工場にいた。
月例の社内研修。AGマギクラフト・コーポレーションの開発部社員は、年に六回、自社の素材調達ラインを実地で見学することが、社内規定で義務付けられている。レナにとっては、入社三年目の、何度目かの参加だった。
工場の中は、王都の整然とした清潔さを煮詰めたような場所だった。床は淡いグレーのタイル、照明は均一な白、空気は微弱にろ過されている。作業員は全員、白衣と樹脂製のヘルメットを被り、胸に身分証をぶら下げている。
案内されたのは、製造ラインの第三工程、混合タンクの前だった。
直径三メートルのステンレスタンク。上部から二系統のパイプが伸びていて、中で巨大な羽根が、ゆっくりと回転しているのが、上部の覗き窓から見えた。
責任者は、五十がらみの、白髪交じりの男だった。資料を片手に、淡々とした声で説明を始めた。
「この攪拌機は、スライム核とバジリスク核の粉末を混ぜ合わせることで、人工魔石のベースを——」
ぐぅぅぅー。
レナのお腹が、鳴った。
今日のは、大きかった。
(はっ)
(いけない)
(いけないいけないいけない)
見学班の同僚が二人、ちらっとレナを見た。レナは咄嗟に、職業的な質問で、誤魔化しに走った。
「あ、あの」
「はい?」
「ゴブリン核では、いけないのですか。出力は、変わらないはずですが」
責任者は、ふっと顔を上げた。質問が来たことに、ほんの少しだけ、嬉しそうな顔をした。
「いい質問ですね。出力はほぼ同程度になりますが、単体だと基本的に、他の素材との親和性が低いのです。ですが、スライム核とバジリスク核をブレンドすることで、吸着力が生まれ——」
スライム肉と、バジリスク肉の、ブレンド。
じゅるり。
(はっ)
(いけない)
(美味しそうとか思ってはダメ)
(これは仕事の話)
(粉末)
(粉末の話)
レナの頭の中で、責任者の声と、屋台のおじさんの声が、勝手に、混線した。
「両者の魔力波長が干渉し合い、安定した出力レンジを——」
(香辛料の効いた、肉汁が、口の中で——)
「特に、バジリスク核の毒精製属性が、スライム核の——」
(ガリッ、と、歯に当たった、青い半透明の——)
(……いけない)
(ここは王都)
(モンスター肉なんて、簡単には手に入らない)
レナは、ペンを握り直して、ノートに何かを書きつけるふりをした。実際にはスペルが何度も間違って、線がぐにゃぐにゃしていた。
王都では、モンスター肉は流通していない。あっても、輸入品の、高級レストランで「異郷食材」として法外な値段で出される程度。庶民の冷蔵庫に入るような食材ではない。
そして、レナの実家の冷蔵庫にも、入っていたことは、ない。
(……ケバブ作ったらどのくらいの値段になるんだろ)
(……いや、そんなこと、考えるな)
(仕事、仕事)
責任者の説明は、その後も、十分ほど続いた。レナは、なんとか、平静を装って、メモを取り続けた。
メモの最後の行に、無意識に、「肉」と書いていた。
ペンを止めて、ぐっと塗り潰した。
***
研修期間中の数日、レナはホテル住まいだった。
迷宮都市の寮には、一週間前に買い揃えたばかりの、新品の調理器具一式が、戸棚で眠っている。
だが、それを王都に持ってくる余裕はなかった。
そもそも、ホテルの部屋にはキッチンがない。
仕方なく、レナは王都のコンビニ食で凌いだ。
サンドイッチ。サラダパック。栄養ドリンク。たまに、駅の構内のパン屋で、惣菜パンを一個。会社の自販機で、ホットコーヒー。
きれいに包装され、衛生的で、栄養バランスが完璧で、何の問題もない食事。
迷宮都市の駅前のコンビニで「モンスターブロジア」を三本買った、あの感覚に、戻る。あの時のレナにとって、コンビニは、世界の標準だった。世界のどこに行っても、コンビニは、コンビニで、サンドイッチは、サンドイッチだった。
(……普通だ)
(普通の、王都の、普通の食事だ)
ホテルの部屋で、レナは机にサンドイッチの包装紙を広げて、黙々と食べた。レタスは、しゃきしゃきしていた。ハムは、薄かった。パンは、ふわふわで、口の中で、すっと、消えた。
なのに、なぜか、満たされない。
(……あれ)
(……これ、いつも、こんな味だったっけ)
レナは、サンドイッチの最後の一切れを、口に運んだ。
口の中で、咀嚼する。咀嚼する。咀嚼する。
(……薄い)
(なんか、薄い)
(風味? 違う、なにかが、薄い)
レナは、ふっと我に返った。
自分の感想に、自分で驚いた。
三日前まで、これがレナの世界の標準だった。サンドイッチは、サンドイッチで、それで何の問題もなかった。
今は、なんだか、物足りない。
舌が、もっと別の何かを、覚えてしまっている。
(……ケバブ、二百ガル)
(……マリアさんのシチュー、いくらだったっけ)
(……あれは、値段とか関係なかった)
レナは、サンドイッチの空袋を、ぴしりと折り畳んで、ホテルのゴミ箱に捨てた。
夜の王都の窓の外には、無電線化された綺麗な空が、広がっていた。星が、ふつうに、見えた。三日前まではそれが、レナにとって、夜空の標準だった。
(……空、見える)
(……静かだ)
なのに、なぜか、寂しい。
***
研修が終わり、レナは本社に戻った。
やりかけだった事業の続き。
デスクワークが、数日続いた。
段階開発の方針は、上司に説明した。文句を言われた。説明し直した。説明し直したら、納得してくれた。納得した上で、もう一度、文句を言われた。このクソ上司。
職人街の論理と、本社の論理は、噛み合うところで噛み合って、噛み合わないところでは、最後まで噛み合わなかった。
それでも、リアクトルの量産仕様書は、順調に社内を上り詰めていった。
承認の判子をひとつ、ふたつ、と、もらっていく。
金曜の夕方、レナは関連部署との打ち合わせを終えて、自分のデスクに戻った。会議用の企画書のドラフトが、机の上で、まだ広げたままになっていた。
レナは、何の気なしに、ペンを取った。
企画書の余白に、無意識に、何かを書きつけ始めた。
「迷宮都市向け、朝食用——」
ペンが、止まった。
(……あれ、何、書こうとしたんだろ、私)
レナは、自分の書いた文字を、しばらく見つめた。
書きかけては止め、書きかけては止め、を、何度か、繰り返した。
気づくと、退社時刻を、十五分過ぎていた。
レナは、ペンを置いて、ノートPCを閉じた。企画書の余白の落書きは、そのまま、鞄にしまった。
頭の中の、ぼんやりした輪郭は、まだ、形にならなかった。
***
翌朝、レナは迷宮都市行きの長距離列車に乗った。
車窓の外を、王都の外周区画が流れていく。整備された街路樹、白い建材の家、転移塔の細い影。徐々に景色は郊外へ、農地へ、低い山並みへ、と変わっていく。それからしばらく走ると、空に、電線が、現れる。
最初は、一本。
やがて、二本、三本。
そのうちに、何本もの線が交差し始め、空をだんだんと細かく区切っていく。電線が増えるにつれて、空の色が、青から、薄灰色に、それから、薄黒い、いつもの色に、移っていく。
レナは、車窓に額を寄せて、それを、ぼんやりと、眺めていた。
(おおー、これこれ)
(……あの時は、怖かったんだよな)
三ヶ月前、初めてこの路線に乗った時、レナは車窓の外で空が暗くなっていくのを、「珍しい」「面白い」「怖い」の三段階で、受け止めた。最後の段階で、足元が、ふわっと、頼りなくなった。
今は。
今は、不思議に思う。暗くなっていく空が、なぜか、ほっとする。
電線が増えるたびに、肩から、何かが、降りていく。
(……変なの)
(三ヶ月前の私が、見たら、「なにそれ」って怒るかも)
レナは、ふっ、と、小さく笑った。
車窓の隣の席で、フェネクが、いつものように、無言で待機していた。光学センサーが、ぴ、と、一度だけ、控えめに点滅した。
「フェネク」
『はい、レナ』
「あと、どれくらい?」
『三十二分です、レナ』
「ありがと」
『いえ』
三十二分後。
列車は、迷宮都市の駅の、薄暗いホームに、滑り込んだ。
ドアが開いた瞬間、独特のスライム臭と、電線天蓋の低い唸りが、ぶわっと、車内に流れ込んできた。
レナは、目を、一瞬、閉じた。
鼻の奥に、街の匂いが、染み込んでくる。脂、香辛料、煙、油、それから、何か甘ったるい、得体の知れない迷宮の匂い。
(……ただいま)
レナは、ホームに降り立った。
電線天蓋が、低く、いつものように、唸っていた。
***
宿に戻る前に、レナは屋台街に直行した。
リュックを背負って、買い物用の布袋を二枚、抱えて。
屋台街は、夕方の支度の時間だった。炭が起こされ、煙が薄く流れ、店主たちが品出しをしている。レナは、その間を、まっすぐに、歩いた。
目的地は、肉屋だった。
少し小ぢんまりとした、スライム肉とバジリスク肉を中心に扱う、屋台の中でも比較的整った、白タイル張りの店構え。
店主は、四十がらみの女性だった。革のエプロン、髪を後ろで一つに束ねている。
「いらっしゃい」
「あの」
「はい」
「スライム肉、精製済みのを、一キロ」
「はいよ」
店主は、網に吊るされた半透明の塊から、手際よく、白い肉のブロックを切り分けた。電子はかりで、ぴったり、一キロを量る。レナは、その手つきを、ほうっと、見ていた。
「あと」
「ん?」
「バジリスク肉も」
「お、いいね。何グラム?」
「……一キロ」
「お嬢ちゃん、ずいぶん買うねえ」
店主は、目を丸くしながら、それでも嬉しそうに、もう一つの網から、薄切りのバジリスク肉を、ばっさばっさと、切り出した。
「……自炊、します」
「ほう」
「初めて、なんですけど」
「やる気あんね」
「やる気だけは、あります」
店主は、ふっ、と笑った。
「じゃあ、これもおまけだ」
店主は、店の脇の小瓶を、一つ、レナの布袋に放り込んだ。半透明の、薄黄色い液体が入っていた。
「これは?」
「スライム肉の、脂。煮込みに使うと、美味いよ。今日捌いたぶんだから、新鮮だ」
「……ありがとうございます」
「がんばんな」
レナは、深々とお辞儀をした。布袋は、ずしりと重かった。
それから、レナは、続けて、香辛料の店に寄った。塩、胡椒、得体の知れない迷宮産のハーブ三種。さらに、乾物屋で、豆を二袋。あちこちで「お嬢ちゃん、ずいぶん買うねえ」と言われ、そのたびに、レナは「自炊、します」と、判で押したように答えた。
両手いっぱいの食材を抱えて、宿に帰る頃には、もう、すっかり夜だった。
屋台街の最盛期の煙の中を、レナは、ほくほくと、歩いた。
(……これで、一週間は、もつ)
(たぶん)
(知らんけど)
***
宿の小さなキッチンで、レナは、新品の鍋をコンロに乗せた。
戸棚で眠っていた、誇らしげなフライパンとは別の、深めの片手鍋。一週間前の自分が「これは煮込み用」と気合を入れて選んだ、ステンレスの新品。
(……よし)
レナは、まな板にスライム肉を置いて、新品の包丁を、構えた。
包丁の刃は、よく切れた。スライム肉は、きれいに、すっと、切れた。レナは、軽く、感動した。
「フェネク」
『はい、レナ』
「私、今、料理してる」
『観察しております』
「すごくない?」
『行為としては、初心者の標準的な手順です』
「フェネク、たまには、褒めて」
『立派です、レナ』
「棒読みじゃない?」
『データには、適切な抑揚の参照例がありません』
レナは、ふふっ、と笑って、肉を、鍋に入れた。
それから、塩を入れた。香辛料を、ぱらぱら入れた。水を入れた。火をつけた。
鍋が、ふつふつと、煮え始めた。
レナは、コンロの前に、しばらく、立っていた。
煮立ったら、火を弱める。蓋をする。途中で、味を見る。マリアの店のシチューは、三日煮込んだ、と聞いた。レナのは、せいぜい、四十分だった。それでも、ちゃんと、煮込みに、なっていた。
完成したのを、深皿に盛って、テーブルに置いた。
湯気が、立ち上った。
屋台街で嗅いだような、香辛料と煮込みの匂いが、宿の小さなキッチンに、ふわっと、満ちた。
レナは、スプーンを、おそるおそる、口に運んだ。
——美味すぎた。
「……」
レナは、しばらく、無言だった。
もう一口、運んだ。
やはり、美味すぎた。
「……」
「ひょっとして、私、天才か!?」
レナは、誰に言うでもなく、深皿に向かって、声に出した。
フェネクが、背後で、ぴ、と短く点滅した。
『初めて自炊が成功した人間の、典型的な反応と推測します』
「フェネク、空気読んで」
『読んだ上での、観察結果です』
「……ふふ」
レナは、もう一口、口に運んだ。スライム肉が、ほろりと崩れた。塩と、香辛料と、迷宮のハーブの、混ざった味。マリアのシチューには、まだ及ばない。
それでも、自分で作った、自分のための、初めての、ちゃんとした夕食だった。
レナは、深皿が空になるまで、夢中で食べた。
食べ終わってから、しばらく、机に肘をついて、ぼんやりした。
(……お腹、いっぱい)
(……幸せ)
(……明日も、作ろう)
(明日は、もっと、上手になる、はず)
しかし、問題が発生した。
彼女には計画性が、まるでなかったのだ。




