外食
レナは、ふらふらと危なっかしい足取りで、工房の両開きの大扉の前にたどり着いた。
扉の前で、少し立ち止まり、深呼吸を一回。
(……親方に、合わせる顔が、ない)
(でも、お腹は、減った)
(でも、自炊は、できない)
(でも——)
(……無理)
レナは、扉を、一回、ノックした。
返事を待つより先に、扉が、内側から、バルトの巨大な手で、ずるりと開いた。バルトの胸の発光パターンが、ぴ、ぴ、ぴ、と三回、ゆっくり明滅した。「いらっしゃい」の合図、らしい。
工房の奥で、ヘルマンが板金作業をしていた。レナの足音に、振り向く。
レナを見て、ヘルマンの眉が、一ミリだけ、動いた。
「お嬢さん」
「……親方」
「顔色」
「……」
「飯食ったか」
「……何か」
「なんだ」
「……何か食べさせてください」
「お嬢さん、座れ」
ヘルマンは、作業の手を止めて、工房の隅の古い木の椅子を引き出した。レナはふらふらと座り、握っていたハンカチを、机の上にそっと開いた。
青みがかった半透明の魔石が、ころん、と、転がった。
ヘルマンは、それを、人差し指の腹で、ちょん、と、転がした。
「バジリスク核か」
「……はい」
「当たりだ」
「……はい」
「お嬢さん、運がいいな」
ヘルマンは、口の端を、ほんの一ミリだけ持ち上げた。
レナは、それを見て、なぜか、ちょっと泣きそうになった。
(……運が、いい、んだ、私)
(そうか、運が、いいのか)
迷宮都市の論理が、初めて、レナの中で反転した。
一度は仕事のことを思い出して立ち直った彼女が、ヘルマンの一言で、また別の引き出しを開けかけている。
ヘルマンは、それ以上は何も言わずに、革ジャケットを壁の釘から外して、肩に羽織った。
「行くぞ」
「……どこに」
「飯だ」
「えっ」
「俺の行きつけだ。文句は言うな」
「……はい」
レナは、鞄を抱えて、よろよろと立ち上がった。バルトが、整備パネルの脇から、フェネクをひょいと持ち上げて、肩のあたりに乗せた。フェネクの光学センサーが、ぴ、と短く光って、見送る合図を送った。
***
ヘルマンが連れていったのは、屋台街の本通りから一本裏に入った、細い路地の奥だった。
路地の両側には、得体の知れない店が並んでいる。ライン蛭の燻製を吊るしている店、何かの内臓らしきものを瓶詰めにして並べている店、看板にぐにゃっとした文字で何か書いてあるが何屋なのか分からない店。
レナは、ヘルマンの背中を追いながら、こっそり覚悟していた。
(親方の行きつけ、たぶん、すごい店、なんだろうな)
(無骨で、寡黙で、職人が黙々と料理する店)
(歴史を感じる、暖簾の色が、いい感じに焼けてる、みたいな)
レナの脳内には、王都の旅行雑誌に載っているような「渋い大将のいる老舗」のイメージが、勝手に組み上がっていた。
ヘルマンが、路地の奥の、一軒の店の前で立ち止まった。
レナも、立ち止まる。
「……」
レナは、店構えを、ゆっくりと、上から下まで、見上げた。
軒先には、スライムが丸ごと、何匹か、紐で吊るされていた。半透明のぷるぷるしたボディの中に、小さい核が、かろうじて見える。よく見ると、その横の物干し台のような枠に、薄く伸ばされて天日に干された肉が、何枚も並んでいた。
「親方」
「ああ」
「あの、軒先の、スライム……」
「マリアが今朝、捌いたぶんだ」
「……捌いた」
レナは、店の向こうを覗き込もうとして、肉を吊るす紐に頭をぶつけそうになる。慌てて屈んだ。
店の入口の上には、薄汚れた看板が斜めにぶら下がっていて、文字はほとんど消えかかっていた。かろうじて読めるのは「マ」と「ア」だけ。
ガラス戸の向こうから、何か煮込んでる、複雑で深い匂いが、ふわっと漏れてきた。
匂いは、反則的に、いい。
匂いだけ嗅ぐと、王都の高級レストランかと思うくらい、いい。
ヘルマンが、ガラス戸を、ガラ、と引き開けた。
店内は薄暗かった。長テーブルが二本、平行に並んでいるだけ。木の床は油でぬらりと光っていて、天井の電球は一つだけ、暖色の弱い光を落としている。
奥のカウンターの向こうに、六十がらみの、小柄な女性が立っていた。エプロン、白い髪を後ろで一つに束ねた、細い体。手元の鍋から立ち上る湯気が、彼女の輪郭を、ぼやけさせていた。
「あら、ヘルマン。久しぶり」
「シチュー、二つ」
「はい」
それだけで、注文が通った。
レナが視線を巡らせると、長テーブルの片方に、先客が二人、座っていた。
二人とも、二十代前半くらいの女の子。ただし、冒険者としての装備はガチだった。
胸部から肩、肘、膝まで、ぶ厚い金属プレートで覆われた、明らかに前線級の戦闘装備。一人は赤系の塗装、一人は青系の塗装。腰には、二人とも、それぞれ別種の武器を提げている。赤い方は両手剣、青い方は大型の盾と片手のメイス。
(……タンクと、アタッカー?)
(いや、二人とも、両方できる装備、してる)
(……交代制の、ヘビータンクペア?)
レナの仕事脳が、また、勝手に分析を始めた。家電メーカーの開発部にいるレナは、戦闘職の装備に詳しいわけではないが、過剰に重い、ということだけは、装備の見た目で分かった。
二人は、長テーブルに並んで座ってスマホをいじっていた。
赤い方の女の子が、片手で串焼きを口に運びながら、もう片方の手でスマホをスクロールしている。
青い方の女の子は、スマホを店の壁に向けて構えて、動画を撮っているらしい。
何度か、画面の中で止めて、撮り直して、また止めて、を繰り返している。
レナが、ヘルマンの隣の席に座ると、青い方の女の子が、ちらっと、レナの方に視線をよこした。
会釈、というほどではない、軽い目線だけの挨拶。
レナも、慌てて軽く頭を下げる。
赤い方の子は、顔も上げなかった。
そのとき、赤い方の女の子が、空のお盆を持って、すっと立ち上がった。カウンターの向こうのマリアに、紙を一枚、手渡している。
「マリアさん、これ、今日のぶんっす」
「あらありがとう、はい、こちら」
紙と、小袋(コインらしい音)が、軽く交換される。
赤い方は、それをポケットに入れて、また席に戻る。スマホを再開する。
レナは、その短いやり取りを、横目で見ていた。
「親方、今の」
「納品書」
「納品」
「あの二人、スライム狩り、やってる」
「スライム狩り」
「駆け出しのうちは、スライム狩りでクエスト数を稼ぐもんだ。マリアが、この街でいちばん、スライム肉を買い取ってる」
「ここに、納品してるんですか」
「そうだ。マリアは、ギルドに常時クエスト出してる。冒険者が朝、新鮮なスライム肉を持ってくる。マリアが、その日のうちに調理する」
「……だから、新鮮、なんですね」
「屋台のスライム肉とは、別もんだ」
レナは、もう一度、二人組をちらっと見た。
赤い方が、串焼きを口にくわえたまま、青い方の肩を、こん、と肘で軽く突く。青い方が、スマホを上げて、何かを見せる。赤い方が、ふっ、と短く笑う。
それ以外、二人は、何も話さなかった。
(……仕事して、ご飯食べて、また仕事して)
(あの子たち、ここが、生活の一部なんだ)
レナの中で、店の見え方が、また一段、変わった。
しばらくして、カウンターの向こうから、マリアが、二つの陶器の椀を、両手で運んできた。
ことり、と、レナの前に置かれる。
茶色がかった深い色のシチュー。中に、白っぽい肉のブロックと、根菜と、豆が、ごろごろと沈んでいる。湯気と一緒に、香辛料と煮込みの匂いが、立ち上る。
「これ、何時間、煮てるんですか」
「三日。継ぎ足しだから、最初がいつだったか、もう忘れちゃった」
「……」
「お嬢ちゃん、初めて?」
「は、はい」
「冷めるよ、早く食べな」
マリアは、にっこり笑って、カウンターに戻っていった。
レナは、スプーンを、おずおずと、椀に入れた。
肉のブロックを、一つ、すくい上げる。白っぽくて、繊維がほぐれた、長時間煮込みの肉。
レナは、一瞬、躊躇った。
(……これ、何の、肉だっけ)
(……スライム、肉? こんな風になるの?)
レナの中で、また、王都メンタルが、ちょっとだけ揺らいだ。
しかし、その横で、ヘルマンが、無造作にスプーンを口に運んでいる。
レナは、ヘルマンの食べ方を、そっと観察した。
何の躊躇もない。当たり前のように、当たり前のものを、食べている。
その当たり前さが、レナの背中を、押した。
レナは、スプーンを、口に運んだ。
一口目で、彼女は、黙った。
スライム肉が、ケバブとは、まったく別の食材になっていた。三日間煮込まれて、繊維がほぐれ、根菜の甘みと香辛料が、しみ込んで、口の中で、ほろほろと、崩れる。
今までコンビニ食しか食べて来なかった自分が、別の世界の人間に思える。
レナの目が、ふっ、と、潤んだ。
何かが、こみ上げてきた。なぜ、と聞かれても、答えられない種類の感情だった。
ヘルマンが、ちらっと、レナを見た。
「……美味いか」
「……はい」
レナは、ぐすっ、と鼻をすすって、また、スプーンを口に運んだ。
長テーブルの向こうで、青い方の女の子のスマホが、ぴこ、と通知音を立てた。赤い方が、「来た」と短く呟く。青い方が、無言で頷く。
二人は、空になった椀をカウンターに戻し、装甲の擦れる音を立てて、立ち上がった。マリアに「ごちそうさま」「また」と、それぞれ短く言って、ガラス戸を開けて、出ていった。
ガチャ、と、戸が閉まる。
店内に、また、煮込みの音と、湯気の匂いだけが、残った。
レナは、はふはふ、とシチューを食べ続けた。
ヘルマンは、椀の縁を指でなぞって、ゆっくり一口運ぶ。それから、ぽつりと言った。
「ここで、いろんな冒険者を見てきたな」
「……」
「ちょっと前まで駆け出しのガロンが、『俺、いま本気で恋してるんっすよ』とか言ってたのも、ちょうど、その席だ」
「えっ、ガロンさんが」
ガロンが親方に熱く語っている映像。
レナの中で、療養所のミラの顔が、ふっと浮かんだ。
「あの、親方、それって——ミラさんですかね?」
「俺はなんも言ってねえ」
「言ってないだけで、そうですよね」
「俺はなんも言ってねえ」
「……ふふ」
レナは少し笑って、シチューをもう一口運んだ。
ヘルマンは、椀の縁を指でなぞって、続けた。
「ギルマスと出会ったのも、ここだ」
「ギルマスさんも? 冒険者だったんです?」
「もう三十年も前だったな。若い頃のあいつは、『スライム肉など食った気がせん』とか言いながら、毎日五キロくらい食ってた」
「五キロ……五百グラムとかじゃなくて」
「五キロだ」
「そんなに食べるんですね、あの人」
「あいつ、魔法使いだからな」
「……魔法使いだと、食べるんですか?」
「魔力消費の激しい奴は、食い物から魔力を補給する。スライム核がどのくらいの出力か、知ってるだろ」
「百ワット級ですね。リレーとか照明とかに使われる」
「肉のほうも、それくらいだ。普通の冒険者ならそれで十分だが、あいつの魔力上限は底なしで、軽すぎた」
「だから、五キロも食べたんだ」
「五キロだ」
「……他のお客さんのぶん、なくなったんじゃ」
「なくなった」
「あっ」
「店先に干されているぶんも、なくなった」
「あっ、あっ」
「みんな『スライムを食い尽くす気か』って、わーわー言いはじめて、軽い戦争になったな」
「戦争……」
「店の中で、椅子が二脚ばかり、犠牲になった」
レナは、シチューの椀を、見下ろした。
(……あの、ギルマスさん)
(義肢の指で、机を、カチカチ叩く)
(あの人が、五キロ食べて、店の人と、戦争してた)
レナの中のギルマスのイメージが、また、上下にぐらぐら揺れた。
「親方、その時、ギルマスさん、何級の冒険者だったんですか」
「ランクはFだった、駆け出しと変わらん級だった、登録上はな」
「……『登録上は』」
「あいつはこの迷宮都市に来る前から強かった。ただ、強さに見合うクエストを受けられねえ。ランクってのは、そういうもんだ。だから駆け出しが受けるスライム狩りばっかり、やってた」
「強いのに、スライム」
「強いのに、スライム」
「……」
「腹は、満たされなかったろうな」
「だから、五キロ」
「だから、五キロだ」
レナは、ふっ、と笑った。
笑ってから、少しだけ、何かが胸に引っかかった。
(……強い人が、駆け出しの食べ物を、食べてた)
(満たされないまま)
(そういう時期が、あの人にも、あったんだ)
レナはそれ以上、深くは考えなかった。ただ、シチューを、もう一口、運んだ。
スライム肉が、ほろりと崩れる。
「それ以来、あいつはこの店に来なくなった。けれども、とんとん拍子で偉くなって、十年前にギルマスになってから、新しい椅子を運んできた」
「……今の、長テーブルの脇の椅子、それですか」
「ああ」
レナは、長テーブルの脇の古い木の椅子を、もう一度、見つめた。
若いギルマスが運んできた椅子に、今夜、スライム肉を納品しに来た若い冒険者が、座って、串焼きを食べていた。
「親方」
「ああ」
「ここ、すごい店ですね」
「すごくはねえ」
「すごいです」
「飯と椅子があるだけだ」
「それが、すごいんです」
ヘルマンは、何も答えなかった。
ただ、ふっ、と鼻で短く笑って、椀の最後の一口を運んだ。
カウンターの向こうのマリアは、別の鍋の蓋を開けて、中身をかき混ぜている。湯気が、彼女の輪郭をぼやけさせて、ふわっ、と上に消えていった。
***
店を出ると、夜の屋台街は最盛期を迎えていた。
炭の匂い、笑い声、誰かが値段を読み上げる声。レナは、ヘルマンと並んで、工房のほうへ歩いた。
線守が電線を見上げながら歩いている。電線の保守係だ。この街の電線は、しょっちゅうモンスターの被害を受ける。
工房でバルトとお留守番していたフェネクの手を引いて、今度は宿に歩いていく。
宿の前で、レナはヘルマンに頭を下げた。
「親方、ごちそうさまでした」
「ああ」
「あの店、また、行ってもいいですか」
「マリアに聞け」
「マリアさん、なんて言うと思います?」
「『いつでも来な』、だな」
「……ですよね」
レナは少し笑って、宿に戻った。
ヘルマンは、革ジャケットの襟を立てて、屋台街の煙の中に、ゆっくりと、消えていった。
フェネクと一緒に部屋に戻ると、朝に揃えた新品の調理器具一式が、空っぽのキッチンに、並んだままだった。
レナはしばらくそれを眺めて、机に座り、ノートを開いた。
朝、書いたばかりの「自炊、はじめます」の下に、もう何行かを書き加える。
「いつか、シチュー、作れるようになりたい」
「マリアの店、再訪する」
ペンを止めて、しばらく、考える。
(私、まだ、何も作れない)
(でも、何を作りたいかは、決まった)
(あれを、作りたい)
レナは、ノートを閉じた。
鞄からハンカチを取り出して、バジリスク核を、窓辺に置く。先端のLED一つ分くらいの、小さな青い光。
レナは、ベッドに腰を下ろして、軽く伸びをした。
そのとき。
腰のあたりに、ほんの少しだけ、違和感があった。
首を一度ひねって、けれども、すぐに気にしないことにした。たぶん、長く椅子に座りすぎただけだ。
窓の外で、電線天蓋が、いつもの低い唸りを上げている。今夜は、その音が、遠くで友人が呼びかけているように聞こえた。
「フェネク」
『はい、レナ』
「私、この街、ちょっと、好きかも」
『把握しました』
レナは、ふわっと笑った。




