屋台
調理器具一式と、引き換えに薄くなった財布を抱えて、レナはフェネクを連れて、再び街に出た。今度は、食材を買う。
向かったのは、屋外の食品市場だった。
入口に立った瞬間、レナの鼻が、ぴくっと反応した。
ジャンク市で経験した、スライム臭、油の焦げ、甘ったるい腐果の三層臭気。それに加えて、市場ではさらに、生肉の血臭、内臓の発酵臭、よく分からない香辛料の煙が乗ってくる。
「フェネク」
『はい、レナ』
「これ、全部、食べ物?」
『分類上、食用に供されるものです』
「『分類上』って、含みのある言い方ね……」
最初の一軒は、肉屋だった。台の上に、見たことのない大きさの赤紫の肉のブロックが、デンと置かれている。値札に「キボイラー もも肉 三百ガル/百グラム」とある。
レナは、二歩、後ろに下がった。
「これ、足、四本のあれよね」
『キマイラは伝統的に、頭三・足六で描写されますが、王国産の個体キボイラーは四足歩行型が主流です』
「フェネク、その情報、私が必要としてるか、よく考えて」
『失礼しました』
二軒目は、よく分からなかった。水槽の中で、青く発光する細長い何かが、ぐにゃりと泳いでいた。
「……これ、ライン蛭」
『ライン蛭です』
「電線の中にいるやつ」
『電線の中にいるやつです』
「これ、食べるの?」
『燻製にすると、皮が厚くて噛みごたえがある、と地元民には人気です』
「フェネク」
『はい』
「ノー」
『了解しました』
三軒目は、野菜だった。葉物の青菜が、しなびて茶色くなりかけている。値札を見ると、王都の三倍の値段だった。
「これ、いつ入荷したやつ……」
『店主に確認しますか』
「……いや、いい。知らない方が、幸せ」
四軒目に向かおうとした時、レナの足元を、白い装甲のフェネクと並ぶように、もう一体、似たようなサイズの何かが通り過ぎた。
レナの目の高さで、視界の端に、ぴ、と、黄色い光が点滅した。
「ふぁっ!?」
レナは飛び上がった。
通り過ぎたのは、ダイナモンキーだった。尻尾の先で、ぽ、ぽ、と、控えめに発光しながら、屋台の店主が落としたパンの切れ端を、器用に拾って、もきゅもきゅと食べている。
店主はそれを見て、何の反応もしない。むしろ、隣の店主と「今日の昼飯、何にする?」と話し続けている。ダイナモンキーは、店主の足元の影をすり抜け、別の屋台のほうへ歩いていった。
「……フェネク、今の」
『ダイナモンキーです。迷宮都市では最弱のモンスターになります』
「街中、歩いてるんだ」
『日常的な光景と、推察されます』
「……みんな、追い払わないの?」
『追い払う動機が、特に、ないようです』
レナは、ぽかんと口を開けたまま、ダイナモンキーの後ろ姿を見送った。
(……この街、私の知ってる街じゃない)
(うん、知ってた、知ってたけど)
(改めて、知ってる)
四軒目、五軒目と回るうちに、レナはだんだん、何も買えなくなった。
肉は、よく見ると、王都で見たことのある肉が一切ない。牛も、豚も、鶏も、ない。代わりに、見たこともない動物の名前が、雑な走り書きの値札に並んでいる。レナは、肉といえば、家畜の肉しか知らない。実家の食卓に出てきたのは、牛のロースト、豚のソテー、鶏の煮込み——名前と顔が一致する動物の肉だった。
ここの肉は、顔が分からない。
魚介の代わりに水槽に入っているものも、レナが知っているのは「魚は珍味」という程度の知識しかない。それも、王都の高級店で年に数回出てくる、薄切りの白身魚の話だ。こんな、青く光る、ぐにゃぐにゃの長いものは、知らない。
野菜はしなびている。穀物は袋詰めの兵糧用で、十キロ単位でしか売っていない。
ここはモンスターとの戦闘の最前線、兵站が発展した街なのだ。
王都しか知らないレナのメンタルは、そろそろ限界を迎えていた。
(……今日は、いいや)
(食材の調達は、明日にしよう)
(明日、フェネクと、ちゃんと、計画を立てて、改めて——)
レナがそう自分に言い聞かせて、市場を出ようとした、その時だった。
向かいの屋台から、香ばしい煙と、肉の脂がじゅうじゅう焦げる音が、ふわっと漂ってきた。
レナの胃が、ぐぅ、と、思いっきり鳴った。
そういえば、朝から、何も食べていなかった。
レナは、ふらふらと、屋台に吸い寄せられた。
屋台の店主は、四十がらみの中年男だった。革のエプロンに、大量の脂染み。腕には太い火傷の痕が幾筋も走っている。鉄板の上で、子供の腕ほどもある巨大な串が、じゅう、じゅう、と音を立てている。
店先に、木の札がいくつか並んでいた。
「ケバブ 二百ガル」
「串カツ(三本) 百五十ガル」
「ホルモン焼き 八十ガル」
レナは、品書きを、上から下まで、ゆっくり読んだ。
(……ケバブ、って、何の肉だっけ)
(ホルモンは……たしか、内臓?)
(串カツは……何の?)
レナの食知識は、王都の常識で停止していた。ケバブと言えば本来は羊肉で、牛肉や鶏肉も使われている。串カツと言えば二度漬け禁止の牛肉で、ホルモンと言えば内臓、くらい。具体的に何の肉が入っているかなんて、考えたこともなかった。
そんなレナの目に、鉄板の上で焼かれている謎の肉の、その断面が映った。
赤身が強く、脂のマーブルが綺麗に入った、分厚いステーキのような肉。
(……あ、これは、知ってる)
(これ、お肉だ)
(ちゃんと、お肉してる)
レナの脳内で、「赤身の厚切り=食べていいやつ」という、お嬢様基準の太鼓判が押された。
「お嬢ちゃん、初めてかい」
「……は、はい」
「串カツ、一本五十ガル。揚げたてだよ、ひとつ食ってきな」
「これ、何の肉ですか」
店主は、にっと笑って、
「うちの肉だ」
「……」
「美味いぞ」
「……分かりました、ください」
レナは、結局、何の肉か分からないまま、串を一本、買った。
ずっしり、と重かった。
レナは屋台の脇に立って、立ち食いの作法に従って、おそるおそる、一口、かじった。
香辛料の効いた肉汁が、口の中で、ぶしゅっと弾けた。
(……美味しい)
(うん、これ、お肉の味)
(ちゃんと、知ってる味だ)
レナはほっとした。何の肉かは分からないが、口の中の感触は、ちゃんと「肉」だった。お嬢様の脳が、安心した。
二口目を、頬張った。
ガリッ。
レナは、口の中で、明らかに肉ではない何かを、噛んだ。
舌で慎重に、その異物を、奥歯から、口の前のほうへ移動させる。
(……石?)
(いや、石じゃない、これ、固さが)
(……魔石?)
レナは、口元を手で覆い、ハンカチを取り出して、慎重に、お行儀よく、口の中のものを取り出した。
豆粒よりやや大きい、青みがかった半透明の——魔石。
ここから、レナの仕事脳が、勝手に作動した。
これは、ほとんど反射だった。三年間、AGマギクラフトの開発部で、毎日のように魔石の規格表を眺めてきた人間の、職業病。目に入れば、勝手に分類が始まる。
(出力、目視で約五百三十ワット)
(色は……水と土属性の、マーブル模様)
(中の黒星は、三つ……毒精製魔法、特化型)
(出力レンジ、属性パターン、星の配置——)
レナの脳内で、規格表のページが、ぱらぱらと、自動でめくれる。
該当ページに、止まる。
「バ、」
レナの口が、勝手に動いた。
「バジリスク核……!」
ここで、初めて。
レナの中で、「肉=家畜」「バジリスク=モンスター」という二つの引き出しが、初めて、衝突した。
衝突して、ショートした。
「……」
レナの目の前が、すーっと、暗くなった。
膝が、ふにゃっ、と、力を失った。
屋台の店主が、ひょい、とレナの肩を支えた。
「お、お嬢ちゃん、大丈夫か!」
「……」
「あー、当たったかい、お嬢ちゃん。ついてるな!」
「……」
「魔石、入ってたんだろ、それ。客に出ちまうのは、たまにあるんだ。ま、おまじないだと思って——」
店主の声が、ぽわんぽわんと、遠くで聞こえた。
レナは、握ったハンカチごと、魔石を胸元に抱えて、目を見開いたまま、ふらっと、もう一度、膝の力を抜いた。
「お、おい、お嬢ちゃん!」
ここで、レナは、もう一段、別の引き出しを、自分で開けた。
仕事人間としての、自動復旧モードである。
レナは、ぐらりと揺れた頭を、まっすぐに、戻した。
口元を拭い、ハンカチを軽く握り直し、店主に向かって、少しだけ、職業的な微笑みを作った。
「……だ、大丈夫です」
「いやいや、絶対、大丈夫じゃないやつだろ、それ!」
「大丈夫、弊社で、よく使っている、『バジリスク核』です。ちょっと、仕事のことを、思い出して辛くなっただけです」
「……お嬢ちゃん、仕事、何してんの」
「家電メーカーの、開発部です」
「……」
「失礼します」
レナは、店主に深々と頭を下げ、ハンカチに包んだ魔石をぎゅっと握りしめて、屋台の脇から、ふらふらと離れた。
店主は、ぽかんと口を開けて、後ろ姿を見送った。
数歩歩いたところで、フェネクが、ぴ、ぴ、と、いつもより短く点滅した。
『レナ』
「……何」
『顔色が、悪いです』
「分かってる」
『先ほどの『大丈夫です』は、適切な発話でしたか』
「適切だったわよ」
『医療基準では、不適切と推測しますが』
「フェネク」
『はい』
「仕事のことを、思い出しただけ、なの」
『……了解しました』
フェネクは、それ以上、追及しなかった。観察だけ、した。
レナは、握ったハンカチの中で、青くて重い魔石の感触を、ずっと感じていた。
(うちの会社、これ一個に、卸値で八千ガル払ってるのに……)
(なんでこれが一本五十ガルの串カツに混ざって出てくるの……)
(というか、私、バジリスク食べたんだ……)
レナの中で、王都のお嬢様の脳と、迷宮都市の現実が、もう取り返しのつかないところまで、混ざり合った気がした。
それでも、レナは、立っていた。
仕事人間として、立っていた。
「フェネク」
『はい』
「次の目的地を、推奨してくれる?」
『ヴァイス工房でご飯を頂きましょう』
「……行く」
レナは、即答した。
自炊する気は、もう、完全に、消えていた。




