第75章:休校の昼下がりと痛切な問い〜秘書・誠の揺れる心〜
サファリア女子大が休校となり、かすみはしばらくの間、納屋財閥の広大なお屋敷で静かな日々を過ごすことになった。
外の世界では、南条財閥の冷徹な包囲網や、貝森拓人を支配する如月あやめの狂気が渦巻いているというのに、この屋敷の中だけは嘘のように穏やかな時間が流れている。
しかし、かすみの心の中は決して穏やかではなかった。
リビングのふかふかのソファに身を沈め、かすみはぽつりとため息をついた。その視線の先には、いつものように完璧な姿勢で静かに控える秘書・長谷部誠の姿がある。
「ねぇ、誠さん」
かすみが声をかけると、誠は静かに一礼して顔を向けた。
「はい、かすみお嬢様。何なりとお申し付けください」
「大学がしばらくお休みになってしまったから、一体何をしようかしら。……ねぇ」
かすみはそこで言葉を切ると、膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、すがるような瞳で誠をまっすぐに見つめた。心の中にずっと渦巻いていた、誰にも言えなかった不安と迷いが、ふいに口をついて出てしまったのだ。
「私……このまま南条隼人さんとお付き合いしたほうがいいの?」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気がピンと張り詰めた。
「拓人くんの心はもう私にはないし、実家同士の縁談も進んでいる……。私が大人しく南条財閥の縁談を受け入れて、あの人の腕の中にいれば、もうこれ以上誰も傷つかずに済むのかしら……? ねぇ、誠。お願いだから教えてよ」
その痛切な問いかけに、誠の端正な表情が、ほんの一瞬だけ苦しげに歪んだ。
納屋財閥の秘書として、お嬢様の決定に従い、家同士の利益を優先して後押しするのが彼の絶対の使命である。だが、一人の男として、誰よりもかすみを密かに深く愛している誠にとって、かすみが自分から「別の男の腕の中に収まるべきか」と問うてくることは、鋭い刃で心臓をえぐられるほどに残酷な仕打ちだった。
かすみの震える声が、沈黙の落ちた部屋に響く。
完璧な執事の仮面の下で、誠の感情がかつてないほど激しく波打っていた。南条隼人の狂愛から愛するお嬢様を力ずくで奪い返したいという男としての本能と、身分違いの恋情を永遠に押し殺さなければならないという秘書の絶望。
誠はかすみの痛々しい表情から目を逸らすことができず、ただゆっくりと彼女の前に歩み寄り、静かに片膝をついたのだった――。
76章に続く




