第391章:逃亡のヒロイン、夜桜の雨
「――かすみさん、落ち着いて。碧はただ――」
あやめが必死に肩を抱きしめ、拓人が静かに諭そうとするが、かすみの耳にはもう、どんな慰めの言葉も届かなかった。
頭の中で、碧のあの苦しげな拒絶の顔と、『こんな気持ち、俺には分からないんだ』という声が、歪んだ残響となって何度も何度もリフレインしている。
「……私、離婚なら離婚って、はっきり言ってほしかったよ……っ」
かすみは虚ろな瞳から大粒の涙を溢れさせながら、ぽつりと呟いた。
「どうして他の人の意見なんて聞くの……? 碧さんがあんなに苦しんで、頭がおかしくなりそうなくらい傷ついているのに……。はっきり『お前なんかもういらない』って捨ててくれたらよかったのに……」
「かすみさん……」
「ごめんなさい、あやめさん、拓人さん。……私、もう早瀬碧の妻でいられないって思ったの。私がいるだけで、碧さんをあんな魔物みたいに変えてしまうなら……私は、彼の隣にいる資格なんて最初からなかったんだわ」
かすみの心は、完璧にポッキリと折れてしまっていた。碧への深い愛ゆえに、自分が彼の人生における「最大の猛毒」になってしまったという罪悪感に、その華奢な身体は限界を迎えていたのだ。
「かすみさん、待ちなさい! 碧を連れ戻してくるから――」
あやめが慌てて立ち上がった、その一瞬の隙だった。
「――本当に、お世話になりました。ごめんなさい……!」
かすみは縋りつくあやめの手をすり抜けると、応接室のドアを激しく開け放ち、狂ったように走り出した。
「おい、かすみさん! 待つんだッ!」
拓人が慌てて後を追うが、かすみはヒールを脱ぎ捨て、裸足のまま貝森邸の長い回廊を駆け抜けていく。子供たちがパーティーを楽しんでいる大広間の声を背中で聞きながら、彼女はただ、自分が消えることだけを願って走った。
重厚な玄関の扉を押し開けると、外はいつの間にか、冷たい春の雨が降り始めていた。
満開の夜桜を濡らす雨の中、かすみは白いドレスを泥で汚しながら、夜の闇の中へと静かに、しかし確実に姿を消していった。
残されたのは、玄関にぽつんと残された彼女の靴と、激しく降り続く雨の音だけ。
信頼する親友夫妻の元からも逃げ出し、自ら繋がりのすべてを断ち切って失踪したかすみ。完璧に引き裂かれた早瀬夫婦の運命は、誰も予想し得ない最悪の局面に突き落とされるのだった。
「本作の執筆にあたり、誤字脱字の確認や文章整理のためAIを利用しています(規約に基づき修正案の提案は受けない設定で使用)。物語の構成や本文作成は全て自分で行っています。」




