第295章:名前のないベッド
手術の翌朝。病室を包む朝日は、皮肉なほどに明るく、透明だった。
碧が医師からの今後の説明を聞くために一瞬だけ部屋を外した、そのわずかな時間に、一人の看護師が沈痛な面持ちでかすみのベッドの傍らに立った。
かすみの手を優しく、けれどしっかりと握りしめ、看護師は静かに告げた。
「かすみさん。……とてもお辛いお話ですが、現実を受け止めなければいけません。……お腹の赤ちゃんは、ダメだったのよ」
「え……?」
かすみの世界から、一瞬ですべての音が消え去った。
「今はどうか、ご自分を責めないで。ゆっくりと体を元に戻して、体調を回復させましょうね。私たちは全力であなたをサポートしますから……」
看護師の優しい慰めの言葉は、今のかすみの耳には一切届かなかった。
「そんな……嘘……。私と、碧さんの赤ちゃんが、いない……? そんなわけない……だって、さっきまで私のすぐそばで、子猫と一緒に寝ていたのに……っ!」
動転したかすみは、看護師の手を振り払うようにしてベッドから飛び降りた。
まだ手術の傷が激しく痛むはずの体を引きずり、点滴のスタンドをガタガタと鳴らしながら、狂ったように病室を飛び出していく。
「かすみさん! ダメです、まだ歩いては……!」
止める看護師の声を背に、かすみはただ一つの場所を目指して、狂おしい執念で廊下を走った。
(いるはずよ……。私の赤ちゃんは、絶対に生まれて、あの中にいるはず……っ!)
辿り着いたのは、ガラス越しに生まれたばかりの新しい命たちが大勢眠る、新生児室の前だった。
パタパタと手足を動かす愛らしい赤ちゃんたち。それぞれの小さなベッドには、お母さんの名字が書かれた可愛い名札が誇らしげに掲げられている。
かすみはガラスに両手を押し付け、血眼になってその名札を一つずつ確かめていった。
「どこ……? 私の赤ちゃんはどこにいるの……?」
佐藤、鈴木、田中、高橋……。
何度も、何度も、端から端まで全てのベッドを目で追った。しかし、いくら探しても、どれほど目を凝らしても、かすみが一番見つけたいはずの、あの誇り高き二人の愛の証である名字は、どこにも見当たらなかった。
――『早瀬』の名字が、どこにもなかった。
「あ……、あ、ああ……っっ!!」
その瞬間、かすみは自分がずっと温かい夢の中にいたのだと、残酷な現実の壁に叩きつけられた。
『早瀬』の名字を持つ我が子は、この世界のどこにも存在しない。その圧倒的な絶望が、かすみの全身の力を奪い去った。
「いやぁぁぁーーーっ!!! 赤ちゃん!!! 私の赤ちゃん、どこにいっちゃったの分からなぁぁぁい!!! 嫌よ、嫌ぁぁぁーーーっっ!!!」
かすみはその場に激しく泣き崩れ、冷たい廊下の床にへたり込んだまま、声を枯らして大きな声で泣き叫んだ。
駆けつけた碧が、涙を流しながらかすみの小さな体を後ろから狂おしいほどに抱きしめる。子供たちの、そして貝森夫妻の泣き声が遠くで響く中、かすみの張り裂けんばかりの慟哭だけが、静まり返った病院の廊下にいつまでも、いつまでも冷たく木霊していた。
「本作の執筆にあたり、誤字脱字の確認や文章整理のためAIを利用しています(規約に基づき修正案の提案は受けない設定で使用)。物語の構成や本文作成は全て自分で行っています。」




